こんにちは。はじめして佐倉さん、以後よろしくお願いいたします。私は佐倉さんのホームページを見て 感銘を受けました。これからも熱心なキリスト教批判を情熱的に続けてほしいと思います。私はキリスト教 撲滅運動を展開しているので聖書の矛盾について勉強している佐倉さんのような方がもっともっと増えれば いいのにと思います。ところで今日は少し気になったことをお伝えしたいと思います。

佐倉さんが指摘されていたペテロの離反とイエスの予言についての矛盾についてのことなのです。

マルコによる福音書 14:66-72a
ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」しかし、(1)ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。(2)ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」すると、(3)ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなた方の言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。
私は新約聖書を二冊もっています、一冊は日本聖書教会発行の1954年改訳版でもう一冊は 国際ギデオン教会が無償配布している新改訳版の英語と日本語の両方の訳が書かれている新約聖書です。 何が問題かといいますとこの二冊の聖書には佐倉さんが指摘していた「そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。」 という最初の鶏が鳴く部分の「鶏が鳴いた。」という記述が削除されていていて「出口のほうへと出ていった。」で68節目 が終わっているのです。さらに驚いたことに72節目では「するとすぐに、鶏が、二度めに鳴いた。」と書かれているのです。 これはいいのがれできないでしょう、二度めという記述を明らかに使っている以上一度目の「鶏が鳴いた。」というところ を意図的に削除したとしか考えられません。この二つの聖書は良心的な訳がなされていないのでしょうか。 ともかくこれは非常に卑劣な削除の仕方だと思います。この点をついて教会批判の材料にしたいのですが佐倉さん のためになるご意見を聞かせてもらえればとても心強いのですが。どうも手前勝手なことばかりいいましてまことに もうしわけありませんでした。佐倉さんのホームページファンとして緻密な理論の展開を期待しております。 それではまた、さようなら

http://www.patriciaent.com/home/raitei/index.html

ちなみにここが私のホームページです。佐倉さんのページを随分 参考にさせてもらっています。本当に佐倉さんには感謝しています。 これからも頑張ってください。

(1)マルコ14:68の「鶏が鳴いた」

この部分は写本によって相違があり、現在ではどちらが原本どおりなのかわかりません。そのため、ある翻訳者は「鶏が鳴いた」のある写本を採用し、他の翻訳者は「鶏が鳴いた」の欠落している写本を採用する、という混乱が生じているわけです。新共同訳やNRSVでは前者を、(新)改訳やNIVでは後者を採用しています。したがって、この部分が翻訳に欠けているからといって、このばあい、翻訳者が「意図的に削除した」と結論するわけにはいきません。

しかし、ご指摘の通り、72節では「鶏が、二度めに鳴いた」となっているわけですから、あきらかに「(一度目に)鶏が鳴いた」を含んでいる写本の方が自然です。したがって、この部分を欠落している写本の写字生が、意識的あるいは無意識的に、欠落させたとも考えられます。いずれにしても、(新)改訳やNIVのような保守的な聖書の翻訳者が、かれら自身で「意図的に削除した」のではないにしても、より不自然な方の写本を選んだ背景には、マルコの記述を他の福音書と調和させたいという意図があったであろうことは、容易に想像できます。


(2)聖霊の働きはなかった

聖書にはこのような写本相互間の相違が無数にあります。そのために、写本からは、いったいどれが聖書の原本通りなのかわかりません。この事実は、聖書の内容が間違いないように現代のわたしたちに伝達されるように働いた、そのような聖霊の存在を想定することを困難にしています。


(3)キリスト教撲滅運動?

なんども繰り返していること(「浜田さんへ」「ただのひとさんへ」「沖広さんへ」「奥野さんへ」)なのですが、それでもしばしば誤解されていますので、本サイトの読者のために、「キリスト教撲滅運動」に関するわたしの個人的な立場を、もういちど明らかにしておきたいと思います。

わたしは聖書やキリスト教を批判するのに遠慮はしませんが、わたし個人としては「キリスト教撲滅運動」というようなものには反対です。ある個人がその人の判断でキリスト教を受け入れようが受け入れまいが、あくまでも、その人の自由の問題であって、他人がとやかく言う問題ではない、というのがわたしの立場です。とくに、カルト狩り運動のような、身体的に信者を監禁拉致して信仰を捨てさせるような強制的行為は、単に不法的であるだけでなく、もっとも軽べつに値するものと考えています。まさかとは思いますが、もし、「キリスト教撲滅運動」が、そのようなものであるとするならば、わたしは、かならず、キリスト教(やその他の宗教)の信仰の自由を守る側に立つでしょう。