奥野です。早速お返事をいただきまして有り難うございます。ただ、私の質問の仕方が少し曖昧だったようなので、もう一度質問させて下さい。

(1)対象と方法について

私が、「だれが、あるいはどういう団体が、こういう主張(「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、全て正しくいかなる間違いも含まない」)をしているとお考えなのでしょうか」とお尋ねしたのに対し、佐倉さんは、

聖書の無誤謬性を信じているクリスチャンは、いわゆる「ファンダメンタリスト」と呼ばれるクリスチャンです。
と、答えておられます。ということは、あなたのサイトはファンダメンタリストと呼ばれるクリスチャンが信じている聖書の無誤謬性を吟味するということだと思いますが、私が疑問に思ったのは、はたしてあなたが取っておられる方法が、その対象としておられるものに対して本当に有効な方法なのかということです。

佐倉さんは、「すのはら」さんとのやり取りのなかで、

先ず、明確にしておきたいのは、「ファンダメンタリスト」と呼ばれているクリスチャンの立場は、すのはらさんがおっしゃるように、「科学的にも正しいはずだ」あるいは、「聖書に書かれた字義のとおりに正しい」とする考え方ではありません。そうではなくて、聖書を字義通りに解釈するにしろ、あるいは象徴的に解釈するにしろ、あるいはまた科学的に解釈するにしろ、あるいは科学の限界を示唆することによって超越的に解釈するにしろ、つまるところ、聖書に一切の誤謬を認めないように聖書解釈を工夫するのが、ファンダメンタリスト・クリスチャンの立場です。「字義のとおり」どころか、全く逆に、聖書に誤謬がないように解釈するために様々な拡大解釈を許容するところに、その決定的特徴があるのです。
と、言われておりますが、「字義のとおりどころか、全く逆に、聖書に誤謬がないよう様々な拡大解釈」をするファンダメンタリストといわれる人達に対して、その拡大解釈の妥当性を問うことなく、字義のとおりに読めば聖書には間違いがある、といくら主張したところで、彼らにはあまりインパクトはないように思われます。


(2)「切実な問題」について

私が、「このテーマがあなただけでなく、他の誰かに取っても同様に切実な問題なのか」とお尋ねしたのに対し、

果たして聖書は本当に神の言葉なのか、という問いは、多くのクリスチャンにとっても、当然、切実な問いであろうと思っています。
と、言われております。たしかに、聖書が本当に神の言葉なのかということは、キリスト教の本質に係ることであり、多くのクリスチャンと同様、私も大いに興味を持っております。ただ、私がお尋ねしたかったのは、(1)の問題とも関連があるのですが、聖書をそのまま素直に読めば多くの間違いがあるということが、誰にとって切実な問題なのかということです。あなたのサイトに投稿された幾人かの方が指摘されているように、現代の多くのクリスチャンは、この点については既知のこととしてあまり切実には感じていないように思われます。また、ファンダメンタリストと言われる人達は、あなたが指摘されたように、「様々な拡大解釈」によってこの問題をクリアしているとするならば、ということでお尋ねした訳です。

(1)誤解されています

あなたのサイトはファンダメンタリストと呼ばれるクリスチャンが信じている聖書の無誤謬性を吟味するということだと思いますが、・・・「字義のとおりどころか、全く逆に、聖書に誤謬がないよう様々な拡大解釈」をするファンダメンタリストといわれる人達に対して、その拡大解釈の妥当性を問うことなく、字義のとおりに読めば聖書には間違いがある、といくら主張したところで、彼らにはあまりインパクトはないように思われます。
ただのひとさんとおなじように根本的な誤解をされています。もう一度ただのひとさんとのやりとりを読んでいただきたいのですが、わたしはファンダメンタリストといわれる人々が主張している「聖書はすべて神の言葉であって、いかなる誤謬もない」という主張を、わたしのために吟味しているのであって、ファンダメンタリストのために吟味しているのではありません。「聖書の間違い」シリーズは、彼らにインパクトをあたえるための批判ではありません。

また、彼らの「拡大解釈の妥当性」についても、たとえば、「太陽の創造時期に関する間違い」などを見ていただければわかるように、そのような投稿があるかぎり、一つ残らず(わたしのために)吟味しています。

わたしが、「聖書の間違い」シリーズでもともと期待していたのは、この例のように、わたしが指摘する「間違い」のひとつひとつに対して「それは、これこれこういうわけで、間違っているのではない」というような正面からの反論です。いまのところ、そのような正面からの具体的な反論は、わたしが初めに期待していたよりも少ないのですが、インターネットがもっと一般的に普及するにしたがって増えてくるかもしれません。そうすれば、もっと、彼らの「拡大解釈の妥当性を問う」ことができます。


(2)信仰と真理

現代の多くのクリスチャンは、この点については既知のこととしてあまり切実には感じていないように思われます。また、ファンダメンタリストと言われる人達は、あなたが指摘されたように、「様々な拡大解釈」によってこの問題をクリアしているとするならば、ということでお尋ねした訳です。
自分の信じている内容が間違っていることを指摘されても、それを「あまり切実には感じていない」理由は、一つしかありません。それは真理を知ることに興味を持っていないからです。クリスチャンは、真理を知ることよりも、自己の個人的な救いに興味を持っているために、自分の救いを否定しかねない真理を直視することができないのだろうと思いますが、それが、クリスチャンをして、真理の探究者ではなく、ドグマの奴隷にしているのだと思います。

いわば、自己の救いのための信仰への執着が、かれらの知的良心を麻痺させているために、聖書に間違いがあるとは認めたくないクリスチャンは、彼らの拡大解釈の非合理性が気にならず、また、「聖書は間違いがあっても神の言葉なのだ」というクリスチャンも、その主張の矛盾がまったく気にならないのだろうと思います。だから、自然に

この「聖書の間違い」がやっていることは、じつは、この(知的良心の)問題を光の下にさらしだす営みと言えるかもしれません。 (「作者よりsuezoさんへ」)
ということにもなっているわけです。