佐倉さま

幸福の科学の信者のsoneと申します。 博学な知識をご披露頂き、誠に有難うございました。

前回、私が申し上げたかった事は、一点に集約されます。

「真実を観る眼がお曇りのご様子で、本当に残念に思っております。」

すなわち、 佐倉さまは、この「観る」という意味を捉えていらっしゃらないのです。 (勿論、言葉の定義とか、論理としてという意味ではありません。) 従って、「眼が曇る」という意味も連動して捉えていらっしゃらないのです。

まず、佐倉様さまの引用された(『永遠の法』、217〜221頁) は、旧版の『永遠の法』の内容ですから、新版を勉強される事をお勧めします。

該等部分は、大川総裁先生の法のご発展により、大きく変更されていますので ご注意下さい。

ゲーデルの不完全性定理について、不用意な発言をしたために、火に油を注い でしまったようで、大変申し訳なく思います。 佐倉さまが、如何に数学系統にご精通されていらっしゃるのかは存じませんが、

佐倉さまのおっしやるご説明の結論で、

平たく言えば、自然数論を含むほどの複雑な体系の無矛盾性はその体系内では 証明できない、ということです。
とございますね。要は、正に「ゲ−デルの不完全性定理」の通り、ある 論理命題の無矛盾性は、その体系内では証明できない場合もある。→ その論理命題を含む体系(論理の全体集合といってもよい)内では証明 できない場合もある、という事に自然数論という言葉を入れたに過ぎま せんね。

但、最期の部分は、つい調子に乗ってしまった事を深く反省しております。 論理の破壊という自覚を持ちつつ、論理で証明出来ない真実を何とか佐倉 さまにお伝えしようとしたかったのですが、見事にカウンター・パンチを 頂いてしまいましたね。

佐倉さま、宗教は頭だけで考えるものではありませんね。腹もしくは、胸で 捉らえないと、まるで映画「CUBE(要は、論理体系の象徴)」の外界へ 出られない登場人物達のようになってしまっては哀れです...。

それでは。

1.「宗教は頭だけで考えるものではありません」

佐倉さま、宗教は頭だけで考えるものではありませんね。腹もしくは、胸で 捉らえないと...。
まったくそのとおりです。神とか、霊界とか、死後の世界とかといった宗教世界は、人間の認識能力の届かない領域の事柄です。ですから、信仰とは、人間が知ることのできない事柄について、本当は何も知らないくせに、まるでなにか知っているかのごとく思い込むことです。


2.大川さんの悟りの正体

まず、佐倉様さまの引用された(『永遠の法』、217〜221頁)は、旧版の『永遠の法』の内容ですから、新版を勉強される事をお勧めします。

該等部分は、大川総裁先生の法のご発展により、大きく変更されていますのでご注意下さい。

旧版の『永遠の法』によれば、あきらかに、エル・ランティこそが聖書の神(イエスが「父なる神」と呼んだ、創造主ヤーヴェ)であるとしています。わたしは新版を持っていませんが、もし、新版がsoneさんのいうように、聖書の神は、エル・ランティではなく、エル・カンターレであるというふうに「大川総裁先生の法のご発展により、大きく変更されて」いるとすれば、旧版の『永遠の法』における「大川総裁先生の法」は間違っていたということになるわけですね。

これはずいぶんおかしな間違いです。なぜなら、大川さんはご自分がエル・カンターレであることを主張されているからです。大川さんは、すでに、

81年3月23日に、大悟するとともに、同年7月、人類救済の大いなる使命をもつ、エル・カンターレであることを自覚

(大川隆法著、『釈迦の本心』、著者紹介文より)

しておられるのです。1981年に、大川さん本人が「エル・カンターレであることを自覚」しているのに、1987年には、聖書の神は、自分(エル・カンターレ)ではなく、他人(エル・ランティ)であると思っている(旧版の『永遠の法』)のです。それが、いつのまにか、聖書の神は自分(エル・カンターレ)であるといっている(新版)。めちゃくちゃです。

「人類救済の大いなる使命をもつ」神様が、神様を取り違える間違いをしてはいけません。これでは神様失格です。ましてや、自分(エル・カンターレ)を他人(エル・ランティ)と取り違えるのはおかしな間違いです。これは、「大川総裁先生の法のご発展」などではなく、大川さんの悟り(「悟性で観る真実」)の正体が、実は、人間が知ることのできない事柄について、本当は何も知らないくせに、まるでなにか知っているかのごとく思い込んで語ったデタラメの寄せ集めにすぎないことを示す典型的な例と言えるでしょう。