佐倉さま

初めまして。幸福の科学の信者のsoneと申します。

大川総裁先生は、お釈迦様の転生されたお方です。そして、イエス様が主と呼ばれたエル・カンターレというご尊名のお方です。佐倉さんは、大川総裁先生のご著書をお読みでいらっしゃるにもかかわらず、真実を観る眼がお曇りのご様子で、本当に残念に思っております。大川総裁先生は、慈悲、愛そして智慧の光源・泉・エネルギーのご存在そのものでいらっしゃいます。

以上に述べた事は、残念ながら証明は不可能なのです。

願わくば、悟性を磨ぎ澄ませて、大川総裁先生のお言葉の奥の大陽の如くの大いなる法を観て頂きたい、受けて頂きたいと思います。ゲーデルの不完全性定理により、20世紀の科学者、哲学者が腰を抜かした 様に、論理の限界、言葉の限界が厳密に証明されています。従って、不合理な事象の中に存在する真実もあるという事なのです。ここに、信仰という行為の合理性の根拠がございます。

最後に、佐倉さまの真なる幸福を心よりお祈り申し上げます。

△エル・カンターレ ヒ−リング!合掌。

1.イエスの父なる神は誰か

大川総裁先生は、お釈迦様の転生されたお方です。そして、イエス様が主と呼ばれたエル・カンターレというご尊名のお方です。佐倉さんは、大川総裁先生のご著書をお読みでいらっしゃるにもかかわらず、真実を観る眼がお曇りのご様子で、本当に残念に思っております。
大川隆法さんによれば、「イエス様が主と呼ばれた」イエスの父なる神は、「エル・カンターレ」ではなく、「エル・ランティ」という神です。 大川さんはこう言われています。
残りの三人の中で最大の方、つまり、最大の力をもっている方の名は、エル・ランティと言います。もっとくわしく言うと、アール・エル・ランティと言います。この方は今から三億九千年前に、肉体をもった人類の先祖をこの地上に連れて来た、偉大なる指導者の霊であります。この方は、主として、人類の進化ということを非常に進めた方であり、歴史的にはアラーの神と言われている方でもあります。つまり造物主と俗に言われているのが、このエル・ランティなのです。・・・アラーという名前以外では、砂漠地方において、エホバとか、ヤーヴェなどという名前でも呼ばれて来ました。

・・・まあ、こうした偉大な神霊の一人として、エル・ランティという高級神霊がおりますが、これ以外に有名な方としては、ゴータマ・ブッダ、釈迦牟尼仏として出た生命体があります。・・・この生命体の起源は、エル・ランティよりもさらに古く、地球における一番古い霊であります。・・・この釈迦の生命体が、過去、ラ・ムーとして、ムー帝国に出たり、トスという名前で、アトランティス帝国に出たり、ギリシャの地に、ヘルメスという名前で出たりしたということはすでにお話したとおりであります。・・・ですから、法というものをたぐっていくと、結局、この釈迦の意識、これを九次元ではエル・カンターレと言います・・・。 (大川隆法、『永遠の法』、217〜221頁)

つまり、大川さんによれば、イエスの父なる神(造物主、アラー、ヤーヴェ)はエル・ランティという神であって、エル・カンターレという神は「エル・ランティよりもさらに古」い別の神様(釈迦の意識)です。

あなたも幸福の科学の信者なら、もっと大川総裁のお言葉を勉強して、出直してきてください。


2.ゲーデルの不完全性定理

ゲーデルの不完全性定理により、20世紀の科学者、哲学者が腰を抜かした様に、論理の限界、言葉の限界が厳密に証明されています。従って、不合理な事象の中に存在する真実もあるという事なのです。ここに、信仰という行為の合理性の根拠がございます。
論理を無視するあなたに、論理を駆使して証明した「ゲーデルの不完全性定理」を理解することは無理ではないかと思いますが、「ゲーデルの不完全性定理」は「論理の限界、言葉の限界が厳密に証明されて」いるものでもなく、「不合理な事象の中に存在する真実もあるという事」でもありません。また、ときどき、あやしげなゲーデル紹介書にセンセーショナルに書かれているように、人間の理性の限界を示したものでもありません。

「ゲーデルの不完全性定理」とは、

(第一定理)自然数論の公理系Nがω無矛盾ならば、ある自然数nが存在し、Pr(n)もその否定も公理系Nでは証明不可能である。

(第二定理)自然数論の公理系Nの無矛盾性は公理系Nにおいては証明できない。

注:Pr(n)は「ゲーデル数nの式は自然数論の公理系Nにおいて証明可能である」というメタ数学的命題を意味する自然数論の公理系Nの式。また、「自然数論の公理系N」とは、基礎的論理学(一階の述語論理)の公理系に自然数とその計算の規則を定義した体系を加えたもの。(くわしくは、野矢茂樹著、『論理学』、東京大学出版会、など参照してください)

ゲーデルのこの不完全性定理に「腰を抜か」すためには、数学が論理学の一部であることを証明しようとしたフレーゲやラッセルの仕事(これは、数学と論理学を峻別したカント哲学と対照的な試みです)、さらに、数学の形式的体系(意味抜きの記号変形システム=公理系)の無矛盾性を「有限主義」と呼ばれる方法で証明しようとしたヒルベルトの仕事に強く共感しておかねばなりません。なぜなら、ゲーデルの不完全性定理とは、その試みがどんなに頑張っても成功しないことを証明したものだからです。

ところで、ゲーデルは、1931年の論文で数学の不完全性定理を証明したその数年前、1929年に論理学の完全性定理を証明していますが、これを「ゲーデルの完全性定理」といいます。つまり、少々乱暴な言い方をすれば、さまざまな体系の中で、基礎的論理学だけが完全であり、それ以上の体系は、たとえ数学のようなきわめて厳密な体系でさえも、不完全である、ということです。

「論理の限界」について語りたいのなら、「ゲーデルの不完全性定理」(数学の不完全性の証明)について空論を語る前に、まず、「ゲーデルの完全性定理」(基礎的論理学の完全性の証明)でもゆっくり学んで、舞い上がったその頭を冷やされることをお勧めします。