こんにちは。以前メールしたコリーです。 大変御丁寧なお返事感謝します。いちいちなるほどとうなずかされるしだいです。 いくらか返答したいと思います。

一番納得したのは、幸福という快楽を得るために自らの魂を売ったというやつです。 まさにその通りですね。彼等は世の中の為にでもなんでもなく、自分自身の為に100%の 信仰をしてるんですね。人間の尊厳を失ってまでも。 彼等は幸福幸福と他人の何倍も叫んでます。そしてそれを他人に頼まれてもいないのに 分け与えようとしてます。仏の慈悲の心だからとかなんとか言ってますが、実際は勝手な 使命が理由だと思うので、偽善ぽくてしかたないです。

私があれだけ反対したにもかかわらず、こちらが誤解してると思って、本が送られて きました。本を読めばわかるといわんばかりに。それで自分だけはよいことをしたと 満足感がいっぱいで幸せな気分に浸っているのです。 真に相手のことを慮るならば自分の幸せを押し付けるのではなくて、相手がどうすれば 喜ぶかというのを考えて行動すると思うのですが、信者さんは人間の良心と良識を 失ってしまったような気がいたします。それを責めても自分は悪くなく、それに応えない 私に非があるらしいです。慈悲の心とは一切無縁ですね。

ただ私には信者が教祖のことを「おかしい」と知ってるとは到底思えません。なぜなら 大川氏は神であると心から信じているからです。それは自分が幸せになれるからという ことはそうなんでしょうが、まず信じることから始まっているのでおかしいというところが あっても、逆におかしいのはそれに適合しない自分たちのほうであると思うだけだと思います。 おかしいことをあげつらっても、それを認めないようにではなくて、うまく言えませんが それを無理やり正当化して自分を納得させてるみたいな、なんというかうまい理由が 思いつくと安易にそれを受け入れてしまってしまい、もう考えることをやめます。

ひどいのは、なぜ教祖が信じられるのかと問うと、無償で世の中をよくしようと日々我々を 指導してくれるからだとか。あれだけ叩かれても努力をやめないで。こんな素晴らしいこと出きる 人はいないと。 どうやったらそうなるんでしょうね。彼は結果として大金と権力を手にすることができました。 全く無償とはほど遠い。これのためなら多少叩かれてもくじけるわけがありません。特に 彼のような強欲な人間は。

話は変わって、一行目から心を打ち震わすほど感動してしまうとかって本当なんでしょうかねえ。 涙がこぼれるとか、そういう部分も人によってはあるかもしれませんが、読む前から感動するなんて どうにも信じられないです。都合よくでっちあげてるだけだと思うのですが、マインドコントロールに よって信者はその通りだと思ってしまうんでしょうね。 かなりの情報操作があると思います。こちらが言っても「証拠はあるの?」や 「その本は本当に信用できるの?できるならなんで?」の一点張りでまったく 信用しようとしませんし。証拠はあるわけありませんね。 私はやはり少しでも本人がおかしいと思っている心が残っているならば、こちらの諫言に耳を 貸そうとすると思います。だから信者は全くおかしいとは思ってないと考えます。 私は信者さんたちは初めから空想的な人物だったとは思えないのです。信者になってから マインドコントロールの手法によって空想的なものばかりを信じ込む人間に変えられてしまった ように思えます。

最後に、紹介された祈願ですが私初めて知りましたがおかしいですね。幸福の科学は自助努力 をするのが目当てで小乗的なものだと思ってました。祈願っていうのは思いっきり他力本願じゃ ないですか。なんか矛盾してるような気が。サリンをまかないだけでオームとほとんど同じ団体と 思ってました。でも大乗的なところがあるなら違うみたいですね。

それでは。

ただ私には信者が教祖のことを「おかしい」と知ってるとは到底思えません。なぜなら大川氏は神であると心から信じているからです。
わたし自身の個人的な経験から言えば、信仰者というものは、心の片隅にいつも疑いを抱いていて、それを抑圧しているだけです。わたし自身がそうだったから幸福の科学の信者もそうに違いない、とはもちろん断定できませんが、わたしには、やはり、幸福の科学の信者も、心の片隅で、自分たちの教祖はどこかおかしいと思っているのではないかと思います。ただ、大川さんが神様であってくれたら自らの救いに都合がよいので、信者は自らの疑心を抑圧しているだけだと思います。だから、その疑心を否定するために、大川さんを正当化するためのありとあらゆる言い訳に飛びつくわけです。信仰者というものは、疑心を持っていないのではなく、自分に対してもその疑心を認めたくないだけ、つまり、自分自身に対して正直でないということだと思います。救い(幸福)という見返りを得るために、知的良心が犠牲にされているからです。