はじめまして。コリーと申すものです。大変興味深く読ませていただきました。

私は昨年の11月に昔の友人から映画を誘われたことにより幸福の科学の存在をしりました。そして、いろいろネットや 本で調べてどういう団体かも把握できました。特に参考になったのが佐倉さんのHPでして、それによって信者が洗練されたマインドコントロールを受けていることがわかりました。

私はその友人に気付かせようと何度か説得を試みたのですが、全く無駄でした。無駄というのはほんの僅かも相手は理解してくれなかったからです。明らかにおかしいところを挙げ連ねたのですが、それらはことごとく論破されるか、答えられないのははぐらかされました。議論をするために私はある程度向こうの前提を受け入れた上で話を進めたのですが、それでは一切手も足も出ないことがわかりました。それはなぜかというと後で大川氏の書籍をいろいろ見て気がついたのですが、批判に対する模範解答みたいなのがかなり用意されているんですね。それで信者はそれを暗記して言えばいいだけで。大川氏は東大出らしくさすがになかなかの頭脳を持っているようです。理由づけがとてもうまいんです。もしも彼を神と認めるならばその解答には矛盾がなくなるのです。まあ当然ではありますが。

しかしおかしいのはなぜ彼のような低俗な人間を偉大だと思うのでしょうか?私の友人もここにくる信者の方も、あのような素晴らしい教えを説けるのは神であること以外には考えられないからだ。と言ってます。しかしおかしいです。私も少しだけ書籍を読みましたが、本の半分以上はあの世のことで、信じるに足るものではありませんでした。この世のことでも別に目新しいことなどなく、どっかで聞いたことある話だなと思わずにはいられませんでした。与える愛とかはキリスト教の教えでしょうし。ところでもしもあの世のことを素晴らしいことと受け入れるにはもうその段階で信者は教祖を神格化してねばなりません。(と思います。)ということは信者の言うように教えが素晴らしいからではなくて、素晴らしいと思う前に神だと信じて、書籍を呼んでいたことになります。では一体全体何故に信者は大川氏を神だとして受け入れるようになったんでしょうか?どう思われますか?

私はまだ諦めず、友人を説得するつもりでありますが、恐らく失敗に終るでしょう。まあ会って話を聞いてくれる分だけましかもしれませんが、それをしないと向こうの教えに矛盾するからというのがありますね。つまりこちらの善意はわかってくれているのでそれに対して邪険にするということはそうなりますから。でも会ったところで耳では聞いても心では一切無視されている状態なのでまあ無理でしょう。信者は大川氏が神であるが大前提でそれを打ち破らないことには勝ち目がありません。私も今回は多少の武器を持って乗りこみますがまあ無理でしょう。

と随分個人的な話になってしまって申し訳ありませんでした。それではまた。


1.なぜ彼のような人間を偉大だと思うのでしょうか?

しかしおかしいのはなぜ彼のような人間を偉大だと思うのでしょうか?・・・一体全体何故に信者は大川氏を神だとして受け入れるようになったんでしょうか?どう思われますか?
たとえば、日本人はなぜ沢山の「低俗な人間」を政治家に選ぶのでしょうか。その理由の一つは逆賄賂です。「わてに投票してくれたら、あんたの町に、立派な道路を造ったるで、橋も架けたるで、新幹線も通したるで、ダムを造っては壊し、壊しては造って、いつでも仕事にありつけるようにしたるで、金のことは心配せんでもええ、なんぼでも税金から賄ってやるからな・・・」。日本に低俗な政治家がたくさん生まれるのは当然です。

同じことが、大川さんについても言えるのではないでしょうか。つまり、信者が大川さんを神だとして受け入れるのは、そうすることによって得られる見返りを信者が受け取っているからと考えられます。信者が欲しいと思っている当のものを大川さんが与えているからです。

去年の十一月に、上司から『太陽の法』を薦められて、買って読んだんです。もう最初の一行目から鮮烈に胸に飛び込んできて、「これだ!ずっと探していた本だよ、これ」って。・・・うれしくてたまらない感動がずーと続いています。(0さん、『幸福の科学』、1997年12月号、49頁)

『無限の愛とは何か』のビデオを観ていたら、なぜか涙がぽろぽろこぼれてきちゃって。 (Nさん、同上)

だから、信者にとって大川さんは「素晴らしい」のです、自分の町に新幹線をとおしてくれる政治家が「素晴らしい」のと同じ様に。この逆賄賂のことをかれらは「幸福」と呼んでいるのです。
「人間は幸福を求める存在である」「人間は幸せに生きるように創られた」ということ自体が、すなわち、仏の本性、仏の慈悲なのです。(『永遠の法』第5章より)

「幸福の科学」はすべての人に「幸福への方法」をお伝えする団体です。(『幸福の科学』、1997年6月号、44頁)

あらゆる悩みや疑問にお答えし、すべての人が幸福への道を歩める・・・(同上、45頁)

私たちの願いはすべての人に幸福になっていただくことです。だから、みなさんの幸福のために、こころを尽くしていきたいんです。(『ザ・伝道』、No19、40頁)

といった具合です。このように「幸福」という餌を目の前にぶら下げられて食らいついてしまうのは、もともとこういうものに飢えているからです。


2.「幸福」という名前の逆賄賂

政治家がくれる逆賄賂がどんなものかはよく知られていますが、幸福の科学はどんな逆賄賂を約束しているのでしょうか。いくつか『幸福の科学』1997年10月号と『ザ・伝道』No19から拾ってみましょう。 自分の性格がよくなる。夫婦不和や子育てなどの家庭の悩みが解決する。病気が治る。人に言えない自分の過去の罪が許される。その他、お互いを思いやる仲間意識なども大きな理由となっています。こういうわけですから、「涙がぽろぽろこぼれてきちゃって」感動する信者さんがいても、不思議ではありません。低俗な政治家が地元に帰れば聖人のように有り難がられるのは、それだけのものをその政治家が地元の人にあたえているからです。


3.「幸福」の代価

しかし、こんなに沢山の「幸福」をいただくわけですから、何かがその引き換えに代価として支払われたのです。世の中にタダのものはありません。いったい何が支払われたのでしょうか。

神様となった大川さんに捧げるお金(寄付、祈願料、本代、等々)と無償労働(伝道活動)は目に見える代価ですが、わたしが問題とするのは、むしろ、目に見えない人間の尊厳にかかわる代価、すなわち<自由>と<良心>です。

ここが大事なところです。上記にあげたような「幸福」が本当に実現するためには、大川さんは本物の神でなければなりません。そうでなければ、たとえば過去のすべての罪を精算してくれる儀式(特別勧請)は、単なるまやかしに過ぎなくなってしまうからです。悪霊を調伏して生活と性格を改善してもらうためには、悪霊が存在しているという大川さんのドグマが真実でなければなりません。そうでなければ、「悪霊調伏祈願」なるものは単なる茶番劇になってしまうからです。つまり、上記にあげたような沢山のいいものが貰えるためには、大川さんにはどうしても神であってもらわなければ困るのです。だから大川さんは信者の心の中で神様になったのです。

繰り返しますが、信者は、大川さんが本当に神様かどうかを調べて、その後、大川さんは神様に違いないとわかって、そうして、大川さんは神様であると判断したのでは、絶対にありません。そうではなく、大川さんが神様だと自分の救いにはなはだ都合がよいので、本当は神様かどうかわからないのに、神様として受け入れてしまったのです。

だれでも、大川さんについては「おかしい」と知っているのです。信者さんたちも、馬鹿じゃないのですから、本当はこころの底で「おかしい」と気づいているに違いありません。地元の住民だって、かれらが選ぶ政治家先生が「おかしい」と気づいているのです。しかし、それを正直に認めてしまっては、約束された美味しい「幸福」の数々を受け取ることはできません。だから、信者も地元住民も見て見ぬふりをして、「大川さんは神様です」「政治家先生は立派な方です」という虚構を信じる者同士の小さな閉鎖社会のなかに引きこもって生きているのです。かれらは、「幸福」という名の逆賄賂を受け取るために、真実を凝視する自らの<良心>の声を抑圧したのです。これが「幸福」を得るためにかれらが支払う大きな代償の一つです。

「幸福」を得るためにかれらが支払うもう一つの大きな代償は<自由>です。政治家と地元住民の場合と異なって、大川さんと信者との間には支配者とその奴隷の関係が成立します。大川さんは「神」になるのですから、信者はその権威に対する敬意と従順が必然的に要求されることになります。これは当然の結果です。

大川さんも、率直に、信者の従順を要求しています。

我は、あなたがたの永遠の師である。永遠の師の、その後ろに続くことが、弟子の使命であることをゆめゆめ忘れてはならない。(『仏陀再誕』、53頁)

その権威を畏れなければならない。その権威を信じなければならない。その権威に従わなければならない。その権威を否定し、忌み嫌い、この権威を自分の理解の範囲内で解釈しようとする者は、ことごとく間違いの淵[地獄]の中に投げ入れられる。(同、311頁)

決して、何も批判を口にしてはならない。・・・自分がどれほど多くの光を、多くの愛を、与えられてきたかということを感謝せよ。そのことを感謝せず、みだりに疑いをはさみ、みだりに人の心をまよわせてはならない。(同、315頁)

仏陀[大川隆法]の法を疑い、これを撹乱し、そして人々の心を迷わしたとするならば、その者、必ずや地獄に堕ちん。(同、316頁)

つまり、人間の受けるもろもろの恵みは、もともと神の愛からきたものであり、わたし大川隆法は地上における神であるから、ただただ、わたしに感謝すべきであり、わたしの権威に従順であるべきであって、ゆめゆめ、わたしを疑ったり、他の信者に疑いをおこさせるようなことをしてはならない。もしわたしを疑ったり、わたしの権威に従わなかったら、その者は死後地獄に行くであろう。大川さんはこう言っているわけです。

信者は、大川さんを神として受け入れることによって、大川さんを疑ったり吟味する<自由>をギブアップしてしまったのです。

人は、欲しいものを手に入れるためには、代価を支払わねばなりません。お金を手に入れるために自らの体を売る人がいるように、幸福の科学の信者は、「幸福」という名前の快楽を手に入れるために、人間の尊厳の根拠たる<自由>と<良心>、すなわち自らの魂を売ったのです。


党派は常に新しい奴隷を仕立てる。自分では絶体に奴隷ではないと思っている奴隷を。政治的経済的意味での奴隷はやがて消滅するだろうが、精神の奴隷は増大するだろう。それに甘んずる人間は絶えまい。

(亀井勝一郎)