ぎょぴです。

久しぶりにのぞいたら、佐倉さんの答えがありました。ありがとうございます。一つ一つ、答えていきます。

盲でなければ、だれでも、光を感じ取れることはできます。しかし、ここでいわれる「光」とは、そのようなことではないのでしょう。何か、特殊な、不思議な現象に違いありません。そうでなければ、「光まで感じとれるようになった」ことに感動されることもないからです。

(佐倉、「作者よりぎょぴさんへ 00年7月15日」)

光とは、人の周りに金色の光が光って見えたそうです。オーラーとか、言うじゃーないですか。私の母は、金色が見えたと言うけど、母を見た人は、母の手から、ブルーの光。母の周りに、緑の光かうっすらと見えたみたいです。見た相手は、精神の病院の先生・・??クリニックという所の先生です。私も知っている人です。

もし、その「光」が世界中の誰もが感じ取っているものではない、幸福の科学の信者でしか感じ取られないものだ、とすると、そんなことを「感じ取っている」こと事態が検討の対象にならねばなりません。(同上)

そう、別に幸福の科学の会員だけが、感じとっている訳ではなく、会員以外の人でも見える人はいたし、また会員だから、絶対見えるようになるものでもないです。

ぎょぴさん:私の知っている人の子供は全然人のいない所に手を振ってばいばいと言っているので、誰に手をふっているのと聞けば女の子がいるといってました。

佐倉:こどもは嘘をつきます。大人ももちろん嘘をつきますが、こどもはとくに平気で嘘をつきます。わたしにも経験がありますが、仲間のこどもができるのに自分だけできないのを認めるのは恥ずかしいと思うときとか、また、他人の関心を得ようとして、とくに、親を喜ばすため、親にガッカリさせないため、こどもは平気で嘘をつきます。

(「00年7月8日幽霊・前世・霊界等・・何故嘘と決め付けられるのですか」)

この後に余談があり、大人の人で霊感が強い人がいたのですが、別の日にあそこに、女の子がいるよ。と教えてくれました。大人も嘘つくかなぁ(^_^;)。

ぎょぴさん: 佐倉さんぐらい勉強して日々自分を見つめて、幸福の科学を勉強すれば、霊くらいあっと言う間に見えるでしょう。幸福の科学というか・・。幸福の科学ではなくても結構です。まず八正道を常にきちんとやってそれをマスターすれば、光は見えますよっ。

佐倉:わたしは、自分でも、最初に予想していなかったほど、幸福の科学についていろいろ学んでいます。しかし、学べば学ぶほど、学ぶ価値のないものであることが 「見え」てくるのです。まさかこれほどひどいものであるとは思いもしませんでした。なぜなら、わたしは宗教(キリスト教とか仏教)というものにそれなりの尊敬心を抱いているからです。ナーガーラジュナや法然や親鸞や道元やパウロやパスカルや内村鑑三などを読んで敬意を抱かないわけにはいきません。ですから、幸福の科学の場合は、こんなひどい宗教もあるんだ、とおどろきながら学んでいます。

違います。違いますよぉ(^^ゞ。 ちゃんと私が説明していなかった。

その、学ぶっていうのは、教えの中身がどうこうとか、ここが間違っているとか指摘 する為の学びではなく、例えば愛を与えて生きていくだの、怒りの心をださないだ の、まぁ色々あって文章をまとめられませんが、あーあれですよ、佐倉さんが、私よ り出来ている人だとは、思いますので、そんな私が言っている事は、笑って聞き流してください。とにかく、佐倉さんがどんな方かはわかりませんので、失礼な事を言っていたら、三十一の主婦が、なに言ってんだ。と鼻で笑ってください。親に感謝し、周りに感謝し、周りから佐倉さんどうしたの?変わったね。やさしくなったね。物腰がやわらかくなった。あなたといると心地がいい。と言われる様になる為には、自ら反省し・・・。

私の言った学ぶという事は、そういう事です。自分自身を変えるという事です。


こういう私も、幸福の科学には入っているのですが、きちんと勉強はしていません。教えのとうりに生きていけば、旦那も喜ぶし(会員ではないが)皆喜ぶのでしょうが、自分を変える事ってすごくむずかしいことです。

まぁ信じる信じないは、難しい所でしょう。何せ目に見えないのですから。死んでみないとわかりませんが。

幸福の科学に入っていたってどっぷりには、ならないです。 ならない人もいます。私も、十年位関わって言っていますが、どっぷりにはなりきれ ませんが、色々(語りつくせない)あって、嘘とは言い切れないものもあります。で も、幸福の科学だけが正しいとは思いません。色々正しい宗教もあると思います。 なんだか、宗教やっている人って、宗教どっぷりと言うイメージがありますが、私の 一つですよ。

佐倉さんの周りの幸福の科学の人間は、いい人もいるでしょうし、教えばかり説い て、人間が出来ていない人もいるでしょうし、幸福の科学をやっていても、すっごい 悪い人もいるでしょう。

皆色々勉強中で、自分を変えていっている段階ですから、あたたかい心で見ていてやってください。

何がただしいか正しくないか、時間が経てばわかる事だと思います。佐倉さん、これからも反論しつづけてください。 と思ったり、大変だなぁ、えらいなーと思ったりそういう気分です。

ではでは。


【光が見えるとは】

光とは、人の周りに金色の光が光って見えたそうです。オーラーとか、言うじゃーないですか。私の母は、金色が見えたと言うけど、母を見た人は、母の手から、ブルーの光。母の周りに、緑の光かうっすらと見えたみたいです。見た相手は、精神の病院の先生・・??クリニックという所の先生です。私も知っている人です。
光までも見えるようになったお母さんを見て、幸福の科学は本物だと判断された(「光まで見えた母」)ということでしたので、わたしはどんな事かなと、興味を持ったのですが、光を見たというのは、こんなことだったのですか。これでは、まるで、そこらへんに転がっている安物のトンデモ本に書かかれていることと同じではありませんか。ますますもって、幸福の科学はトンデモだ、ということがはっきりしてきました。しかし、百歩譲って、たとえそれが本当だと仮定しても、そこから、どうして「幸福の科学は本物だ」、という結論がいきなり出てきちゃうのでしょう。


【ところで、日本のお医者さん、大丈夫ですか?】

[母の光を]見た相手は、精神の病院の先生・・??クリニックという所の先生です。
ところで、あの地下サリン事件でサリンをまいたオウムの信者も「病院の先生」でした。自分はノストラダムスの生まれ変わりだと言い張るお医者さんが昨年テレビに出ていました。患者は取り違えるし、臓器も取り違えるし、ほんとに、日本のお医者さん、大丈夫ですか?


【人を幸福にする、有徳にする、だから真理?】

その、学ぶっていうのは、教えの中身がどうこうとか、ここが間違っているとか指摘 する為の学びではなく、例えば愛を与えて生きていくだの、怒りの心をださないだ の、まぁ色々あって文章をまとめられませんが、あーあれですよ、佐倉さんが、私よ り出来ている人だとは、思いますので、そんな私が言っている事は、笑って聞き流してください。とにかく、佐倉さんがどんな方かはわかりませんので、失礼な事を言っていたら、三十一の主婦が、なに言ってんだ。と鼻で笑ってください。親に感謝し、周りに感謝し、周りから佐倉さんどうしたの?変わったね。やさしくなったね。物腰がやわらかくなった。あなたといると心地がいい。と言われる様になる為には、自ら反省し・・・。
本当に、幸福の科学の信者は自分たちの人格を自慢するのが好きですね。「わたしたちを見てください、わたしたちは立派な人格の持ち主です。わたしたちのような立派な人格を持った人間を作るのですから、幸福の科学の教えは真理です」というわけです。

つい最近も、mizukami tatsuyaさんという方からも、

幸福の科学の教えがすばらしいかどうかを簡単に判断する方法は、実った果実、つまり幸福の科学の会員さんをご覧頂ければわかります。
というお便りを頂いたばかりです。

しかし、mizukami さんにもお応えしましたように、まさにここが幸福の科学のダメなところなのです。

第一に、真理でないもの(誤謬や空想にすぎないもの)を真理であると教える教えはすばらしいとは言えませんし、真理でないものを真理であると教える人を素晴らしい人格者として認めるわけにはいきません。どんなに「やさしくなったね、あなたといると心地がいい」と言われるような振る舞いをしても、彼の正体は嘘つきです。

第二に、自分の認識の届かない領域(魂、神、あの世、云々)に関して、本当は何も知らないくせに、まるで知っているかのごとく、ああだこうだと喋るのは、どんなに「物腰がやわらかくなった」振りをしても、知らないことを知らないと認める謙虚さに欠けています。

第三に、間違っているのに、それを指摘されても、いい加減な言い訳をして、自分の間違いを素直に認めない人間(大川さん)を、立派な人格の持ち主とは言えません。(ついつい調子に乗って、自分を神様だなんて言っちゃったので、後に引けなくなってしまったのでしょうが、昭和天皇が人間宣言をやったように、大川さんも早く悔い改めて、今のうちに人間宣言されることをお勧めします。)

最後に、ある教えが「人を善人にする、幸福にする」というようなことは、その教えが真理であることを証明することにはなりません。

ある教義が人を幸福にする、有徳にする、だからそれは真理である、というほど安易に考える者はいない。…幸福や道徳は論拠とならぬ。ところが、思慮ある人々ですらも、不幸にし邪悪にすることが同様に反対証明にはならぬ、ということを忘れたがる。たとえ極度に有害危険なものであろうとも、それが真であることを妨げはしない。

(ニーチェ、『善悪の彼岸』竹山道雄訳 )

「ウソを言ったら閻魔大王に舌を抜かれる」というウソが人を正直者にし、「あなたはガンではありません」というウソが人を幸福にします。ある教えが「人を善人にする、幸福にする」というようなことは、その教えが真理であることを証明することにはなりません。 だから、「ある教義が人を幸福にする、有徳にする、だからそれは真理である、というほど安易に考える者はいない」のです。ところが、幸福の科学は、そういう「安易に考える者」を続出しているのです。だから幸福の科学の教えは駄目なのです。