佐倉 哲 様

ブッダと大川隆法についてのエッセイがありますが、1998年と古いので今更と思っていたら「その他の宗教に関する来訪者の声」欄にいまだに信奉者が何やら書いていますので私も少し書かせて下さい。

見出しにあるように「ブッダは再誕しません。再誕しないからブッダといいます」。この件につきお経の周辺の書に色々書かれてもいるようですが、議論の余地はない筈です。ブッダは輪廻を超えられました。なのにまた輪廻して再誕するはずはありません。

「人生が二度あれば」は井上陽水の歌ですが、人生が一度きりと思っている人には輪廻の思想は儲けた様に思うかもしれません。始めも知れぬほどの昔から我々は生まれ変わり死に変わりを繰り返していると経典は述べています。それが認められるようになれば(理解出来れば)輪廻が苦であると分かってくるはずです。それはそうでしょう。

たとえば、俗世における最高位である例えば大統領になって死後、運良くまた人間に生まれるとしても(大統領の場合、大抵は死後地獄に生まれるでしょうが)狭い母親の胎に宿り、また、おつむテンテンから始めなければならないんですよ。別な言い方をすれば、努力して社長にまでなったとしても、会社が倒産して、一労働者からまた、やり直さなければならないとしたら、そして、それを何度も繰り返したとしたら、もういいかげんに終わりにしたいと思うようになるのではないでしょうか?

イエス・キリストは「私はまた来る」と言ったそうですが、当然です。彼は輪廻を超えてはいないんです。再誕のブッダなんてキリスト教の影響です。

記憶が確かなら、かつてTBSの報道特集で教祖(大川隆法)の武道館での誕生祭の模様を放映していました。彼は集まった会員の前でこう言いました。「汝ら、比丘(修行僧)・比丘尼(修行僧尼)たちよ…」と。どこに比丘・比丘尼がいるのですか? みんな在家でしょう?まして現在地球上に比丘尼(修行僧尼=尼僧)は存在しません。絶滅したからです。これはオリンピックの聖火と同じで火が消えたからと言って、ライターで付ける訳には行かないんです。オウムの麻原が勝手に出家させても駄目なんです。出家させるには必要な手続きがあります。ブッダ・釈尊・お釈迦様が決めたものです。勝手な事は出来ないんです。法灯を受け継ぐと言う事はそう言う事なんです。

インドに亡命しているチベットのダライ・ラマ14世は(少し私が敷衍し、補足して言えば)「現在地球上には二つの律が残っている。テーラワーダ律と説一切有部律だ」という意味の事を言っています。テーラワーダというのはスリランカ・タイ・ミャンマーなど南アジアに伝わった上座部仏教といわれるものです。説一切有部というのはチベットに伝わったものの事を言っています。

これが嘘か本当かチベット文化研究所に問い合わせた所、チベット語の経典を紹介されました。大学図書館からその一部をコピーして来ましたがチベット語のテキストは持っていても辞書は持っていなかったのでその後詳しく調べるには至らないままです。

南アジアのテーラワーダ仏教はブッダ以来の法灯は受け継いでいると言えるようです。それに比して日本の僧は僧としての戒律を守っていない、仮に守っていたとしても、しかるべき手続きを経ていないという点で偽坊主と言う事になります。

ブッダの教えを端的に言えばセックスをしない事という言い方も可能です。大川氏はどうなんですか? 多分しているでしょう。オウムの麻原も私は独身かと思っていました。

私が空中浮揚と関係する瞑想の情報を手に入れた頃、オウムが一部のミニコミ紙に空中浮揚を売り物に登場して来ました。どう見ても歯を食いしばり、髪を振り乱して力を入れてジャンプしているようにしか見えない。そしていつも結跏趺坐の姿勢なのもおかしい。本当に飛べるのなら行(Walking)・住(Standing)・坐(Sitting)・臥(Lying)のどの姿勢でも出来るはずなのに。しかし、当時は「これも信者集めの可愛い嘘」くらいにしか考えなかった。今でも私の周辺では空中浮揚など言おうものならちょっとおかしいんじゃないかと思われかねない雰囲気がある。だから空中浮揚を前面に登場してきたオウムには当時親近感を持ったことも事実だが。

それにしてもセックスひとつ我慢できない者を教祖として不当に崇拝する人達の気が知れない。

FROM ARUNA

私の稚拙なホームページ(http://homepage2.nifty.com/ARUNA/)にて、日本文化との関連も含めてブッダの教えについて紹介しています。 一度ごらん下さい。

CZU14234@nifty.ne.jp



(1)インド宗教における救い


始めも知れぬほどの昔から我々は生まれ変わり死に変わりを繰り返していると経典は述べています。それが認められるようになれば(理解出来れば)輪廻が苦であると分かってくるはずです。それはそうでしょう。・・・努力して社長にまでなったとしても、会社が倒産して、一労働者からまた、やり直さなければならないとしたら、そして、それを何度も繰り返したとしたら、もういいかげんに終わりにしたいと思うようになるのではないでしょうか?

そうです。これは仏教特有の考えではなくインド一般(バラモン教・ヒンズー教など)に共通な基本的な人生観ですね。そのために、この繰り返しの生存(輪廻)から離脱(解脱)して生存を繰り返さない境地(涅槃)に至ることがインド人における宗教的救いの目的になってしまったわけです。

ブッダの時代にはすでにこの考えが一般化しており、この輪廻や解脱や涅槃などの概念によって仏教における救済思想もまた語られています。したがって、仏教をこのインド的考えの枠組みから見れば、ARUNAさんのおっしゃる通り、解脱したブッダ、繰り返しの生存から解放されたブッダが再び地上に戻ってしまっては、理論的につじつまがあわなくなります。麻原なども「キリスト宣言」なんかしたりして支離滅裂ですが、大川さんも、もともと仏教ではないものの上に仏教を接ぎ木しようと試みるものだから、矛盾があちこちに吹き出してしまいます。