佐倉さんこんにちはぎょぴです。

私はこの前メールを送りました。 本当に色々調べてすごい方だなぁと思います。

ですが、幽霊・前世・霊界等・・何故嘘と決め付けられるのですか??私の知っている人の子供は全然人のいない所に手を振ってばいばいと言っているので、誰に手をふっているのと聞けば女の子がいるといってました。その話を知っているはずもない別の霊感の強い人があそこにおかっぱ頭の女の子がいるよって言ってました。私は見えませんがそんな話を聞くとやっぱりいるのかなぁなんて思いますよ。

それから前世だって、色んな例が本にでているではないでしょうか??見えないから信じられない。なんて、じゃ・・・なんて書いてても信じられない人は信じられないでしょうね。でも思うのです。今の科学はまだ追いついてないって思うのです。

私は幸福の科学に入ってますが、幸福の科学で教えられる前から(六歳)霊の事や、非科学的といわれる事信じてました。母がやっていたとかではなく、自然に信じていた。たまたま、本を読んだら私が知っている事が載っていた訳で、母も色々宗教やってきましたが、色々本を読んだりしたあげくに、これが本物だと思ったみたいですよ。仏教書も読んだみたいです。なんせ、十五年くらい病気していたもので、本を読む暇たくさんあったみたい・・。入院中に、色々幸福の科学以外も何冊も読んだ。その母が十年以上も熱心に学んだあげく、光が見えるようになった。守護霊・指導霊が感じられるようになった。感覚でつかんだら、信仰心が深まるのです。

佐倉さんは感覚的なものが、ないからあの世はないとはっきり言えるのでしょうね。でもそれもしょうがないと思います。そういう人もいっぱいいます。私は別に幸福の科学だけを信じろとは言わないのです。本当に。でもあの世とか嘘だとか言われる、唯物的な思想が日本にはびこる事が怖いなと思います。

よくいうじゃないですか。この世は一度限りだから、楽しまなそんそんだって・・。世の中お金がすべてだとか・・。儲かればなにしたっていいとか。自殺して楽になれるなら、あの世なんてないなら・・。 自分の子なんだから、何したっていいとか。

そんな事、あの世を信じている人できますか??輪廻転生・地獄・カルマ・非科学的な事信じている人できますか。仏を信じれない人はしょうがない。これ人それぞれの信仰心・心の部分ですから。仏を信じれなくても、そういう部分ちゃんと出来ている人はいいのです。

そして、幸福の科学の人の中でも素晴らしい人はいますが、そうでない人もいます。それぞれなんです。それはわかりますよね。いくら幸福の科学に入っていても、学んでない人は宗教もっていない人より、わかがままな人もいるし、なんでかと言いますと、勉強していないのです。勉強してても教えは奥が深いし、一つ一つやっていても結構大変。そして、本人は出来ていると思って勉強していない人もいたり・・。そこに自分はえらいのだと慢がでてきたり・・。そして転落する。ですから、常に修行(勉強と反省)なのです。だから霊能者とかも変な人が多いのです。

佐倉さんぐらい勉強して日々自分を見つめて、幸福の科学を勉強すれば、霊くらいあっと言う間に見えるでしょう。幸福の科学というか・・。幸福の科学ではなくても結構です。まず八正道を常にきちんとやってそれをマスターすれば、光は見えますよっ。

だらだら書きましたが、佐倉さんはすごい人だと思います。正直な気持ちです。

それでは。



(1)嘘と決めつける?

幽霊・前世・霊界等・・何故嘘と決め付けられるのですか?

もし、「幽霊・前世・霊界等」について、本当は何も知らないくせに、ただ信じているに過ぎないとしたら、それは、その人の思い込みに過ぎない、ということは何度も言っていますが、わたしは、「幽霊・前世・霊界等」を「嘘と決め付け」てはいません。

しかし、「幽霊・前世・霊界等」が嘘である可能性は十分にあります。人は、しばしば、「そうであって欲しい」という単なる願望と、「そうである」という事実に関する主張、この二つを混同するからです。この混同が信仰と呼ばれるものです。

わたしは、「死にたくない」とか「永遠にいきたい」といった願望を人々が持つことを批判するものではありません。わたしが批判するのは、「死にたくない」とか「永遠にいきたい」といった願望にすぎないものから、「人間には永遠に生きる魂がある」などという事実判断をする、<信仰>という行為です。それはまさに自分自身や他人を騙すこと -- 嘘 -- だからです。


(2)子供の嘘

私の知っている人の子供は全然人のいない所に手を振ってばいばいと言っているので、誰に手をふっているのと聞けば女の子がいるといってました。

こどもは嘘をつきます。大人ももちろん嘘をつきますが、こどもはとくに平気で嘘をつきます。わたしにも経験がありますが、仲間のこどもができるのに自分だけできないのを認めるのは恥ずかしいと思うときとか、また、他人の関心を得ようとして、とくに、親を喜ばすため、親にガッカリさせないため、こどもは平気で嘘をつきます。

そういえば、幸福の科学の信者の子供はよく霊(天使など)を「見る」のですね。こういうのをよく見かけます。

買い物に出るとき、長女のももこ(5歳)が吉祥宝印[大川さんのイニシャルの紋章]を掛けた我が家を見て「おかあさん、天使が行列をつくっている!天上界から天使が降りてきているよ。一番後ろに頭の良さそうな男の天使がいるよ」と話し始めました。わたしは「吉祥宝印を掲げた家には天使が訪れる」という話を思い出し、「今、私は天使に応援されている」と心の奥から感謝の気持ちが湧き、地域の方がたが幸福になることを確信しました。

(Hさんからの投書、「我が家に天使が訪れた」、『幸福の科学』1997年10月号、55頁)

なにが子供に期待されているか、わずか5歳のこの子はもうすでによく知っているのです。何も見えないところに天使を「見て」もよいこと、そして、子供がそうすれば幸福の科学の信者の親は喜ぶことを、幸福の科学という特殊な小社会の中で、このやさしい子はすでに学んでしまっているのです。

「うちの子供は天使を見たのよ」、「あらそう、実は、うちの子もなのよ」、「すばらしいわねえ」・・・・「僕は天使を見たよ」、「私もみたわ」、「すごいんだから」・・・・そのような会話が飛び交う生活状況のなかで、まだサンタクロースが実話であるか空想であるかも判断できない5歳の子供が、どうして「自分も、見えないもの(霊、天使)が見える」と、親に言わないで済ませることができるでしょう。


(3)「輪廻転生・地獄・カルマ」を信じれば悪はできない?

よくいうじゃないですか。この世は一度限りだから、楽しまなそんそんだって・・。世の中お金がすべてだとか・・。儲かればなにしたっていいとか。自殺して楽になれるなら、あの世なんてないなら・・。 自分の子なんだから、何したっていいとか。

そんな事、あの世を信じている人できますか??輪廻転生・地獄・カルマ・非科学的な事信じている人できますか。

これは広く流布している宗教家の宣伝(大嘘)です。「殺せ!と神が命じるとき」をお読みください。

しかし、たとえ、人が「あの世なんてない」と信じることによって極悪人になるとしても、それで「あの世なんてない」という考えが真実ではない、ということにはなりません。また、人が「あの世はある」と信じることによってどんなに善人になろうが、それで「あの世はある」という考えが真実である、ということにもなりません。

ある教義が人を幸福にする、有徳にする、だからそれは真理である、というほど安易に考える者はいない。・・・幸 福や道徳は論拠とならぬ。ところが、思慮ある人々ですらも、不幸にし邪悪にすることが同様に反対証明にはな らぬ、ということを忘れたがる。たとえ極度に有害危険なものであろうとも、それが真であることを妨げはしな い。

(ニーチェ、『善悪の彼岸』、竹山道雄訳)

「何が真実であるか」という問題に「どんな利益(善人になる、幸福になる)を得られるか」で答えて平気な人間を大量に造りだす --- これが幸福の科学(およびそれに類した宗教)の根本的な罪です。

会社、病院、政府 -- 日本のあらゆるところで相も変らず情報隠しが行われています。それは、まさに、「何が真実であるか」という価値観よりも「どんな利益を得られるか」という価値観を優先するからです。そういう価値観を大量に生み出す社会の下作りを、幸福の科学(およびそれに類した宗教)は一生懸命しているのです。利益を得るために事実を隠ぺいすること(日本の病)も、利益を得るために空想を事実として話すこと(幸福の科学)も、同根だからです。

その教えを信じて実践してみて、幸福感覚が強くなったなら、その人にとって正しい教えであったということです・・・

ある幸福の科学の会員より

根元が腐っているのです。たとえ人を悪人にしたり不幸にするとしても、真実は真実であると認めること、たとえ人を善人にしたり幸福にするとしても、真実でないものは真実でない、真実かどうかわからないものは真実かどうかわからないと認めること -- これが日本再生の原点です。幸福の科学の考え方はそれに逆行します。


(4)幸福の科学を学ぶ意義

佐倉さんぐらい勉強して日々自分を見つめて、幸福の科学を勉強すれば、霊くらいあっと言う間に見えるでしょう。幸福の科学というか・・。幸福の科学ではなくても結構です。まず八正道を常にきちんとやってそれをマスターすれば、光は見えますよっ。

わたしは、自分でも、最初に予想していなかったほど、幸福の科学についていろいろ学んでいます。しかし、学べば学ぶほど、学ぶ価値のないものであることが「見え」てくるのです。まさかこれほどひどいものであるとは思いもしませんでした。なぜなら、わたしは宗教(キリスト教とか仏教)というものにそれなりの尊敬心を抱いているからです。ナーガーラジュナや法然や親鸞や道元やパウロやパスカルや内村鑑三などを読んで敬意を抱かないわけにはいきません。ですから、幸福の科学の場合は、こんなひどい宗教もあるんだ、とおどろきながら学んでいます。

かつて、亀井勝一郎は「信仰の敵は疑うことではなく軽信である」と言いましたが、幸福の科学は現代日本の軽薄さの象徴であるとわたしは思っています。軽薄さという現代日本社会の病を学ぶこと、そこに幸福の科学を学ぶ意義があると思います。