佐倉さま

 幸福の科学の会員です。いろいろとディベートをされているようなので、参加してみることにしました。

 まず、洗脳ということについてですが、汚れている脳がきれいになるならいいことだと思うんですね。ただこの言葉には非常に悪い意味が含まれていて、なんていうか、理不尽なものを無理やり信じ込まされる、その結果判断力がなくなってしまう、そして抜けられなくなる、というイメージがありますね。オームとか、最近強制捜査が入った福永とか、よく信じるなあって思うし、キリスト教でもかなり教えに無理があるように感じて、こういうのを洗脳っていうのかなあなんて思います。

 ですから、筋道だった論理的な教えであれば、洗脳というにはあたらないと思うんですね。幸福の科学の教えがかなり論理的だと感じるので、信じているんだと思います。

 あと、カルトかどうかという観点ですが、内部批判が許されるかどうか、というのは大切なポイントだと思うんですね。これはおかしいと思ったら言えるかどうか、聞けるかどうか、ここは民主主義的な活動形態かどうかという点に関わってくると思います。  私の見るところでは、幸福の科学の支部ではけっこう会員は言いたいこと言ってるし、タブーはほとんどないと思いますね。支部長さんもいろんな疑問点については真摯に答えているように感じます。

 過去の仏教とかとの整合性はあまり気にしなくていいと思います。要は皆が幸せになればいいのですから。幸福感というのも主観的なものですが、その教えを信じて実践してみて、幸福感覚が強くなったなら、その人にとって正しい教えであったということですね。佐倉さんは今幸福感覚は強くおもちですか?

 最後に、幸福の科学では別に他の宗教や思想を否定しているわけではないと思います。それぞれの思想、宗教にはくむべきものがあるわけで、だからこそ伝えられてきたわけです。経済や政治なども勉強を奨励していますので、会員の皆さんよく勉強してますよ。会の本だけじゃなくてね。

山本より  




(1)幸福の科学の民主主義

ここは民主主義的な活動形態かどうかという点に関わってくると思います。私の見るところでは、幸福の科学の支部ではけっこう会員は言いたいこと言ってるし、タブーはほとんどないと思いますね。
問題はつぎのような大川さんの教えです。
もし、地上にある仏陀(大川隆法)の教えを誹り、これに背く者あらば、それは大宇宙大霊に意に反すると言ってよい。なぜならば、大宇宙大霊はその時代のすべての責任を仏陀に命じているからである。仏陀(大川隆法)はすべての権限をもって、地上に降りているからである。その時代の価値観を決め、その時代の正しさを決め、その時代の善とはないかを決め、その時代の真理とは何かを決める者、それが仏陀(大川隆法)である。したがって、たとえ心の中で過去の人をいかに尊敬しようとも、たとえ心のなかで、宇宙の彼方に住むかもしれぬ神仏をいかに尊敬しても、地に降りたる仏陀(大川隆法)を尊敬する気持ちがないならば、もはや、信仰ある者とは言えない。・・・

地上に覚者(大川隆法)あるとき、その覚者に対する信仰を忘れてはならない。地上に覚者(大川隆法)あるとき、その時代に生まれ合わせた喜びを忘れてはならない。その権威を畏れなければならない。その権威を信じなければならない。その権威に従わなければならない。その権威を否定し、忌み嫌い、この権威を自分の理解の範囲内で解釈しようとする者は、ことごとく間違いの淵のなかに投げ入れられる。それは、宇宙の仏を否定することと同じ。宇宙の仏を冒涜することと同じであるということだ。このように、仏の代理人を地上に送るということは、天上界における人格大霊(神々)の一致した考えであり、そうした代理人(大川隆法)が地上に降りてゆく時には、その者(大川隆法)の考えにすべてを合わせてゆくことが正しい行為であるのだ。これが信仰の根本であるということを、私は繰り返し繰り返し言っておく。・・・

疑いの中で真実の法は説かれない。疑いの中に広がるものは悪魔の領域である。・・・決して迷ってはならない。自分の小さな頭で何がわかるか。自分の小さな頭で理解したところで、いったい何がわかるか。小賢しい知恵で何がわかるか。なにゆえに、そのような小さな頭で、仏陀(大川隆法)の叡知を量ることができるか。仏陀を送りたもうた人格大霊の意図を見抜くことができるか。みずからの小ささをあざ笑うがよい。みずからの小ささを卑下するがよい。そのような立場に、今、自分がないということを知るがよい。疑いは、これは悪魔の心。猜疑もまた悪魔の心。恐怖もまた悪魔の心。このような心をもって探求とは言わない。・・・探求の姿勢とは、猜疑の姿勢ではない。探求心とは、猜疑心ではなく、疑念の心でもない。そのような心が起きた時、もはや修業の途上にはないと言わざるを得ない。そのような時、その者はもはや修行者とは言われない。・・・・決して、何も批判を口にしてはならない。・・・信仰とは、百パーセントの信仰にして、九十九パーセントの信仰はありえないのだ。九十九パーセントの信仰はゼロに等しい。信仰は、百パーセントを求める。それは、仏(大川隆法)はすべてであるからだ。

(大川隆法著、『仏陀再誕:縁生の弟子たちへのメッセージ』、308〜317頁)

これでは大川さんは独裁者と言わねばなりません。この考えを受け入れることは、たとえ、自由な選択であっても、それは自由の放棄を選択することになるのではありませんか。


(2)仏教との整合性

過去の仏教とかとの整合性はあまり気にしなくていいと思います。
まったくそのとおりだと思います。幸福の科学は仏教ではないのですから。問題は、幸福の科学がまるで仏教であるかのごとく自らを宣伝しているところにあります。幸福の科学がまるで仏教であるかのごとく自らを宣伝するかぎり、仏教との整合性はこれからも問題視されることでしょう。


(3)幸福

要は皆が幸せになればいいのですから。幸福感というのも主観的なものですが、その教えを信じて実践してみて、幸福感覚が強くなったなら、その人にとって正しい教えであったということですね。佐倉さんは今幸福感覚は強くおもちですか?
幸福については、「幸福の追求」や「作者より識さんへ」を参照して下さい。最後に、
ある教義が人を幸福にする、有徳にする、だからそれは真理である、というほど安易に考える者はいない。・・・幸福や道徳は論拠とならぬ。ところが、思慮ある人々ですらも、不幸にし邪悪にすることが同様に反対証明にはならぬ、ということを忘れたがる。たとえ極度に有害危険なものであろうとも、それが真であることを妨げはしない。

(ニーチェ、『善悪の彼岸』竹山道雄訳)