佐倉さん、お久しぶりです。 グラールです。覚えていらっしゃいますか?

佐倉さんと話をしてから随分経ちます。 あれから、支部長さんとも話をする機会があり、色々と考えておりました。 支部長さんは、「幸福の科学には知的開放性があるので洗脳などありえない」と仰っていました。 例えば、僕が幸福の科学を信仰する家庭に生まれ、幸福の科学の教義を学んで育っても、知的に開放されているのだから、僕が色んな知識をつける事は阻めない。それでは洗脳は成り立たないのではないか。と言う事です。

僕には、まだ何が正しいのか分かりません。佐倉さんの理論が間違っている可能性もあるし、考えたくはないですが、幸福の科学が間違っているのかも知れない。現時点ではっきりとした答えは出せません。ですから、この問題については、一旦伏せておく事にしました。判断基準となる知識は、追々付けていくことにします。それによっては、「幸福の科学を破棄する」という選択肢も、考えておかねばなりませんが・・・。今は、自分の中に「幸福の科学を信じたい」という欲望があることも認めておきます。

どちらにしろ、この問題に結論を出すには、僕はまだ知識不足です。



(1)教義という色眼鏡

支部長さんは、「幸福の科学には知的開放性があるので洗脳などありえない」と仰っていました。例えば、僕が幸福の科学を信仰する家庭に生まれ、幸福の科学の教義を学んで育っても、知的に開放されているのだから、僕が色んな知識をつける事は阻めない。それでは洗脳は成り立たないのではないか。と言う事です。

自分たちは洗脳されている、と認める宗教指導者はどこにもいないでしょう。地下鉄サリン事件で殺人を犯すこととなったオウムの信者だって、「知的に開放されているのだから、僕が色んな知識をつける事は阻めない。それでは洗脳は成り立たないのではないか」、と思っていたに違いありません。

どんなに、外部からの知識に接触できるとしても、それを、色眼鏡(教義)をとおしてしか見れないとしたら、「知的に開放されている」とは言えません。その典型的な例が、反論すべてを「悪霊にまどわされて」いるとみなす信者の姿勢です。

グラールさんは、大丈夫なようです。


(2)指導者か自分か

人間が神格化されるときが人類にとってもっとも危険なときだと思います。

殺人は一般社会では犯罪であり、許されないことですが、かならずしも教義上では許されない行為ではありませんでした。麻原の心は「四無量心」そのものであって、すべて見切ることができるが故に、「真の愛」「真の哀れみ」を発揮できる、それ故いかなる時代でも、いかなる社会でも、それに束縛されない「普遍の善」を実践できるということだったのです。

(林郁夫『オウムと私』402頁、佐倉「殺せ!と神が命じるとき」)

私たちが地下鉄にサリンをまくことで、強制捜査のホコ先をそらせば、オウムが守られて、真理が途絶えなくてすむのだから、サリンで殺され、ポアされることになった人たちも、真理を守るという功徳を積むことになるので、誰であろうと、殺された人は最終解脱者・麻原によって、高い世界に転生させられて、真理を実践できるようになるのだ。誰も無駄死にということにはならないのだ。だから、私は真理を守るために、心を込めて実行しさえすればいいのだ。

(林郁夫『オウムと私』、432頁、佐倉「殺せ!と神が命じるとき」)

大川隆法総裁先生は地球をおつくりになったかたです。(ある幸福の科学の信者

「僕はまだ知識不足です」というところから、「人間的浅はかな判断」や「おのれの小賢しい知恵」を捨てて、信仰の対象としての超越的な権威(神格化された大川教祖)に従うことを「正しい」とするところへ、飛んでいっちゃうのかどうか。そこが天下分けめの関ヶ原です。

グラールさんは、大丈夫かなあ。


(3)信仰と欲望

今は、自分の中に「幸福の科学を信じたい」という欲望があることも認めておきます。

信仰とは、本当は何も知らない事柄(神や魂やあの世の存在など)について、まるで知っているかのごとく、真実であると思い込むこと、と言えるでしょう。なぜ、人は、何も知らない事柄について、まるで知っているかのごとく、真実であると思い込むことができるのでしょうか。それは、「そうであってほしい」という欲望と「そうである」という事実認識のあいだに区別をつけないからだと思われます。

「神は存在する」ではなく「神が存在するかどうか分からないけれど、神に存在してほしいという欲望を自分は持っている」と言うことができるとき、「魂は存在する」ではなく「魂が存在するかどうか分からないけれど、魂に存在してほしいという欲望を自分は持っている」と言うことができるとき、「あの世は存在する」ではなく「あの世が存在するかどうか分からないけれど、あの世に存在してほしいという欲望を自分は持っている」と言うことができるとき、「幸福の科学は真理である」ではなく「幸福の科学を信じたい」と言うことができるとき、人は信仰の自己欺瞞から解放されます。

グラールさんは、やっぱり、大丈夫です。