佐倉さん、梅本さん、向さん、こんにちは。takapです。

みなさんの意見交換を読んでいて、私もいくつか意見の述べたいと思いました。

   


(1)大川氏は指導者なのであり、独裁者ではない

問題はつぎのような大川さんの教えです。

もし、地上にある仏陀(大川隆法)の教えを誹り、これに背く者あらば、それは 大宇宙大霊に意に反すると言ってよい。なぜならば、大宇宙大霊はその時代のすべて の責任を仏陀に命じているからである。仏陀(大川隆法)はすべての権限をもって、 地上に降りているからである。その時代の価値観を決め、その時代の正しさを決め、 その時代の善とはないかを決め、その時代の真理とは何かを決める者、それが仏陀 (大川隆法)である。したがって、たとえ心の中で過去の人をいかに尊敬しようと も、たとえ心のなかで、宇宙の彼方に住むかもしれぬ神仏をいかに尊敬しても、地に 降りたる仏陀(大川隆法)を尊敬する気持ちがないならば、もはや、信仰ある者とは 言えない。・・・

地上に覚者(大川隆法)あるとき、その覚者に対する信仰を忘れてはならない。 地上に覚者(大川隆法)あるとき、その時代に生まれ合わせた喜びを忘れてはならな い。その権威を畏れなければならない。その権威を信じなければならない。その権威 に従わなければならない。その権威を否定し、忌み嫌い、この権威を自分の理解の範 囲内で解釈しようとする者は、ことごとく間違いの淵のなかに投げ入れられる。それ は、宇宙の仏を否定することと同じ。宇宙の仏を冒涜することと同じであるというこ とだ。このように、仏の代理人を地上に送るということは、天上界における人格大霊 (神々)の一致した考えであり、そうした代理人(大川隆法)が地上に降りてゆく時 には、その者(大川隆法)の考えにすべてを合わせてゆくことが正しい行為であるの だ。これが信仰の根本であるということを、私は繰り返し繰り返し言っておく。・・ ・

疑いの中で真実の法は説かれない。疑いの中に広がるものは悪魔の領域である。 ・・・決して迷ってはならない。自分の小さな頭で何がわかるか。自分の小さな頭で 理解したところで、いったい何がわかるか。小賢しい知恵で何がわかるか。なにゆえ に、そのような小さな頭で、仏陀(大川隆法)の叡知を量ることができるか。仏陀を 送りたもうた人格大霊の意図を見抜くことができるか。みずからの小ささをあざ笑う がよい。みずからの小ささを卑下するがよい。そのような立場に、今、自分がないと いうことを知るがよい。疑いは、これは悪魔の心。猜疑もまた悪魔の心。恐怖もまた 悪魔の心。このような心をもって探求とは言わない。・・・探求の姿勢とは、猜疑の 姿勢ではない。探求心とは、猜疑心ではなく、疑念の心でもない。そのような心が起 きた時、もはや修業の途上にはないと言わざるを得ない。そのような時、その者はも はや修行者とは言われない。・・・・決して、何も批判を口にしてはならない。・・ ・信仰とは、百パーセントの信仰にして、九十九パーセントの信仰はありえないの だ。九十九パーセントの信仰はゼロに等しい。信仰は、百パーセントを求める。それ は、仏(大川隆法)はすべてであるからだ。

(大川隆法著、『仏陀再誕:縁生の弟子たちへのメッセージ』、308?317 頁)

これでは大川さんは独裁者と言わねばなりません。この考えを受け入れることは、 たとえ、自由な選択であっても、それは自由の放棄を選択することになるのではあり ませんか。

なるほど、唯物論的に解釈するとそのようになってしまうのですね。仏典を唯物論的 に解釈することと同じ間違いを幸福の科学の書籍に対しても行っているのです。佐倉 さんはご自分が唯物論を基礎につまり色眼鏡をかけて、世の中をそして仏教も心霊主 義も幸福の科学の教義も見ていることに気づくべきです。それが幸福の科学の信者さ んがたが言っていることを理解できない根本的理由だと、信者さん方との対話を端か ら見ていて私は感じました。

つまり、すくなくとも当の幸福の科学の信者さんがたは自分のところの教祖の言説を あなたのようには捉えていないということを知らなくてはならないと思います。

たとえば、佐倉さんが引用している部分についてですが、ずいぶん怖れていると感じ ます。それに較べて信者さん方のほうがより自由であるのはなぜでしょうか。それは 信者さん方は自分が本質的には教祖と同じように仏陀になりうる可能性を有している ことを教えられ、そして、それを信じているからです。つまり、ひとりの人間を絶対 的な神のように崇めているわけではないということです。仏陀も凡夫も区別しない佐 倉さんにはとっては「仏陀になりうる可能性(仏性)」という考え自体が肯定できな いことでしょう、また人間が霊的存在であることを否定する思考のため、大川氏が本 質的には人間はみんな等しいものであると説いている部分への理解も見事に欠落して いるようです。

「仏陀再誕」より

私は、常づねあなたがたに語っていたはずである。人間というものが、いかに偉 大なものであるかを。人間の魂が、いかに偉大であるかを。人間というものは、どれ ほど大いなる使命を帯びているかを。

縁生の弟子たちよ。我はおまえたちに、かつて教えたはずである。おまえたち の、今のその姿は、その顔は、その心は、とうてい、ダイヤモンドのごとき輝きを湛 えているようには見えないであろうが、しかし、心を澄まして自らの内を観よ。心を 澄まして、真なる姿を観よ。心澄まして、自らの真実の姿を観たときに、そこにダイ ヤモンドの姿があるはずだ。そこに金剛石の光があるはずだと、私は、あなたがた に、教えてきたはずである。

「太陽の法」から

 「通常、ひとことで、魂と読んでいる各人の生命体は、はるか高次元の根本仏 が、下位レベルで発現したものであることが明瞭となります。つまり、根本仏とは、 あなたがた以外の別のところにある他者ではなく、あなたがたを存在せしめていると ころのひとつの高次の意識体なのです。ですから、あなたがた自身も、仏の意識体の 一部であり、仏の自己表現のあらわれの一部だということができます。」

 「ですから、あなたがたは、自分自身が仏の一部であり、仏の自己表現の一端 をになっていることに、誇りと自信をもつべきなのです。これこそが、魂の真実で す。」

「永遠の仏陀」より

師である私が、まったく別格の存在として、一切の修行を排し、そして尊いので あるならば、おまえたちは、自分の非力を感じて、精進をあきらめてしまうかもしれ ぬ。 しかし、師である私も、あらゆる転生の機会において、努力・精進を積み重ねて きたのだ。師であり続けるためには、弟子以上の努力・精進を積み重ねることは、当 然であると思う。その私の後ろ姿を見て、おまえたちも、「あのように努力をすれ ば、やがては自分も、そのような境地に到達できるのではないか」と考えたはずだ。

そのとおり。我は、何度も何度も、おまえたちに言った。人間には、すべて等し く仏性の力が宿っている。仏性とは、仏と同じ性質が宿っているということなのだ。 仏と同じ性質が宿っておりながら、仏と同じ境地に達していないということは、過去 の修行が、まだ充分ではなかったのであり、今世の修行も、まだ充分ではなかったと いうことなのだ。さすれば、過去を語っても、いまさら始まるまい。今日ただいまよ り、精進を積み重ねる以外にないではないか。その精進の姿をこそ、まず我に示せ。 その精進の姿をこそ、わが前に示せ。

「仏陀の証明」第2章・7 仏陀を信ずる心こそ救いの王道より

『仏陀(われ)を 信ずる 心こそ  救いの 道の 王道なり』 とあります。  仏陀を信ずる心?それが救いの道の王道です。「仏陀(ぶっだ)」と書いて、 「われ」とルビを打っています。この、「われ」というのは仏陀なのです。それは、 教えを説く仏陀であり、その仏陀の教えと共感する、自分の内なる仏陀、仏性の部分 でもあります。

このように大川氏は人間一人ひとりが根本に仏陀としての性質を内包していることも はっきりと書いておられます。そして、大川氏は人々に霊性に目覚め、一人ひとりが 内なる仏陀に目覚めて欲しい気づいて欲しいと書いています。そもそも、人々の霊性 を覚醒させるためにこそ、大霊は進化した魂を地上に送りこんだのであり、人々を支 配するためではないのです。

大川氏の書籍を読む場合、その書籍に出てくる「仏陀」は、大霊が人間を導くために 地上に送り込んだ仏陀を指すと同時にそれはまた人間一人ひとりの内にいまだ目覚め ていないが確かに内在する仏陀(仏性)をも指すことを念頭におくべきです。

また、基本教義とされる四正道からも、大川氏が信者を霊的に進化させたいのであ り、決して隷属させたいのではないことが判断できると思います。大川氏そして教団 が信者にたいして何か異常な戒律や普通の生活を制限するような教義を説いているの でしょうか。そうした話は聞いたことありません。大川氏は人間としての正しい生き 方としての方向を示し、それを信じよと説いてはいると思いますが、各人の自由を制 限するような教えは説いてはいないと思います。

結論として、大川氏の書籍を読む限りは、その教義の内容から、幸福の科学の信者 が大川教祖に盲目的に思想的に隷属する、ということは考えにくいですね。佐倉さん 自身が、自分が気になる大川氏の指導者として一面を取り出し、それを独裁者である というバランスを欠いた解釈をしているだけのことであると思います。こうした間 違った解釈の根本的原因は「霊的真理」を唯物論的に解釈しようとしていることにあ ります。

[幸福の科学の会員は]独裁主義・思想的奴隷ではありません。(梅本さん)

政治的指導者の主張に対して、わたしたちが、賛成できることしか口に出来ず、賛 成しかねることに関して公に語りあうことが禁止されているならば、わたしたちは奴 隷状態にあるといえるでしょう。独裁者は反論を許しません。奴隷に甘んじたくなけ れば、わたしたちは、独裁者を倒すか、国外に脱出するほかありません。

幸福の科学も一つの組織なのですから、その組織の規律を守れなかったり、その組織 に賛同できないなら出るしかないでしょう。特に宗教団体なのですから、教祖や教団 を信じず疑いを持っている人がその中にいること自体おかしなことではないでしょう か。問題はオウムのように出たがっている人を監禁したり、薬物漬けにしたり、ある いは殺してしまったりする場合です。ですから、こうした宗教団体においては「退出 の自由」があるなら、それで十分であると思われます。また思想的にも奴隷になりえ ないことは上に述べたとおりです。

今回の幸福の科学の信者さんと佐倉さんら唯物的な考えをもっている方との対話を見 ていて改めて分かったことは、唯物論者は自らの心を小さな有限な肉体という牢獄に 閉じ込めているのだなぁ、ということです。つまり、肉体に隷属しているのが唯物論 者なのです。

幸福の科学、そして心霊主義の考えはそうした肉体に閉じ込められた心を開放する思 想であり、決して人を隷属させるような思想ではないと思います。

 

作者より梅本幹也さんへ (00年3月12日)

それでどうしてその結論に至るのですか。(梅本さん)

わたしは、「梅本さんが自分で考えているかどうか」を、お尋ねしたのではありま せん。どんな独裁主義集団であっても、人間が自分で考えることができないようにす ることなど不可能です。独裁主義の顕著な特徴の一つは、むしろ、権力者の方針や意 見や思想に対して、公に異見や批判や疑問を自由に述べることができないところにあ ります。

何か勘違いなさっているようですね。幸福の科学のなかに「権力」というものは存在 しません。「権力者」も存在しません。そこにあるのは仏陀の権威とそれに対する 人々の信仰心だけです。

 

(2)仏典の価値?

「資料主義の限界」については、おっしゃるとおりで、私たちがそれによってブッ ダの思想を完全に突き止めることは不可能でしょう。しかし、仏典として残された資 料や考古学的情報だけが、歴史上のブッダの思想に迫ることのできる、わたしたちの 唯一の手段です。したがって、ブッダの思想について語るなら、少なくとも、仏典と して残された資料から語らねばなりません。そうでなければ個人の単なる空想にすぎ ないからです。
これも唯物論的考えですね。佐倉さんはブッダの思想に迫る唯一の手段が「仏典とし て残された資料」以外ありえないと思い込んでいるようですが、佐倉さんの仰るその 「仏典として残された資料」によれば、釈尊自身が過去の仏たちの生涯や思想を超常 的な能力で知り、弟子に説いていることになっています。であるなら、同様に大川氏 が釈尊の思想を仏典によらずに知ることも不可能ではないことになります。仏典によ らなければ知ることができないのは覚者(仏陀)ではなく凡夫です。

比丘たちよ、完全なさとりに入り、煩悩の障害を断ち、輪廻の道を断ち、輪廻を 終息し、あらゆる苦しみを超克された過去の仏たちについて、私、如来が、「その世 尊たちはかくかくの生まれであった。またかくかくの名、かくかくの姓、かくかくの 戒め、かくかくの教え、かくかくの智慧をもち、かくかくに過ごし、かくかくに解脱 された」というぐあいに、生まれの点からも、また名・姓・寿命・双璧の弟子、弟子 の集いの点からも記憶しているのは、ことがらの真理に通達したためでもあり、また 神々が私、如来にこのことを告げたためでもあるのだ。

(長部経典第一四経過去仏の伝記(大本縁経)「ブッダのことば1 原始仏典 3」P197草間法照訳 講談社)

このように真の仏陀は経典によらず過去の仏陀たちのことを知ることが可能であるこ とは「仏典として残された資料」に書かれていることなのです。

 


(3)幸福の科学とGLA、仏典との整合性

幸福の科学の大川さんは、もともと、GLAという新興宗教から出発しているの で、GLAの教祖高橋信次さんの教えと同じように、仏教はあとからその教義に取り 入れられた二次的なものになっています。そのために、自分たちの教義に合うように 仏教を解釈しようと無理をしているので、その教えは仏教としてはとても荒唐無稽な ものとなっています。大川さんの教えは仏教とはほとんど何の関係もないことが、仏 典を読めば読むほど明らかになっていきます。したがって、幸福の科学が「仏典を信 用するなと」その信者に教え込もうとするのはよくわかります。仏典は大川さんの教 えがニセ仏教であることを示してしまうからでしょう。

そうでしょうか。確かに初期のころの書籍などからすると、GLAの影響はあったよ うです。しかし、大川氏自身の思想とGLAの思想とは説かれている内容と量からみて 別であると考えるほうが妥当だと思われます。それに、すでに大川氏自身によりGL Aの影響は排除されているようです。

幸福の科学をGLAの派生団体であると佐倉さんが考えるのも無理はありません。なぜ なら、佐倉さんの唯物論的な思考ではそのようにしか考えることができないからで す。地上的には先に出現したものが後のものに影響を与えたに違いないとなってしま います。佐倉さんのように考えるなら当然釈尊の思想もアーラーラ・カーラーマ仙、 あるいはウッダカ・ラーマプッタ仙から派生したということになるのでしょうね。し かし、それは間違っていますね。

「GLAから派生した」という表現が、お気に召さなければ、「GLA系統」と言い換え ても構いません。要するに、幸福の科学の教えのほとんどすべては、そのルーツを GLA(および、生長の家、生長の家のルーツである大本教)など日本の新興宗教に見 出すことができること(そして仏教的要素はあとからつけ加えられたものであるため 仏教との折り合いが悪いこと)をわたしは示唆したかったわけです。つまり、大川さ んの教えのネタは霊界ではなくこれらの日本の新興宗教であるということです。

前回も述べましたが、何と言っても、幸福の科学の教えから伝統的仏教の教えを差 し引いたものと高橋信次の教えから伝統的仏教の教えを差し引いたものがほぼ一致し ている事実は、どうしても否定できません。 繰り返してもういちど例を挙げます と、霊界中心主義(霊界が「実在界」とよばれ、この世は仮の世)、霊魂中心主義 (永遠に存続する魂が人間の本質で、肉体は魂が着ているもので、死後肉体を離れて 魂が生存し続ける)、霊界の構造(何次元の高低の世界、大宇宙大神霊、守護・指導 霊、魂の兄弟、世界の宗教家たち、イエスやマホメットや孔子など、みんなはそのな かに含有させて済ましている)、神と仏を一緒にする(「神仏」という奇妙な概念を 使用する。)、現代人を過去の偉人の生まれ変わりだと主張する(矢内原忠雄はペテ ロの生まれ変わり、など)、般若心経の「空」の解釈で、根底には何らかの微細な粒 子・エネルギーがあるのだとする説、ユートピア主義、世界は神によって創造された という説、人間は「神の子」であるという説、教祖を霊界の大指導者霊が地上に姿を 取って現れた「主」として崇める信仰、等々。切りがありません。

これら霊的な真理はなにも日本に限ったことではありません。世界の様々な地域・時 代において霊界通信の現象は起こっています。内容も主要な部分において共通してい ます。私が持っている書籍では、フランス、アラン・カーデックの「霊の書」、イギ リス、グレース・クックの「ホワイトイーグルの霊示」、モーリス・バーバネルの 「シルバーバーチの霊言」、アメリカ、ジェーン・ロバーツの「セス情報」など。そ のほか日本に紹介されていないものも当然たくさんあると思われます。

これら、世界の異なる地域、異なる時代に起こっている霊界通信は何から派生したと いうのでしょう。その源は霊界であるとしか言えないと思います。ただ残念なことに 佐倉さんのこうした方面への知識が乏しいためにご自分の知っている範囲のなかでな んとか唯物論的に整合性をもった説明を必死に構築しようとしているようにみえま す。なにやら金光教まで関連付けたりしはじめたようですね。できれば、その知識の 範囲をもっともっと広げていってほしいと思います。そうしたら、こうした霊的真理 は人類とって普遍的なものであり、何々はどこそこから派生したという考え自体がば からしいことであることに気づくでしょう。

ところで、この霊界通信ですが「仏典として残された資料」にも、もちろん残ってい ます。

スッタニパータとともに最古と言われる経典サンユッタ・ニカーヤ第1集(詩句をと もなった集)です。(「ブッダ 神々との対話 サンユッタ・ニカーヤ1」「ブッダ  悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤ2」中村 元訳 岩波文庫)これら「全編」 が釈尊および弟子と神々との、あるいは悪魔たちとの対話集です。この経典には数多 くの神々あるいは神の子と称せられる存在が登場し意見を述べています。それに対し て釈尊が自分の意見を述べたり、あるいは神々の意見を誉めたり、あるいはただ聞い ていたりする情景が描かれています。また悪魔の惑わしを退けたり問いかけを論破し たりする場面が描かれています。

たとえば、サンユッタ・ニカーヤ第1篇第4章 第7節 集会

わたしは、このように聞いた。あるとき尊師は、釈迦族のあいだで、カピラ城の うちの大きな林に、多くの修行僧のなかまとともに、すなわち、すべてアラハント (阿羅漢)である五百人ほどの修行僧とともに住しておられた。十の世界からも多勢 の神々が、尊師と修行僧のなかまとに見(まみ)えるために集まっていた。

 そのとき、四つの〈浄居天の神々〉は、次のように思った。 「いま、尊師は、釈迦族のあいだで、カピラ城のうちの大きな林に、多くの修行 僧のなかまとともに、すなわち、すべてアラハントである五百人ほどの修行僧ととも に住しておられる。  十の世界から神々が、多勢、尊師と修行僧のなかまとに見えるために集まって いる。さあ、われらもまた、尊師のもとに参ろう。そこにおもむいてから、尊師のも とで、それぞれの詩をとなえることにしよう」と。

 そこで、それらの神々は、譬えば力ある男が、屈した腕を伸ばし、あるいは伸 ばした腕を屈するように、浄居天の神々のあいだで姿を没して、尊師の前に現われ た。

 さて、それらの神々は、尊師に挨拶して、傍らに立った。  傍らに立って、或る神は、尊師のもとで、次の詩をとなえた。     「林の中に、大いなる集会あり、神々の群が来集した。     この真理の集いにわれらはやってきた。不敗なる集い(サンガ)にお目 にかかるために。」

 また他の或る神は、尊師のもとで、次の詩をとなえた。     「そこで、修行僧たちは、精神を集中統一した。おのが心を直くした。     御者が手綱を執ったように、     賢者は諸々の感官をまもる。」

 また他の或る神は、尊師のもとで、この詩をとなえた。     「杭を断ち切り、かんぬきを断ち切り、     柱を打ち砕き、妄執を去り、     かれらは、清らかで、汚れなき者として歩む。     眼(まなこ)ある人(=ブッダ)によく調練された若き象として。」

 また他の神は、尊師のもとで、この詩をとなえた。     「ブッダに帰依した人々は、すべて、悪しき境地におもむくことはない であろう。     かれらは、人間の身体を捨てたあとでは、神の身体を満たすであろ う。」

(「ブッダ 神々との対話 サンユッタ・ニカーヤ1 中村 元訳 岩波文庫」 p61-63)

このように、「仏典として残された資料」から「霊言、霊界通信は釈尊や悟りを開い た弟子も行っていた」ことであることが分かります。ですから、霊言という手法を とったからといって非仏教的でありGLAなどから派生したと短絡的に断定することは できません。

また、「太陽の法」的な内容(荒唐無稽?)の仏典さえもあります。長いのでさわり の部分を略して書いてみます。

いつかこの世界が壊滅し、大部分の生ける者たちはアーバッサラ天に精神力によ りかたちづくられ、歓喜を食べ、自ら光り輝き、空中を飛び、浄福なさまを保って、 悠久の期間存在する。

長い期間を経たのち、いつかこの世界が再び生成する。そして大部分の生ける者 たちはアーバッサラ神より没して、この世にもどってくる。その時、万物は一体とし て水から成っていて、深い暗黒に蔽われていた。太陽も月も知られなく、星座や星の 光も知られなかった。昼も夜も知られなく、暦における月も半月も知られなく、季節 も暦の一年も知られなかった。男も女も知られなかった。生ける者はただ生ける者と してのみ呼ばれた。

長い期間が経ったとき、ラサ(味)という完全な色と香りと味をそなえた汁液質 の精妙なる地が水の上に拡がりました。そして、ある欲に駆られやすい性質の者がそ の地をなめて、その地をなめることにとりつかれてしまい、彼に欲望というものがも たらされた。他の者も真似て彼らにも欲望というものがもたらされた。彼らはラサな る地を小さな塊りに分けて食べるようになった。そのため彼らから自ら輝く光が消え 失せてしまった。自ら輝く光が消え失せたとき、太陽と月が出現し、星座と星の光が 出現した。そして、昼と夜が設定され、暦における月と半月が設定された。そして季 節と暦の一年が設定された。

そのようにして彼ら生ける者たちがラサなる地を食物として、それを滋養として 糧として悠久の期間存在するうちに、次第に彼ら生ける者たちの身体には堅さがもた らされ、そして容貌の違いが見られるようになった。そこで見目麗しいかの生ける者 たちは、見目悪しきかの生ける者たちを軽蔑した。彼らが容貌に対するおごりによっ て高慢という性質をもったときにラサなる地は消え失せてしまった。

ラサという地が消え失せたとき、地のパッパタカという菌類(きのこ)が出現し た。彼ら生ける者たちはパッパタカ食べて悠久の期間存在した。次第に彼ら生ける者 たちの身体にはよりいっそう堅さがもたらされ、そして容貌の違いが見られるように なった。彼らが容貌のおごりによって高慢という性質をもったときに、地のパッパタ カが消え失せた。

地のパッパタカが消え失せたとき、バダーラターという蔓草類の群生が出現し た。彼ら生ける者たちはバダーラター食べて悠久の期間存在した。次第に彼らの身体 によりいっそうの堅さがもたらされ、そして容貌の違いが見られるようになった。彼 らが容貌のおごりによって高慢という性質をもったときに、バダーラターというもの は消え失せた。

さて、バダーラターという蔓草類が消え失せたとき、耕さずに熟する稲が出現し た。それは糠がなく穀皮がなく清らかで芳ばしい香りをもった米粒を実らすのであ る。彼らはそれを糧として悠久の期間存在した。次第に彼らの身体にいっそうの堅さ がもたらされた。そして容貌の違いが見られるようになった。女には女の相が顕れ、 男には男の相が顕れた。そして、女たちはきわめて強く男を恋い慕い、男は女を恋い 慕った。彼らが互いに他を非常に恋い慕っているうちに、欲情が起こり、恋に身を焦 がした。彼らは恋焦がれることによって、ついに性のいとなみを行うようになった。

「長部経典」第27経人間社会の成り立ち(起源経)「ブッダのことば1 原始 仏典3」向井亮訳 講談社)

 


(4)釈尊も普遍的規範と宣言

なお、上にあげた経典の最初のあたりに次のような記述もあります。

 「その訳は何かといえば、ヴァーセッタよ、これらの四つの階級の中のだれに せよ、およそ比丘にして、尊敬に値する者、煩悩の汚れを滅ぼし尽くした者、清浄な る修行を完成した者、なすべきことをなし終えた者、重荷をおろした者、自らの目的 を果した者、生存の束縛を断ち切った者、正しい智慧によって解脱した者であれば、 その者が、世の中の最上の者と、まさに普遍的規範の点から呼ばれるのであり、普遍 的規範に反する点からではないからである。  なぜならば、ヴァーセッタよ、〈普遍的規範が、この現世と来世とにわたっ て、人びとの間で最もすぐれたものである〉からである。」

  「ヴァーセッタよ、君たちは、それぞれ異なった生まれ、異なった名、異 なった姓、異なった家柄であって、在家生活を離れて出家の道に入ったのだ。もし人 に『あなたはどういう者か』と尋ねられたときは、『われわれはシャカ族の出身者に 従う沙門である』と名のるがよい。    (中略)   『われは、世尊の実の子として、その口から生まれたのであって、普遍的規 範から生まれた、普遍的規範により造られた、普遍的規範の相続者である』と。   その訳は何かといえば、ヴァーセッタよ、如来には次のような異名があるか らである。〈普遍的規範に属するもの〉とも、〈神聖なる存在に属するもの〉とも、 〈普遍的規範となったもの〉とも、〈神聖な存在となったもの〉ともいうものであ る。

まあ、これを佐倉さん風に書き換えれば 「〈普遍的規範〉がこの現世と来世とにわたって人びとの間で最もすぐれたものであ る。如来(である私ゴータマブッダ)は普遍的規範に属するものとも、神聖なる存在 に属するものとも、普遍的規範となったものとも、神聖なる存在となったものともい うものである」

つまり、釈尊も「仏典として残された資料」によれば自分のことを〈普遍的規範〉で あり、〈この現世と来世とにわたって、人々の間で最もすぐれたものである〉と言っ ているわけです。

 


(5)道徳的価値の究極的根拠

「永遠の仏陀」・正しき価値基準より

しかし、考えてもみよ。おまえたちも、思ったことを振り返って、恥ずかしく感 じることがあるだろう。自分の思ったことを振り返って、誇らしく思うこともあるだ ろう。なぜ、あるものを恥ずかしく思い、、なぜ、あるものを誇らしく思うか。その 判断の根拠こそが、おまえたちのなかに宿りたる良心の存在であるのだ。この良心が あることが、おまえたちが仏の子であることの証明にほかならない。仏の子であるか ら、善そのものの価値基準が、そのなかにあるのだ。

「仏典として残された資料」(イティブッタカ 40知識)より

 たしかに次のことを世尊が説かれた、尊むべきお方が説かれた、と私は聞いて いる。 「比丘たち、無智(無明)は、不善なるものに達するための先導となるものであ る。これに従うものとして、無慚(むざん:内心に恥じ入る心のないこと)と、無愧 (むぎ:外部に恥じる心のないこと)とが生じるのである。  しかし比丘たち、知識(明)は、善いものに達するための先導となるものであ り、これに従うものとして、慚(内心に恥じ入る心)と、愧(外部に恥じる心)とが 生じるのである。  このことを世尊は語られ、それについて次のように説かれた。   あらゆる悪い境涯は、この世界にも、他の世界にも存在する。悪い境涯のす べては、無智を根本として、欲望と貪りとの合成である。   また、よこしまなる欲望があるために、恥じ入る心も、他を敬う心もない。 したがって、彼には罪悪が生じ、罪悪により苦しい境涯におもむく。   それゆえに、欲望と貪りと無智とを離貪して、知識を身につけて比丘は、す べての悪い境涯を捨離するであろう。

 (「ブッダの詩2 原始仏典八」 渡辺顕信訳 講談社 P236-237)

このように、善の価値基準は人間の心の中にあると説かれています。そして、良心の 働きの表われとして「恥ずかしく思う」ということが説かれています。この点でも幸 福の科学と「仏典として残された資料」との整合性が発見できるのです。また、仏典 において釈尊は何が善で何が悪かを様々な場面において述べています。仏陀の役目と して、何が善で何が悪であるか、人々に示す役目があるのだと思います。

 


(6)唯物論者と地獄

私が学んだ様々な霊界通信などの心霊主義の書籍によれば、唯物論者(死後の生命を 認めない者)があの世での正常な生活に移行できないこと、つまり程度の差はあれど 地獄といわれる境涯に赴く可能性が高いことは至極当然なことです。心霊主義によれ ば肉体を脱いで霊体になったとき、生前考えていたとおりの自分になると言われてい ます。つまり、唯物論者は死後の自分を否定することになってしまうのです。

もちろん、生前唯物論を信じていた者すべてが天国に行けないというわけではありま せん。それほど強く唯物的な考えに染まっていない者は、縁のあった霊、例えば親や 兄弟、先に亡くなっている知人などが導きに来て、肉体を持って生きていた時と死ん でからの違いに気づかせようとしてくれるので次第に霊として自覚を取り戻し(つま りは唯物論が間違いであったことに気づいて)あの世での生活を始めていきます。 (ここから生前為した行為によって天国に行くものと、地獄で反省の期間をもつもの に分かれる)

しかし、唯物的な考えを強く心に刻んで生きた者は肉体がもう既に無く自分が霊であ ることがなかなか分からずに霊体(幽体)を肉体であると勘違いし、まだ生きている と思い込んで生前住んでいた土地や家に縛られた状態、家族に憑依した状態で生きて いくことになります。自分が死んだことに気づき霊であることを自覚するまで。

また、自分がもはや肉体人間ではなく霊であることに気づいても天上界に上がってこ れない者たちがいます。生前悪を為した者。また自分独りが唯物的な考えに染まった だけでなく、その間違った思想を広め多くの人を狂わせてしまった者たちです。そう した者たちは自分が影響を与え狂わせてしまった者が正常になるまで天上界に上がっ てこれないのです。

こうしたことは何も誰かが裁いて地獄に落とすということではなく、自分の思想にふ さわしい境涯に自ら赴くのです。肉体を脱ぎ捨て心だけになったとき、生前思ってい たとおりの自分になるだけなのです。そして似たような想念をもったもの同士が集 まってそれぞれの世界を創って生きていくことになります。そして、各々が創った世 界が苦しみに満ちた世界ならそれは地獄と呼ばれ、安らぎの世界ならそれは天国と呼 ばれているのです。

まとめるなら、唯物論者がすべて地獄に行くとはいえないが、少なくとも唯物的考え を持ったままでは正常な霊としての生活(天国)には移行できない。ゆえに唯物論を 深く心に刻んだものが地獄に行く可能性はかなり大きい。さらにその唯物論を人々に 広めた者は・・・。

 


(7)中道

・・・ヴァッチャヤは、霊魂と身体は同一であるか別であるか、人は死後にも なお存在するか存在しないか等について、世尊がいずれの意見であるかを問うた。だ が、世尊は、そのいずれの意見もとらない旨を答えた。

(『マッジマ・ニカーヤ』、中部経典72,漢訳雑阿含経34,24、増谷訳 『仏教の根本聖典』、241頁)

ある時、世尊は、サーヴァッティーの祇園精舎にあらわれた。その時、ひとり 離れて瞑想静座していたマールンクヤ比丘は、心の中でかように思った。「世尊は、 このような問題について説かず、捨て置きて、問えば答えることを拒む。すなわち、 世界は常住であるか、無常であるか、世界は辺限りがあるか、辺限りがないか。霊魂 と身体は同じであるか、別であるか。人は死後も存するか、存せぬか。このような問 題について、世尊は、なにごとも説いてはくださらぬ。」

(『マッジマ・ニカーヤ』、中部経典6,3 漢訳中阿含経221、増谷訳 『仏教の根本聖典』、236?237頁)

「滅びてしまったそのひとは存在しないのでしょうか? あるいは常住であっ て、そこなわれないのでしょうか? 聖者様、どうかそれをわたしに説明してくださ い。・・・」 師[ブッダ]は答えた。「ウバシーヴァよ、滅びてしまった者には、 それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすが[根拠]が、 かれに[関して]はない。」

(『スッタニパータ』1075?6、中村訳『ブッダのことば』、226頁)

あきらかに、断見・常見の問題は、死後人間が生き残る(常見)か生き残らない (断見)かという問題であって、その問題にブッダは答えることを拒否したのです。 このブッダの立場を後代の仏教徒は「中道」と呼んで、バラモン教などの宗教(常 見)や唯物論(断見)と区別された仏教独自の立場を確立したのです。したがって、

仏教では霊魂の問題に深くかかずらおうとしはしなかった。霊魂が無い、と断言 したわけではないが、霊魂というものが有るか無いかといことにかかわらずに、自分 の死生観を確立しようとした。

(中村元、「死をいかに解するか?」『仏教思想 10 死』、平楽寺書店、2 4頁)

という解釈は原始仏教の立場を正しく反映していると思います。その逆に、「あの 世のシステム、すべて解明」などといって、死後も魂が生き残ることを教える幸福の 科学の教えは、原始仏教の中道思想に完全に反しているわけです。たった一人の誇大 妄想家のデタラメかもしれないものに惑わされて、2千5百年もの長い年月を通じて 伝えられてきた、世界思想史的にもユニークなブッダの中道思想を、向さんのような まじめな人が、自分の目で調べないまま誤解するに至るのは、まったく悲劇としか言 い様がありません。

これらについては無我論のところで書きましたが、「霊魂と身体は同一であるか別で あるか」という問いについて、この問い自体が霊魂が存在することを前提としていま す。また、「人は死後も存在するか、存在しないか」、これは人格完成者(如来)の ことです。

また、スッタニパータのここの部分で論じられている「滅びてしまったそのひと」と は、「あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨 て、最上の〈想いからの解脱〉において解脱した人」(1071)についてであり、 煩悩を持った迷いの生存を繰り返す者についてではありませんね。(このように一部 分だけを抜き出して、ご自分の都合のよいように解釈をつけて、もともとの意味を捻 じ曲げることは感心できません)

こうした問い(霊魂は身体と同一か?、解脱した人は死後存在するのかしないのか) 自体が転生輪廻を前提にしていなければ出てこないものです。これは釈尊自らが人間 を転生輪廻する存在であると言及する「仏典として残された資料」がいくらでもある こととも合致します。

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(1)仏教の教えと幸福の科学

このように、善の価値基準は人間の心の中にあると説かれています。そして、良心の働きの表われとして「恥ずかしく思う」ということが説かれています。この点でも幸福の科学と「仏典として残された資料」との整合性が発見できるのです。

幸福の科学の教えがすべて非仏教的であると言っているのではありませんので、誤解されないように。

幸福の科学の教えは、そのルーツが日本の新興宗教(金光教→大本教→生長の家→GLA)にあり、GLAと同じくその上に仏教の教えをいくつか取り入れ、さらに、海外の新興宗教(いわゆる「ニューエイジ宗教」)にも影響されてできあがったものであるため、仏教的なものと非仏教的なものとの混在宗教となっているのだと思います。

だから、たとえば、インドの土着信仰である輪廻の考えが、インドで育った仏教のなかにあること、また、それにもかかわらず、仏教は輪廻の主体(魂、アートマン)の存在を主張しなかった(無我)ことも、よく知られた事実ですが、幸福の科学はそれを認めることができません。そして、仏教が輪廻(インドの土着信仰)を語っているから輪廻の主体(魂、アートマン)の存在も主張しているのだ、と単純に断定してしまうのも、そのルーツが非仏教的なもの(はじめから有魂主義)だからだろうと思われます。


(2)宗教文学(仏教)と霊界通信(幸福の科学)

ところで、この霊界通信ですが「仏典として残された資料」にも、もちろん残っています。

スッタニパータとともに最古と言われる経典サンユッタ・ニカーヤ第1集(詩句をともなった集)です。(「ブッダ 神々との対話 サンユッタ・ニカーヤ1」「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤ2」中村 元訳 岩波文庫)これら「全編」が釈尊および弟子と神々との、あるいは悪魔たちとの対話集です。

幸福の科学の立場では、宗教文学というものが理解できず、単直に「霊界通信」などと実体的にしか解釈せできないのですね。大川さんも、同様に、浦島太郎の昔話を実体的に解釈しています。

[この六次元のなかには]たとえば、竜宮界という世界があります。昔から日本の昔話、伝説に出てくる竜宮という世界ですね。・・・この竜宮の中には、さまざまな生物が住んでいます。人霊だけでなくて、たとえば、竜とか、そういうものがいると昔から言われています。・・・これ以外にも、たとえば、仙人界とか、天狗界とかいうものも、一部この世界の裏側にはあります。

(大川隆法、『太陽の法』、101〜102ページ)

この調子でいけば、おそらく、大川さんは、かぐや姫の物語も、同様に「霊界通信」として実体的に解釈しておられるのではないでしょうか。文学(創作)と現実の区別がつかないのです。

わたしの手元に「幸福の科学」誌一冊があります。このなかに、大阪の木村幹治さん(43歳)という信者の方からの投書が載っています。

私は小学三年生の時、木から落ちて頭に大ケガをし、手術をしました。ふと気がつくと「もう一人の私」が、ベッドに横たわる自分を見おろしているのです。それ以来、私は夜中に身体を抜け出して、あの世に行く体験をするようになりました。

地獄に行くのは、叱られた後など、精神的プレッシャーがあるときです。突然身体が軽くなり、暗い世界をまっ逆さまに落ちて、気がつくと鬼たちに追いかけられています。つかまる寸前に目が覚めますが、すごい恐怖です。 一方、天国は明るく温かで、心が豊かにふくらむ世界です。友人たちと楽しく語らい、笑いが絶えません。 三ヶ月ほど前にも地獄を見てきました。そこには大きな会議室があり、私が入ろうとすると、受け付けの人が「お前の出身大学はどこか。専門は何だ」と高飛車な態度で尋問してきます。会議室には医者が四十人はど並んでいましたが、みな目の奥が冷たい感じでした。会議では、なんと「脳死は人の死である」と決めようとしているのです。 その場にいた仲間二人と「私たちは心の医者だ。脳死は断じて人の死ではない」と、必死で訴えたところで目が覚めました。 この世とあの世が、互いに連動するようにして関わっていることを痛感する体験でした。

(「幸福の科学」誌97年8月号、33頁)

この方は夢と現実を区別することができません。このように、空想(文学、夢)と現実を区別することができないという事態は、幸福の科学では蔓延しているのでしょうか・・・・。

そういえば、仏典にでてくる神々と悪魔のお話でした。

・・・一つの経は、悪魔説話の様式をもって、一人の比丘尼の述懐を、つぎのように記しとどめている。その女性の名はウッパチャーラーであって、そえがこの経の題とせられている。

ある日のこと、彼女は、朝はやく精舎をいでて、サーヴァッティの町に托鉢し、食事の後、一本の木のもとで、昼の憩いを楽しんでいた。その時、悪魔が彼女に囁きかけてきたという。

「比丘尼よ、なんじは、いずこに生まれたいと思うか。」
「友よ、わたしは、どこに生まれたいとも思いませぬ。」

そこから、経のことばは、韻文をもって問答をつづっている。・・・仏教の初期の経典は、しばしば、ブッダやその弟子たちの心の迷いや不安を描写するのに、悪魔説話の様式をもちいている。この経の場合もそれである。

(増谷文雄、『新しい仏教のこころ』、講談社現代新書、57〜58頁)

表向きの仏伝では、「成道前にあまたの魔が一度に出現し、ブッダはそのすべてを降して成道した」(降魔成道)。ところが、古い原始仏典ではブッダと悪魔の対話について、わざわざ一章を設けているほどしばしば悪魔が出現します。本来なら、表向きの仏伝のように一度すべての魔を降したならば、もう悪魔には御用はなしになるものとおもうのが当然ではないでしょうか。成道後までもしばしば悪魔が出現するのは、それなりに何か深いわけがなければなりません。これがこの章(「悪魔との対話」)のテーマなのです。

結論から先に述べますと、悟ったらすべておしまいというものではないということです。つまり、前章で述べました「清浄行」に深く関っているのです。悪魔は当然ブッダの内心の汚れであり、こころのネガティブ(消極的)な一面を表しているのではないでしょうか。ブッダは伝道者でありましたが、また一面、修行者でありました。一生自己浄化につとめ、向上の一路を歩んだ人であります。悪魔は、向上一路に現れるブッダの迷いであり、煩悩といってよいものです。それを浄化しつつ一生を歩まれたと考えてよいでしょう。

またブッダの伝道は、高い処から法を説くというより、修行者の仲間とともに歩むという考えでありました。ブッダの教団に入るものは、弟子というより仲間であり、友でありました。共に慈しみあい、助け合って仲間と共に真理の道を歩む「清浄行」でありました。ブッダの悪魔は、もとより我われ凡人の煩悩とは質的に異なり、むしろ自己反省のきっかけであったと考えられます。ブッダはもともと若いときから深い内省の人であり、ブッダの人間性の大きな特徴の一つなのです。・・・・

次の話はかの有名な祇園精舎でのことであります。

そのとき悪魔・悪しき者は尊師に近づいてから、尊師のもとで、この詩句をとなえた。

「子ある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。
人間の喜びは、執着するよりどころによって起こる。
執着するよりどころのない人は、実に、喜ぶことがない。」

〔尊師いわく、〕

「子ある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。
人間の憂いは、執着するよりどころによって起こる。
執着するよりどころのない人は、実に、憂うることがない。」

この一節は悪魔とブッダとの間で、喜びと憂いが、ちょうど対句になっております。悪魔の喜びは一般の我々の価値観と考えてもよいでしょう。ブッダはそれを一つ一つひっくり返していきます。確かによく考えてみると、子や牛(財産)について喜ぶ者は、それらについて憂うることになります。

(中村元・田辺祥二著、『ブッダの人と思想』、NHKブックス、25〜26ページ )

仏典における悪魔説話とは、心の中における誘惑の囁きとそれに対する対応するブッダやその仲間たちの深い内省の営みを記したものでしょうか。それとも、ブッダの人々との対話相手が後に悪魔や神々との対話としての説話に作り上げられたのでしょうか。他の仏典では悪魔の代りに神が相手となってこれとまったく同じ会話が別の説話として残されています。いずれにしても、そこから、「悪魔や神々のような非科学的な存在が登場する仏典は荒唐無稽だ」(唯物主義)とか、「仏典に悪魔や神々が登場するのだから悪魔や神々は存在するに違いない」(霊魂主義)といった形而上学の話に行かないのが、仏教の伝統だと思います。唯物主義(断見)も霊魂主義(常見)も、人間の知識に届かないことがらについて形而上学的論議に落ち込んだ、同じ穴のムジナではないでしょうか。


(3)心霊主義

なにやら金光教まで関連付けたりしはじめたようですね。できれば、その知識の 範囲をもっともっと広げていってほしいと思います。そうしたら、こうした霊的真理は人類とって普遍的なものであり、何々はどこそこから派生したという考え自体がばからしいことであることに気づくでしょう。

そうですね、たとえば、キリストと出雲の天皇を単直に同一視する人(岡野博さん)もいますから、「こうした霊的真理は人類とって普遍的なもの」と言えるかもしれません。もっとも、それらの主張が相互に矛盾だらけなので、デタラメだとばれてしまうわけですね。


(4)権力と服従

人々を支 配するためではないのです。・・・ 何か勘違いなさっているようですね。幸福の科学のなかに「権力」というものは存在 しません。「権力者」も存在しません。そこにあるのは仏陀の権威とそれに対する 人々の信仰心だけです。
わたしは、幸福の科学を、そとから眺めているだけにすぎませんから、もしかしたら、勘違いしているのかもしれません。わたしは自分が勘違いしていることを望みます。しかし、たとえば、
大川隆法総裁先生は地球をおつくりになったかたです。ある幸福の科学の信者

というふうに、大川さんが神格化され、同時に大川さんご自身も

神近き者が上に立ち、そうでないものが下に立つ、支配と被支配の関係、権力と服従の関係、こうしたものがあります。(大川隆法、『太陽の法』、227ページ)

などと言われて、それが魂修業をしている人類に必要な秩序(同ページ)である、と言われたりすると、やっぱり、考えさせられます。

「大川氏が本質的には人間はみんな等しいものであると説いている」といわれますが、曲がりなりにも仏教を教えるものならば当然でしょう。問題は、その理想が現実化されるためには大川さんへの信者の絶対的服従が必要である、という教えです。バラモン教のカースト制度と同じように、理想を現実化するための唯一の道は指導者に服従することである、という教えによって、大川さんと信者の間の「支配と被支配の関係、権力と服従の関係」が永続される仕掛けになっているわけです。だから、

我は、あなたがたの永遠の師である。 (大川隆法、『仏陀再誕』、52〜53頁)

と、宣言されるわけでしょう。