佐倉哲エッセイ集

幸福の追求

佐倉 哲


最近いただいたお便りの中で、「余計なことですが真理より自分を幸せにしたらいかがでしょう」と言って、わたしの幸福について心配してくださる方がありました。わたしがあまりにも「真理」とか「真偽の吟味」とかを強調するからでしょうか。本論はそれに対するわたしの応答であり、別に他人に勧めるようなものではありませんが、読者の中には、同じような疑問や興味を持っていらっしゃる方もおられるかも知れませんので、ここに幸福に関するわたしの一考察を紹介します。

わたしは、現在、幸福に関して考えることはほとんどありません。というのは、かなり昔のことになりますが、わたしは、幸福の追求は無意味であり不毛な努力であると気づいてしまったからなのです。

1996年12月1日



余計なことですが真理より自分を幸せにしたらいかがでしょう。(匿名希望)
わたしの幸福についてまで心配していただいて光栄です。しかし、幸福の問題は、わたしにとっては、もうとっくの昔に解決してしまった問題で、「幸福」という言葉があることさえほとんど忘れていました。それは、単に、わたしを幸せにしてくれる沢山のものに、現在の自分が囲まれているという事実だけを指しているのではありません。そのむかしあるとき、わたしは幸福を追求することは無意味であり不毛であると気がついてしまったのです。それは、人は誰でも幸せでありたいと願う事実を否定することではありません。ただ、「幸福」なるものを目標として立て、それに向かって意識的に努力する、というようなふるまいを、一切、そのとき以来捨ててしまったのです。そのときから、幸福の問題は、実に自然に、解消してしまったのです。そうすることによって、意図せずしてわたしが得たものは、自由です。そして、気がついたら、わたしはいつのまにか、四方八方から幸福に襲われているのです。来る幸福は別に拒みませんが、これはおまけです。

何故、幸福に向かって努力することは無駄な努力なのか。それは、人間というものは、いかなる状況にあろうとも、幸福であると言えば幸福であると言えるし、不幸であると言えば不幸であるとも言えるからです。 別の言い方をすれば、次のように言えるかも知れません。心の中に一本の直線を引いて、その一方の端に矢印を付け、他の一方に逆向きの矢印をつけて、幸福と不幸が逆向きになっている、という図を描いて、幸福に一歩でも近づけば、不幸から遠ざかり、不幸に一歩でも近づけば、幸福から遠ざかる、と思い込む。このような思い込みは、実は間違っているのです。幸福と不幸の関係はそのようになってはいません。幸福と不幸はもっと複雑に依存し合っています。だから、不幸ゆえの幸福、あるいは幸福ゆえの不幸、というようなことがありうるのです。しかるに、幸福という目標を立ててそれに向かって努力しようというような姿勢は、この虚妄にすぎない幸福の直線図を心に描いているところから生まれた姿勢なのです。幸福を追求することは、だから、不毛な努力なのです。

さらに、たとえ幸福は追求すべきものであると仮定しても、そのためには幸福についての具体的な知識が前提とされなければなりません。幸福という目的地に着くためには、幸福とは何かということを具体的に知っていることを必要としますが、何が幸福であるかを決定することは容易なことではありません。それは自己を知るということでもあるからです。つまり、自分が究極的に求めているものは何か具体的に知ることだからです。「自分が求めているのは『幸福』である」というのは無意味な文です。それは「自分が求めているものは『自分が求めているもの』である」ということと同じことだからです。何かよくわからない幸福を求めて努力するのは、目的地を知らないで電車に乗ってしまうようなものです。だから、あえて言えば、真理の追究は幸福追求に先行するのです。おそらくこのことゆえに、ソクラテスは、人が幸福でないのは無知だからである、と言ったのでしょう。

このようなわけで、せっかくのお勧めですが、「真理より自分を幸せにしたらいかがでしょう」というようなお誘いはおことわりせねばなりませんね。

佐倉 哲