ご無沙汰しております。グラールです。 時期的なこともあり、返事が随分と遅くなった事をお許し下さい。

さて、早速本題に入ります。 基本的に僕はふなりゅうさんと同意見です。 半信半疑の信仰などありえません。 そして、「幸福の科学を自由に疑えるか」ですが、 自由に疑えますが、疑う必要性がありません。 というか、僕自身、疑った時期もありました。 しかし、知識(幸福の科学の教義と言う意味ではありません。他の書物から得る物の 事です)をつけるに連れ、幸福の科学の正当性、教義の理解が深まりました。

あと、「信仰は後天的で洗脳に近い」とのご意見ですが、 それならば、世の中の全ては洗脳ではないでしょうか。 信仰を持つ僕から見れば、「あの世などないし、神や霊なども存在しない。」という 考え方を小学生に教える事自体が洗脳に見えて仕方がありません。 佐倉さんに文句を言う気は毛頭ないのですが、そもそも「洗脳」という言葉を使う辺 り、佐倉さんは「神などいない」という事を前提に考えていらっしゃるようです。 それが洗脳ではないでしょうか。 佐倉さんが日本の教育(ミッション系や他の宗教系除く)を受けている限り、唯物論 の洗脳を受けていると考えて差し支えないと思いますが・・・・。 論理が飛躍するようですが、これは突き詰めれば、人間の科学力で神を読み解く事な ど不可能だという事だと思います。 それならば、道標とすべきは本能的な「魂の疼き」と言う事になると思いますが、い かがでしょうか。

僕自身の理解を深める機会を下さった佐倉さん、そして、このページに集っておられ る全ての方々に感謝して、ペンを置きます。



わたしたちのやり取りが無駄とならず、そのなかからなにか学ぶべきものが生まれることを期待します。

(1)そもそものはじまり

グラールさんの最初のおたよりを読んでいて、もっとも印象に残ったのが

大川総裁先生は、仏陀と同じ法を説くために下降されたわけでもないのです。仏教関係者の方には受け入れられないかもしれませんが、それ以上の法を、この時代に合ったスタイルで説かれているのです。
というご主張でした。大川さんは仏陀の法以上の法を説くために下降された、という主張は単純な主張ではありません。膨大な仏典の中から、何がブッダの思想であるかを見極めることさえも困難ですが、このブッダの思想を理解したうえでそれと比較しなければ、「仏陀の法以上の法」というようなことは、言えないはずだからです。

そこで、わたしは、

どのようにして、何を根拠に、グラールさんは、「大川総裁先生は[ブッダ以上の法を説くために]下降された」、と信じるようになられたのですか。くわしく教えて下さい。
と尋ねました。仏典やブッダの思想を少しでもかじったことがあるものなら、この主張がいかにものすごい主張であるかわかっているからです。


(2)「魂の疼き」

ところが、わたしがうけとったグラールさんのお答えは、だいたい次のようなものでした。すなわち、グラールさんはもともと幸福の科学の家庭に生まれ、大川さんへの信仰は生まれたときから教えられたものであり、そのため説明できないが、強いて言えば「魂の疼き」なのだ、ということでした。

考えてもみて下さい。「大川総裁先生は[ブッダの法以上の法を説くために]下降された」という、ものすごい主張をされたのはグラールさんなのです。このような重大な主張をしておきながら、グラールさんはその根拠を「魂の疼き」などというご本人でさえ説明できない理由で済まされたのでした。

しかも、すべての信仰宗教がその信者に対してそうするように、信仰の根拠は論理や知識以上のなにものかである、と教え込まれているのでした。

僕は真の信仰心は論理だけから来る物ではないと思います。もちろん、大川総裁先生の教えを論理的に解釈することも 大切でしょうが、その根底に流れるのは、やはり本能的なものだと思います。
理解しようとするな、信ぜよ!


(3)「洗脳に近い」

仏典の量は、たとえばキリスト教の聖書と違って、一冊の本におさまるような生易しいものではありません。全てを収めるには一つの小さな図書館を必要とするほど、膨大なものです。一生かかっても一人で全てを読み通すことはできない、とも言われています。そのなかから、ブッダの思想を学び、比較して、初めてできるであろう、「ブッダの法以上の法」という驚くべき重大な主張が、「本能的なもの」「魂の疼き」などということだけで簡単に済ませて平気でいることのできる、こういう事態をわたしはどのように理解したらよいのでしょうか。

グラールさんの言われることから推察すると、生まれてからこのかた、「大川総裁先生は[ブッダの法以上の法を説くために]下降された」ということを教え込まれて、信じ込んでしまった。そのため、自分なりの知的根拠を持っていないために、「本能的なもの」「魂の疼き」という言葉で、それを正当化している。そういうことなのだろうと思います。

もしそうだとすると、これはもう「洗脳に近い」と考えざるを得ません。わたしは、信仰というものが、(ア)外からやって来るものであり、かつ、(イ)本人にも説明できないものである、という理由から、信仰は「洗脳に近い」ことを述べました。自主的かつ合理的判断に欠けた思い込みにすぎないからです。グラールさんの場合も、まさに、これに当たると思われました。「大川総裁先生は[ブッダの法以上の法を説くために]下降された」という信仰は、自分で文献を研究した結果ではなく、家庭の宗教的環境から教えられたままなのでしょう。つまり、自分で得たものではなく、外から注ぎ込まれたものです。また、たとえ外から注ぎ込まれたとしても、みずから納得できるような説明ができるなら洗脳とは言えませんが、「本能的なもの」「魂の疼き」というふうに、ご自分で合理的な説明ができないわけですから、「洗脳に近い」といわざるを得ない二つの条件を満たしておられるわけです。


(4)われを疑うな!

幸福の科学の信仰に関しては、さらに、もうひとつ憂慮すべきことがあります。それは、教祖である大川さんを疑ってはならない、という教えです。これはきわめて注意すべき教えですから、もう一度、ここに、引用しておきます。

もし、地上にある仏陀(大川隆法)の教えを誹り、これに背く者あらば、それは大宇宙大霊に意に反すると言ってよい。なぜならば、大宇宙大霊はその時代のすべての責任を仏陀に命じているからである。仏陀(大川隆法)はすべての権限をもって、地上に降りているからである。その時代の価値観を決め、その時代の正しさを決め、その時代の善とはないかを決め、その時代の真理とは何かを決める者、それが仏陀(大川隆法)である。したがって、たとえ心の中で過去の人をいかに尊敬しようとも、たとえ心のなかで、宇宙の彼方に住むかもしれぬ神仏をいかに尊敬しても、地に降りたる仏陀(大川隆法)を尊敬する気持ちがないならば、もはや、信仰ある者とは言えない。・・・

地上に覚者(大川隆法)あるとき、その覚者に対する信仰を忘れてはならない。地上に覚者(大川隆法)あるとき、その時代に生まれ合わせた喜びを忘れてはならない。その権威を畏れなければならない。その権威を信じなければならない。その権威に従わなければならない。その権威を否定し、忌み嫌い、この権威を自分の理解の範囲内で解釈しようとする者は、ことごとく間違いの淵のなかに投げ入れられる。それは、宇宙の仏を否定することと同じ。宇宙の仏を冒涜することと同じであるということだ。このように、仏の代理人を地上に送るということは、天上界における人格大霊(神々)の一致した考えであり、そうした代理人(大川隆法)が地上に降りてゆく時には、その者(大川隆法)の考えにすべてを合わせてゆくことが正しい行為であるのだ。これが信仰の根本であるということを、私は繰り返し繰り返し言っておく。・・・

疑いの中で真実の法は説かれない。疑いの中に広がるものは悪魔の領域である。・・・決して迷ってはならない。自分の小さな頭で何がわかるか。自分の小さな頭で理解したところで、いったい何がわかるか。小賢しい知恵で何がわかるか。なにゆえに、そのような小さな頭で、仏陀(大川隆法)の叡知を量ることができるか。仏陀を送りたもうた人格大霊の意図を見抜くことができるか。みずからの小ささをあざ笑うがよい。みずからの小ささを卑下するがよい。そのような立場に、今、自分がないということを知るがよい。疑いは、これは悪魔の心。猜疑もまた悪魔の心。恐怖もまた悪魔の心。このような心をもって探求とは言わない。・・・探求の姿勢とは、猜疑の姿勢ではない。探求心とは、猜疑心ではなく、疑念の心でもない。そのような心が起きた時、もはや修業の途上にはないと言わざるを得ない。そのような時、その者はもはや修行者とは言われない。・・・・決して、何も批判を口にしてはならない。・・・信仰とは、百パーセントの信仰にして、九十九パーセントの信仰はありえないのだ。九十九パーセントの信仰はゼロに等しい。信仰は、百パーセントを求める。それは、仏(大川隆法)はすべてであるからだ。

(大川隆法著、『仏陀再誕:縁生の弟子たちへのメッセージ』、308〜317頁)

このような教えは仏教とは何の関係もありませんが、それはともかくとして、注目すべきは、この教祖が、一ミリたりとも教祖を疑ってはならない、とその信者に教えているところです。(ブッダはその逆に、自分を信仰してはならない、と教えました。)ここに描かれている大川さんご自身の自画像はブッダというより、自分に反対する者はすべて粛正したスターリンやポルポトのような独裁者の姿といってよいでしょう。「[大川隆法の]権威を畏れなければならない。その権威を信じなければならない。その権威に従わなければならない。その権威を否定し、忌み嫌い、この権威を自分の理解の範囲内で解釈しようとする者は、ことごとく間違いの淵のなかに投げ入れられる」、などという発言はまぎれもなく独裁者のメンタリティーから出てくるものだからです。


(5)われを疑うな!という教えを信じ込んでしまった者

基本的に僕はふなりゅうさんと同意見です。 半信半疑の信仰などありえません。 そして、「幸福の科学を自由に疑えるか」ですが、 自由に疑えますが、疑う必要性がありません。
これは、ふなりゅうさんもグラールさんも、われを一ミリたりとも疑ってはならない、という大川さんの教えを信じ込んでしまっていることを意味するのでしょう。疑わないことを選択することは、選択を放棄し自由を放棄することでしょう。自由とは選択意志であり、選択意志は疑うことを必要条件とするからです。疑う自由を捨てることによって、ふなりゅうさんもグラールさんも大川さんの奴隷になったのではないでしょうか。


(6)幸福の科学の正当性

以上のようにわたしは考えているのですが、グラールさんは

知識・・・をつけるに連れ、幸福の科学の正当性、教義の理解が深まりました。
といわれています。どうやら「魂の疼き」(などという本人にも説明のできないもの)だけではなさそうです。なにかそこにはご自身を納得させている理由があるようです。そこで、わたしがグラールさん(やふなりゅうさん)を「大川さんの奴隷」などと判断を下す前に、いったい、いかなる「知識」が、「幸福の科学の正当性」を根拠づけているのか、詳しくお聞きしたいと思います。

大川さんを「疑う必要性がありません」と思わせるように至った、その知識とはどのようなものですか。「大川総裁先生は[ブッダ以上の法を説くために]下降された」と思わせるように至った、その知識とはどのようなものですか。いったい、いかなる「知識」が、そのような「幸福の科学の正当性」を根拠づけているのですか。