グラールです。

僕のメールを掲載して頂き、ありがとうございました。早速ですが、御質問に答えさせて頂きます。

幸福の科学との出会いは、産まれてすぐでした。つまり、僕の両親が会員だったのです(ちなみに、現在僕は中学2年です。ですので、正式に幸福の科学に「所属」するのは来年となります)。僕は幼少の頃より、幸福の科学の教義に触れ、育ってきました。そんな環境でしたから、ごく自然に信仰を持つようになりました。ですから、実を申し上げまして、根拠はハッキリとは答えられないのです。しいて申し上げますならば、「魂の疼き」とでも言いましょうか、そのような物です。

もちろん、論理的に説明する事も出来るのでしょうが、僕はまだその術を持ちません。それに、そのような根拠は、後付けになると思います。佐倉さんのような論理的かつ合理的思考をされる方(イヤミではありません)から見れば、陳腐と思われるかもしれません。しかし、僕は真の信仰心は論理だけから来る物ではないと思います。もちろん、大川総裁先生の教えを論理的に解釈することも大切でしょうが、その根底に流れるのは、やはり本能的なものだと思います。

途中、話が逸れているかもしれません。もしそうでしたら、ごめんなさい。論理的思考から逃げているように見られるかもしれませんが、それでもやはり、今の僕は以上の様に考えるものです。

未熟者ですが、今後とも宜しくお願いします。

幸福の科学との出会いは、産まれてすぐでした。つまり、僕の両親が会員だったのです・・・・ですから、実を申し上げまして、根拠はハッキリとは答えられないのです。しいて申し上げますならば、「魂の疼き」とでも言いましょうか、そのような物です。・・・しかし、僕は真の信仰心は論理だけから来る物ではないと思います。もちろん、大川総裁先生の教えを論理的に解釈することも大切でしょうが、その根底に流れるのは、やはり本能的なものだと思います・・・

(1)信仰は外からやって来る

統計的にも明らかにされていることですが、クリスチャンの家庭の子供がクリスチャンになる可能性はかなり高く、ユダヤ教の家庭の子供がユダヤ教徒になる可能性は非常に高く、イスラム教徒の家庭の子供がイスラム教徒になる可能性は非常に高いことが、よく知られています。逆に、ユダヤ教やイスラム教の家庭の子供がクリスチャンになる可能性は非常に低く、キリスト教やイスラム教の家庭の子供がユダヤ教徒になる可能性は非常に低く、ユダヤ教やキリスト教の家庭の子供がイスラム教徒になる可能性は非常に低いことが知られています。それは子供が養子の場合でも同じでしょう。

したがって、創価学会の両親を持つ子供が創価学会の信徒になり、幸福の科学の両親を持つ子供が幸福の科学の信徒となり、エホバの証人の両親を持つ子供がエホバの証人の信徒となり、オウムの家庭の子供がオウムの信者になるのは、ごく自然なことです。この事実は、人がどのような信仰を持つかは、その人に内在している生まれつきのもの(魂や本能)ではなく、その人が生後育った環境や教育の影響、とくに、まだ選択能力や批判能力に乏しい幼少の時の環境や教育の影響に強く依存していること、を意味しています。


(2)信仰は本人にも説明できない

「根拠はハッキリとは答えられない」、「魂の疼き」、「本能的なもの」、ということは、ようするに、信仰の根拠は本人にも説明できない、ということなのですが、これはもちろん、グラールさんに限ったことでもなければ、グラールさんが年齢的にまだ「未熟」だからでもありません。信仰というものは、本質的に説明できない・理解できない、そういうものなのです。もし、説明でき、理解できるとしたら、それは信仰ではなく、知識にすぎないからです。そのため、昔から、宗教家は知識の限界を指摘し信仰の必要性を説いてきました。

「解し得ざることを信ずる。これを信仰という。・・・解し得ることを信ずるは知識にして信仰にあらず。 」(内村鑑三)
グラールさんが「真の信仰心は論理だけから来る物ではない」と言われているのも、グラールさんがまさにそのこと -- 知識だけでなく、それ以上に信仰が必要だという教え -- を教えられてきたことを示しているのでしょう。


(3)結論

さて、もし、(1)信仰は外からやって来るものであり、(2)信仰は本人にも説明できないものであるとするならば、信仰を得る過程というものは、洗脳状態にきわめて近いと考えられます。


(4)「幸福の科学」の場合

ある信仰が本当に洗脳によるものかどうかは、結局、信仰の外にある諸々の考え方に対してオープンな心を持っているかどうか、自己批判能力や自己を疑う自由を持っているかどうか、にかかっていると思います。しかるに、わたしの知るかぎり、すべての宗教は、自己批判能力や自己を疑う自由にはなはだ欠けているようです。そして、残念ながら「幸福の科学」も例外ではないように思えます。

もし、地上にある仏陀(大川隆法)の教えを誹り、これに背く者あらば、それは大宇宙大霊に意に反すると言ってよい。なぜならば、大宇宙大霊はその時代のすべての責任を仏陀に命じているからである。仏陀(大川隆法)はすべての権限をもって、地上に降りているからである。その時代の価値観を決め、その時代の正しさを決め、その時代の善とはないかを決め、その時代の真理とは何かを決める者、それが仏陀(大川隆法)である。したがって、たとえ心の中で過去の人をいかに尊敬しようとも、たとえ心のなかで、宇宙の彼方に住むかもしれぬ神仏をいかに尊敬しても、地に降りたる仏陀(大川隆法)を尊敬する気持ちがないならば、もはや、信仰ある者とは言えない。・・・

地上に覚者(大川隆法)あるとき、その覚者に対する信仰を忘れてはならない。地上に覚者(大川隆法)あるとき、その時代に生まれ合わせた喜びを忘れてはならない。その権威を畏れなければならない。その権威を信じなければならない。その権威に従わなければならない。その権威を否定し、忌み嫌い、この権威を自分の理解の範囲内で解釈しようとする者は、ことごとく間違いの淵のなかに投げ入れられる。それは、宇宙の仏を否定することと同じ。宇宙の仏を冒涜することと同じであるということだ。このように、仏の代理人を地上に送るということは、天上界における人格大霊(神々)の一致した考えであり、そうした代理人(大川隆法)が地上に降りてゆく時には、その者(大川隆法)の考えにすべてを合わせてゆくことが正しい行為であるのだ。これが信仰の根本であるということを、私は繰り返し繰り返し言っておく。・・・

疑いの中で真実の法は説かれない。疑いの中に広がるものは悪魔の領域である。・・・決して迷ってはならない。自分の小さな頭で何がわかるか。自分の小さな頭で理解したところで、いったい何がわかるか。小賢しい知恵で何がわかるか。なにゆえに、そのような小さな頭で、仏陀(大川隆法)の叡知を量ることができるか。仏陀を送りたもうた人格大霊の意図を見抜くことができるか。みずからの小ささをあざ笑うがよい。みずからの小ささを卑下するがよい。そのような立場に、今、自分がないということを知るがよい。疑いは、これは悪魔の心。猜疑もまた悪魔の心。恐怖もまた悪魔の心。このような心をもって探求とは言わない。・・・探求の姿勢とは、猜疑の姿勢ではない。探求心とは、猜疑心ではなく、疑念の心でもない。そのような心が起きた時、もはや修業の途上にはないと言わざるを得ない。そのような時、その者はもはや修行者とは言われない。・・・・決して、何も批判を口にしてはならない。・・・信仰とは、百パーセントの信仰にして、九十九パーセントの信仰はありえないのだ。九十九パーセントの信仰はゼロに等しい。信仰は、百パーセントを求める。それは、仏(大川隆法)はすべてであるからだ。

(大川隆法著、『仏陀再誕:縁生の弟子たちへのメッセージ』、308〜317頁)

これは一言で言えば、「わたし(大川隆法)が脳の仕事するから、お前達は、何も考えないで、わたしの手足となって働け」、ということに他なりません。これは典型的な洗脳教育といっても過言ではないと思います。どうなのでしょうか、それとも、グラールさんは、「そんなことはない、わたしは自由に大川総裁の考えを疑ったり、批判することができる」、とお考えですか。