佐倉哲エッセイ集

日本と世界に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。


鳥居 孝夫さんより

00年9月1日


福岡氏の自然農法について(再々)


 佐倉哲さん、こんにちは。

 佐倉さんが紹介される文章だけを読んで福岡氏の言説を批判するのはまずい と思い、福岡氏の著作「自然農法、わら一本の革命」を取り寄せて読んでみま した。

(1) 福岡氏の科学批判について

 はっきり言ってうんざりしました。

「もう少し具体的に言うなら、ロケットをこしらえて、月の世界に行くようになって、人間はえらいことをやったと喜んでいるけれども、そのロケットを何のために使うかというと、ロケットを打ち上げる燃料が足らんから、ウランを取りに行くんだ、という」p.25。

 アポロ計画はアメリカの威信をかけたという政治的側面が大きいですが、宇宙探査の基本的な目的は学術的なものです。月にウランを取りに行くという話は聞いたことがないですね。

 ロケットを打ち上げる燃料と言っても、社会全体で消費しているエネルギーの総量からすれば、無視できるほど小さいものです。ウランにしても、現在のところ地球上にある分で足りているので、わざわざ月に取りに行く必要もありません。それに、月に豊富なウラン鉱床があるという話も聞いたことがありません。まさか、福岡氏はロケットの燃料はウランだと思っているのでしょうか?。

「時空の問題を解明したアインシュタインの相対性理論は、あまりにむつかしい理論で、その難解さに敬意を表してノーベル賞をおくられたという」p.175。

 まず第一に、アインシュタインのノーベル賞受賞は相対性理論に対してではありません、光電効果に関する業績に対してです。次に、相対性理論が高い評価を得ているのは、難解だからではありません。当時未解決であった物理学上の問題を解決した、理論から予測される現象が実際に確認された、その後の宇宙物理学などに大きな影響を与えた、からです。

 本では、その後こう続いています。

「彼の理論がこの世の相対の現象を解明し、人間を時空から解放し、楽しい平和の世にしたというのであればともかく、時間と空間についてむつかしく解説し、この世をわけがわからぬほどのむつかしい世と人びとに思いこませたのだから、むしろ人心惑乱罪が適用されるべきであった。   ・・・・・・・

 なぜなら彼がこの世を相対の世界と見るかぎり、時間を超える時間、空間でない空間を見ることも、これを測るものさしも、彼はもつことができない。」 相対性理論(物理学)というものを少しでもわかっていれば、こんな批判は出てくるはずはないんですけどね。どうも、福岡氏は相対性理論というものをちゃんと理解した上で批判しているのではなく、わずかな伝聞だけから(と言うか「相対」の一語から)勝手に憶測して、それを批判しているとしか思えません。

 福岡氏は、科学と科学者を盛んに批判していますが、批判対象に対してこんな杜撰な理解でいいのでしょうか?。老子の思想を継承していれば良いというものではないでしょう。佐倉さんは、聖書の間違いを指摘するにあたって、並のクリスチャンでは太刀打ちできないほど聖書について勉強なさっていますよね。だからこそ、私は佐倉さんに敬意を払っているのですが。

 読んでいて、怒りを通り越して、だんだん情けなくなってきましたよ。

(2)福岡氏の自然農法について

「何故何もしないで米麦ができるのか・・・」

 前の繰り返しになりますが、福岡氏は「何もしない」と言いながら、いろいろやっています。実際に本を読んでみて、それがよりはっきりとわかりました。無肥料と言いながら、米には緑肥や鶏糞を施している(「その後で乾燥鶏糞をアール当たり20〜40キログラム散布しておけば、種播きは終わりです」p.45)。無農薬と言いながら、ミカンには硫黄合剤・マシン油乳剤を散布しています(「ダニ、カイガラ虫対策だったら、私はやっぱり硫黄合剤とマシン油乳剤が比較的無難だ」p.76)。従来にはない工夫もいろいろしています(「籾は正月前に播くと、そのままでは鼠や鳥の餌になったり、腐ったりしますので、粘土団子にするわけです」p.45)

 本を読んで新たにわかったことは、福岡氏も失敗を重ね、試行錯誤を繰り返している、ということです(「まあいろいろと失敗してきましたので、どんな時、どんな失敗をするかという点では、誰よりも多く知っているという妙な自信もあります」p.55)。親から受け継いだミカン畑を全滅させたこともあるようです(p.18)。

 失敗を重ね、試行錯誤を繰り返す、それは科学者や技術者が研究・開発の現場でやっているのとまったく同じです。福岡氏の農法がうまくいっているのは、自然の哲理に基づいているからというより、試行錯誤によってうまくいったものを残してきたからです。結局私には、方向性は違うものの、福岡氏の農法も科学に基づく農業技術の一つ、としか見えません。

「額に汗して勤労するなんてことは一番愚劣なこと」

 佐倉さんの紹介だけではわからなかったのですが、福岡氏の農法では稲刈りは人の手でやっているようです(「ここにいる青年達は機械化をうらやまず、"楽は苦の種、苦は楽の種"と、平然と鎌による稲刈りを楽しんでいる」p.174)。私の実家は農家で、昔は子供まで稲刈りにかり出されました。炎天下、中腰の姿勢を長時間続ける、はっきり言って楽な仕事ではありません(私は子供のころ農家に生まれたことを何度恨んだものです)。福岡氏の本にはその後のことについて具体的な記述がないので確かなことはわかりませんが、おそらく、はざを作って天日で乾燥させているのでしょう。これも大変な仕事です。その後の脱穀は?、昔の足踏み式脱穀機、それとも千歯こきでも使っているのでしょうか?。籾摺りは?、昔ながらのひき臼でしょうか。いずれにせよ、大変な労働です。

 福岡氏の日常の暮らしも、そんな楽なものではないようです(「そう言えば聞こえはよいが、実際はそんななま易しいものではない。私が"何もしない自然農法"を標榜しているので、寝ていて悠々自適の生活ができる理想郷と思って、来てみてびっくり。早朝からの水汲み、薪割り、泥まみれの大変な百姓仕事を見て、早々に引き上げる者もいる」p.157)。私の実家も昔は電気・水道はさすがにあったもののガスはありませんでしたので、薪で煮炊きをしておりました。特に風呂沸かしは子供の仕事でした。灰と煙にむせながら1時間近くかけて風呂を沸かす、その間つきっきりです。その他、灰の始末もしなければなりませんし、大量の薪を確保するために山野をかけずり回らなければなりませんでした。今となっては良い思い出ですが、もう一度やりたいとはとても思いません。これに、さらに水汲みまで加わったら・・・・。

 福岡氏がそういった生活をしているのは、氏自身が好きでやっていることですから、他人がとやかく言う問題ではありません。しかしながら、その氏から「額に汗して勤労するなんてことは一番愚劣なこと」という発言が出てくることには非常に違和感を覚えますね。


(3) 私の科学観・自然観について

 最後に、佐倉さんは私を「十八世紀風の進歩の信仰」の人と誤解されているようですが、これはちょっと心外です。私は、進歩は良いことだとか、科学技術の進歩がすべてを解決するなどと主張しているわけではありません。

 「別の時代の要求に応じた科学技術を科学技術のすべてと決めつけ、科学技術そのものを否定するのはナンセンス」と言ったのは、問題が科学技術の進歩によって解決された、という意味で言ったのではありません。科学技術というものは時代の要求や自然・社会環境によって様々に変わっていくものだから、単純に一元的な評価など出来ない、という意味で言ったのです。

 生物は、その場の環境に適応して進化していきます。が、進化することが絶対的な善であるということは、ありません。また、進化に究極の目標があって、それに向かって進んでいるということもありません。私は、科学技術も同じ様なものだと考えております。

 それからもう一つ、私は科学技術に対して幻想を抱いていないと同時に、自然に対しても幻想を抱いておりません。科学技術が不完全であるように、自然もまた不完全であると考えています。

 ところが福岡氏は、自然は絶対的善であり、自然に帰ればすべて解決する、と思っているようですね。「人間が、医者が必要だ、薬が必要だ、というのも、人間が病弱になる環境を作りだしているから必要になってくるだけのことであって、病気のない人間にとっては、医学も医者も必要でない」p.21。つまり、自然に帰って、自然農法を行い、自然食を食べていれば病気や怪我と無縁でいられると考えているようです。

 果たしてそうでしょうか。文明や科学技術が発達する以前から人類は病気や怪我とともにありました。自然界にも病気や怪我の原因はたくさんあります。食事や生活習慣により病気になりにくい体質を作ることは可能ですが、病気や怪我に絶対しないということはありえません。 病気や怪我をしたときに、よりよく生きようとすれば、医療技術が必要です。そして、現在の医療技術は、完全とは言えないものの、多くの成果を挙げています。私をこれを無価値とは思いません。

 ところで、佐倉さんはご存じでしたか?。マンモスは今から1万年ほど前に絶滅しましたが、その原因として現在もっとも有力な仮説は人間が狩り尽くしたというものです。人はそんなに昔から悪の限りを尽くしていたんですね。自然に帰ると言うなら、やはり四つ脚で歩くところまで戻らないと駄目でしょうかねぇ?。

鳥居

PXL07722@nifty.ne.jp




作者より鳥居さんへ

00年10月15日


わたしには、鳥居さんがどうしてそんなに感情的にむきになって福岡氏を嫌うのか、よくわかりません。福岡氏の語ることが常識とかけ離れているため、「はみ出し人間」を嫌う日本人の感情からなのでしょうか。それとも、「農薬はいらない、化学肥料はいらない、農業に機械化は必要ない」、という氏の主張がひろまっては困る産業に携わっておられるからでしょうか。それとも、(今回のお便りから想像されることですが)、以前からなんらかの「自然主義」に関する既成概念を持っておられて、ただちに福岡氏も同類だと早合点されているからでしょうか。


(1)福岡氏の読み方

月にウランを取りに行くという話は聞いたことがないですね。・・・アインシュタインのノーベル賞受賞は相対性理論に対してではありません・・・

もちろん、補習校のテストやクイズ番組で正しいか間違っているかに「○」か「×」をつけるような読み方もあるでしょう。しかし、福岡氏の言っていることはそういうことなのでしょうか。

月とウランの話も、ほとんど盲目的ともいえるエネルギー消費文明への批判であって、「月」という惑星の構成物質の話ではないでしょう。ノーベル賞の話も、アインシュタインが世にもっとも認められた業績の問題であって、ノーベル賞そのものの話ではないでしょう。

福岡氏の本の中では、読むに耐ええないものはいくらでもあります。鳥居さんも指摘されるかれの相対性理論批判もそうですが、とくに、かれの宗教的形而上学信念を述べたところなど、とてもついていけません。しかし、福岡氏は、現代社会の、いわば、「はみ出しっ子」なのです。どこかの教頭先生のように、「あれがわるい、これがわるい」、とばかり言っていたのでは、この「はみ出しっ子」の持つせっかくの奇妙な言動が無駄になってしまいます。問題の本質を汲み取り、新しい枠組みの中で、新しい意味と価値を付け加える創造的な読み方があってよいと思います。つまり、氏の主張を現代に活かす読み方です。


(2)自然

福岡氏は、自然は絶対的善であり、自然に帰ればすべて解決する、と思っているようですね。・・・ つまり、自然に帰って、自然農法を行い、自然食を食べていれば病気や怪我と無縁でいられると考えているようです。自然に帰ると言うなら、やはり四つ脚で歩くところまで戻らないと駄目でしょうかねぇ?

福岡氏の語る自然が、「自然に帰って、自然農法を行い、自然食を食べていれば病気や怪我と無縁でいられる」とか、「四つ脚で歩くところまで戻らないと駄目」などという話なら、だれも聞く耳は持たないでしょう。しかし、福岡氏の語っていることはそんなことではないでしょう。また、福岡氏の考える自然の意味が鳥居さんのいうようなことなら、福岡氏は裸で野山を走り回っていることでしょう。そうではないのですから、福岡氏言う自然は、鳥居さんの考えている自然とは別であるとしなければなりません。

結論を言えば、前回も指摘しましたように、自然の意味を一義的に確定することは無理です。

このことは福岡氏の語る自然だけに限定しても言えるでしょう。それは、福岡氏が、自然についてあれこれ、いっぱいしゃべった後、結局自然とは何かについて結論は出なかった、と述懐されていることでも明らかです。

自然の概念は、大きくわけて考えれば、人間の営みを含まない「無為自然」と人間を自然の一部として人間の営みを含む「有為自然」に分けることができますが、福岡氏はこの二つの自然概念の間を行ったり来たりして一貫性に欠けています。悪く言えば、福岡氏の自然の概念は矛盾だらけだということです。(わたしの考えでは、すべての自然主義者は、必然的にこの矛盾に陥ります。「無為自然」に偏れば自らの行動を説明できなくなり、「有為自然」に偏れば自然の概念そのものが消失してしまうからです。)

したがって、「自然とは何か」ということがわかっている(自然の意味が一義的に決定されている)という前提から、福岡氏の自然論を批判することは無意味です。

例えば、「自然に帰って、自然農法を行い、自然食を食べていれば病気や怪我と無縁でいられると考えている」という批判は、「自然とは何か」ということがわかっていることを前提にした批判です。しかし、「自然とは何か」は一義的には(例えば「四つ脚で歩くところまで戻ること」などの意味には)決められないのですから、これは批判にならないのです。

「人間が、医者が必要だ、薬が必要だ、というのも、人間が病弱になる環境を作りだしているから必要になってくるだけのことであって、病気のない人間にとっては、医学も医者も必要でない」という表現は、「自然に帰れば病気をしなくなる」などということではありません。そんなつまらないことを氏は言っていませんし、そもそも、自然の意味が決定していなければそんな解釈は無意味です。むしろ、このメッセージの意味するところは、「病気のない人間にとっては、医学も医者も必要でない」という当たり前の真理が、医学の発展しか考えることのできない医学者にとって盲点となっているという指摘であり、病気を治す技術を開発するより、病気にならないからだを作る知恵のほうがより根源的な治療である、というプライオリティーに関する問題提起です。

それも、前回指摘したことですが、繰り返します。医者は、できたら自分が失業するのが一番理想的なのだ、というところから出発しなければ、患者のために医者がいるのか、医者のために患者がいるのか、わからなくなるでしょう。科学技術などできたら無いほうが良いのだ、少なくとも、無くても人間はちゃんとやっていけるのだ、という認識から出発せねば、同じような愚かな逆転が起きることでしょう。

単に、科学や技術には欠陥もあるという次元の批判ではなく、科学や技術がまったく存在しなくても人間は生きていけるのだという自覚がなければ、この逆転はいつでも起こります。わたしも一応技術者の端くれ(プログラマー)ですからわかりますが、科学者や技術者は自分たちの知識や技術が人類の役に立っているという事実や想像によって自分の存在価値や生き甲斐を感じます。もし、人類はわたしがいなければうまくやっていけないということになれば、わたしはおおいに自分の存在価値や生き甲斐を感じることでしょう。しかし、人類にとっては、わたしに依存しなくてもちゃんとやっていけるという状態の方がもっと良いに決まっています。


(3)福岡氏の主張の本質

鳥居さんは、福岡氏の言葉のどうでもよい枝葉的なところでつまずいておられるようですが、福岡氏の主張の本質を汲み取ると、わたしの見るところでは、次のようです。

(ア)人間が何もしないで必要なもの(衣食住)を得ることが出きればそれが一番よい。

(イ)食に関して言えば、そこにあるものをただ取ってくるのが一番よい。

(ウ)それがむりなら、種を蒔いて、実が成ったらそれを取り入れるだけ、というのがよい。

(エ)日本農業の近代化はその方向への努力をしなかった。

(オ)日本農業の近代化は便利さと引き換えに多くの負の遺産(農民の経済的負担、環境破壊)を残した。

わたしは、これらの福岡氏の主張は文明社会の技術革新の盲点をついたものだと思います。農薬産業はつねに「より良い農薬」の開発を目指してきたのであって、農薬の必要のない農業は目指さなかったのです。化学肥料産業はつねに「より良い肥料」の開発を目指してきたのであって、科学肥料の必要のない農業は目指さなかったのです。耕耘機産業はつねに「より良い耕耘機」の開発を目指してきたのであって、耕作の必要のない農業は目指さなかったのです。農産物運搬産業はつねに「より早くより遠くより多く運べる技術」の開発を目指してきたのであって、農産物を運搬しなくてもよい農業を目指さなかったのです。

しかも、多くの百姓にとっては、毎年毎年開発される新しい肥料や農薬や機械の便利さより、それを買い続けなければ競争に生き残れない経済的負担の方がはるかに大きいのではないでしょうか。そのうえ、ばらまかれた農薬やエネルギー(近東からタンカーでわざわざ運んできたオイル)消費による環境破壊は膨大なものがあります。


(4)福岡氏の主張を現代に活かす

前回も取り上げたのですが、次のような点で、福岡氏のアイデアは現代に活かされると思います。

もし、自然農法(不耕起・無肥料・無農薬・無除草)によって、農事時間が短縮されること(一日二時間、一週間に一日)が可能だとすると、(ア)自分が今やっていることをやめる必要がないので、国民皆農が可能となります。(イ)国民皆農とは、自分の食うに必要なもの、食べたいものは自分で作ることができることですから、個人は自立しやすくなります。(ウ)自立することができれば、会社や役人の命令にいやいや従わなければならないことが減少し、やりたいことをやる選択度自由度が拡大します。(エ)国民皆農とは、また、基本的に現地生産(自分の住む家の周りで作ること)ですから、エネルギー浪費の食料運搬の必要性が減少します。(オ)ますます自然から離脱していく現代人を自然との関りのなかで生きていく人間に回復することができます。(カ)ハツカネズミのようにベルトコンベアーのうえを無意味にジョギングする運動不足の現代人に、意味のある(生産的な)運動量を与えることもできます。(キ)退職後の中高年の人々に自立と生活物資の供給と健康維持(自然の中での適度な運動)の方法をあたえます。(ク)退職後に人々が自立し、国家の税金を必要としないことは、すべての労働者の税務を軽減します。(ケ)農薬などによる環境破壊が減少します。・・・等々。

わたしは、「読み・書き・そろばん」に加えて、農業の基本を義務教育に加えても良いのではないかとさえ思っています。たとえば、学校で食べる給食の素材の一部は先生と生徒に作らせるのです。自分を生かす食べ物を作るための体験的知識は、人を自立させ強くするだけでなく、大切な基本的な知識だと思います。

ところで、日本ではどうか知りませんが、わたしの住んでいるところ(米国)では、スーパーマーケットにいけば、今や、必ず「有機農法」による産物が並べられるようになりました。わたしの同僚(アメリカ人のコンピュータ・システム・エンジニア)は、1/2アールあたりの農地を買って有機農法をはじめ、週末などに食べたい野菜や果物を自分で作っています。自然農法は少しずつ世界中で普及しているようです。

日本でも、農地を買ったり自分の田舎に帰って、週末だけ農作業をしているサラリーマンが増えているそうですが、脱サラして経験のない農業を一挙に始めても、はじめは失敗するほうが多いのですから、やはり、週末だけとか、毎日1〜2時間ぐらいの経験を重ねていくのが、賢いやり方だと思います。そうすれば、退職するごろにはもう野菜や果物作りのプロになっていることでしょう。「わら一本の革命」は、福岡氏が始めに想像していたのとはおそらくかなり違った形で、もうすでに世界中で始まっていると思います。


おたより、ありがとうございました。