佐倉哲エッセイ集

日本と世界に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。


鳥居 孝夫さんより

00年7月10日


福岡氏の自然農法について(再)


 佐倉さん、こんにちは。

 6月8日にメールを送ったのですが、その後佐倉さんからの応答がありませ ん。ホームページを見たら、コンピュータの事故でメールの一部が失われたと のこと。私のメールも失われたのかもしれませんので、再送します。

以下、6月8日に送ったメールの本文です。

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 福岡氏の自然農法について、思いこみから誤解していた点もいろいろあったようです。私は、氏の自然農法をもっと胡散臭いものと想像しておりました。この点に関しては、素直に訂正してお詫び申し上げます。しかしながら、佐倉さんの説明をうかがって、ますます疑念が深まった点もあります。それは、氏の自然観・科学観についてです。

 最初に結論を言ってしまうと、福岡氏と私とでは自然観・科学観がまったく異なると言うことです。私から見ると、氏の自然農法も、氏が否定する科学に基づく農業技術の一つとしか思えません。


(1) 福岡氏の科学観について

 「普通の考え方ですと、ああしたら・・・」、「ふつう科学者は「ああすると・・・・」と言うのが福岡氏の科学・技術に対する認識のようです。あまりにステレオタイプな認識ではないでしょうか。

 私は、科学・技術とはもっと柔軟で広いものと考えています。たとえば、故カール・セーガンは「カール・セーガン、科学と悪霊を語る」の中で、アフリカのクン族の狩猟技術にふれ、極めて科学的と評価しております。福岡氏の農法も、「何もしない」と言いながら、実に様々な工夫をしている(佐倉さんの補足説明で、私が想像した以上にいろいろやっていることがわかりました)。私から見れば、これもりっぱな科学技術の一つです。

 福岡氏の否定する近代農業ですが、これは収量増大を最大の目標にしていた時代のものであることに留意する必要があります。ところが今の日本では、米は作りすぎて生産調整、消費者の要求からコストや安全性・付加価値が要求される時代です。社会が要求するものが変われば、それに応じて科学技術も変化するのが当然です。氏の農法は新しい時代の要求に応えた新しい農法の一つなのかも知れません。しかし、別の時代の要求に応じた科学技術を科学技術のすべてと決めつけ、科学技術そのものを否定するのナンセンスです。

 別の例ですが、乳ガンの治療などは、以前は再発防止を最優先にして手術で大規模に切り取る治療が行われていたが、最近はQOLを重視してできるだけ乳房を温存する方向に変わってきているそうです。これは、医療の一つの進歩(変化)であって、いわゆる西洋医学(近代医療技術)が、そうでないものに取って代わられたわけではありません。福岡氏の農法も同じような文脈で捉えることができると思います。

 蛇足ながらもう一つ、日本の農業では農業自身の都合より農薬・農機具メーカーの都合が優先される面もあることを付け加えておきます。つまり、批判すべきは科学技術ではなく経済・行政という側面もあるということを。


(2) 何が自然なのか。

 私の「恵まれた環境」と言う疑問に対して、佐倉さんは砂漠の緑化という事例を紹介してくださいました。これにより私の疑問はいっそう深まりました。福岡氏の方法で砂漠の緑化ができるか否かという点ではありません。

 砂漠を緑化することは果たして自然なことなのでしょうか?。砂漠は砂漠のままであるのが自然ではないですか?(表土流出などで砂漠化した土地は話が別ですが)。砂漠には砂漠に適応した生態系があります。砂漠を緑化すれば、それを破壊することになります。これは一種の環境の破壊とは言えませんか?。本当に自然を尊重するのならば、砂漠を砂漠のままで(砂漠の生態系を破壊せずに)、そこから恵みを手に入れるべきではありませんか?。

 氏の自然農法は自然の力を利用していると言う点で従来の科学技術と異なると主張されるかも知れません。しかしながら、科学というものはそもそも自然現象の中から見いだされた法則性です。すべての科学技術に背後には自然の法則があります。例えば、抗生物質によって病気の治療が可能なのは、細菌のメカニズムという自然の法則を利用しているからです。そう言う点で、氏の自然農法と異なるところはありません。抗生物質の多用はMRSAなどを生み出したという批判を返されるかもしれません。しかし、氏の自然農法でも、大規模に砂漠の緑化を進めていけば思わぬしっぺ返しを受けることは、十分あり得ることです。

 というわけで、「自然」というキーワードからは、氏の自然農法と従来の農業技術との間に根本的な違いを見つけることはできません。


(3) 自然の力と人知

 「自然はそれが育つのに人知を必要としない」、それはその通りです。自然と自然でないものを分けるのは人の介在と定義すれば、定義から自明なことでしょう。

 自然は人知を必要としません。ですが、人間はどうでしょう?。人間は人知を必要としませんか?。自然は自然のままで人に必要な恵みをすべてもたらしてくれますか?。確かに野生の木々や草花は人間の助けを借りずに生い茂っていますが、野生の森や草原がそのまま田畑になりますか?。そうでないことは人類の歴史が証明していると思います。人間には人知が必要です。科学技術はそうした人知の一つだと考えます。福岡氏の自然農法も人知の一つではありませんか?。そもそも農業そのものが人の営みであって、そういう意味では農法はもともと不自然なものなのです。

 私は以前キリスト教に関して、何でも神に帰して人間のわざを認めないのは傲慢なことだと批判しました。佐倉さんもこれには同意してくださいました。ここで「神」を「自然」に置き換えてみてはいかがでしょう。


(4) 「おとぎ話」という批判

 これについては佐倉さんの誤解ではないでしょうか。 佐倉さんは、福岡氏の経歴と自然農法の実績を挙げて、「おとぎ話」というのは当たらないと主張しています。が、私が「おとぎ話」と言って批判しているのは、自然農法自体ではなく、氏の自然観・科学観なのです。私が氏の自然観・科学観についてどう考えているかは、上で述べた通りです。もっとも「おとぎ話」というのはあまりぴったりした言葉ではなかったかも知れませんが。

 自然農法(というより混植農法と言うべきか)自体については、農業技術の一つとして認めているつもりです。ただし、「何もしない」というのは誇大広告であると思っていますが。「何もしない」と「できるだけ何もしない」ではまったく違いますから。

 最後に一つ確認をしておきたいのですが、2時間の労働で5人の家族が養えるというのは、作った作物を売ることにより5人の家族が暮らせるだけの現金収入が得られると言うことなのですね。だとしたら、確かにそれはすごいことです。驚異的といっても良い。

 私も農家の出身なので農家の仕事のつらさは知っています。農家の仕事は田畑に出ているだけではありません。収穫した作物を仕分けたり梱包したりして市場に出荷できるようにする、それだけで1日2時間ぐらいはかかってしまいます。それを、また時間をかけて市場に持って行く。そうして作物が売れたとしても、二束三文で梱包に使った箱や袋の方が高くつくこともまれではありません。以前、脱サラして有機農業に取り組んでいる人の話が新聞にありましたが、やはり苦労して作った作物が安値で、生活が苦しいそうです。

 福岡氏は2時間の労働で5人の家族を養うと言いますが、私にはどんな魔法を使ったのか見当もつきません。おそらく、出荷・販売についても何か特別な工夫をしているのだと思いますが。氏の自然農法よりも、こちらの工夫の方が注目に値するのではないでしょうか。                           




作者より鳥居さんへ

00年7月31日


(1)文明批判

別の時代の要求に応じた科学技術を科学技術のすべてと決めつけ、科学技術そのものを否定するのナンセンスです。

福岡氏の哲学思想は基本的には老子の思想(西暦前4世紀)をそのまま継承したものです。したがって、氏の科学批判は、もっとスケールの大きなものです。すなわち、人間の文明そのもの無反省的暴走への批判です。もし、福岡氏の科学批判を本格的に批判しようと思われるなら、福岡氏や老子の著作そのものをとりあげて、それを批判されることをお勧めします。老子の思想に対する批判や反批判はもう二千年以上も続いているものであって、そんなにあっさり片づけることのできるようなものではないとわたしは思います。

文明や文化とよばれるものは、それ自体はすばらしいものであるはずである。もしこれがなければ人間は動物と変わらないものになってしまう。文化という人為を否定することは、人間が人間でなくなることではないか。ルソーの『人間不平等起源論』を読んだヴォルテールは、「あなたの論文を読むと、四つ足で歩きたくなります」という批評の手紙を送ったという。ヴォルテールなどに代表される十八世紀の思想家の多くは、文明の直接的な進歩を無条件に信じていたのである。近代文明の洗礼を受けてからまだ日が浅いわが国では、いまだに十八世紀風の進歩の信仰が根強く残っている。

しかし人間は動物ではないとともに、神ではない。その不完全な人間が作り出した文明も、完全であるはずがない。その反省を失った文明の独走は、やがては人類の破滅に導くこともあるのではないか。

このような文明の自己反省が、自然に帰れという主張となってあらわれる。その場合の自然とは、文明を白紙の状態に帰すことであり、文明の起点に立ち帰ることにほかならない。東洋で最も古く自然に帰れということを唱えたのは、紀元前四世紀のころから中国にあらわれた老子や荘子を始めとする道家の思想家たちである。

このような古い時代に文化の自己反省があらわれたということは、いかに中国の文化が早熟であったかを物語るものと言えよう。

(森 三樹三郎、『老子・荘子』、講談社学術文庫、18〜19頁)

森氏のいうように、「近代文明の洗礼を受けてからまだ日が浅いわが国では、いまだに十八世紀風の進歩の信仰が根強く残っている」ために、まだ、鳥居さんのような「十八世紀風の進歩の信仰」の人が多いのかもしれません。だから福岡氏が諸外国ではよく知られているのに、日本ではあまり知られていない、という現象が起きるのでしょう。しかし、文化文明にたいして疑問を抱いて、するどい批判の目を向けた人は、すでに、二千数百年もまえにいたのです。

老子や荘子の思想は、人間がおのれの知識や技術に傲慢になりすぎたとき、いつでも、いろいろな形をとおして、時代の表面にその姿を現してきます。「反省を失った文明の独走は、やがては人類の破滅に導くこともあるのではないか」という現代人の危惧が、福岡氏を通して、老子や荘子の思想をよみがえらせたのだと思います。


(2)福岡氏を読む方法

最初に結論を言ってしまうと、福岡氏と私とでは自然観・科学観がまったく異なると言うことです。私から見ると、氏の自然農法も、氏が否定する科学に基づく農業技術の一つとしか思えません。

「自然」とか「科学」とかというの言葉には、一義的な定義があるわけではありません。語る人によって意味が同じではないからです。福岡氏の農業を、鳥居さんの言い方では、「科学に基づく農業技術」となり、福岡氏自身の言い方でいえば、「自然農業」である、というだけです。福岡氏を読むとき、「ああ、彼はこういう意味で<自然>という言葉を使っているのだな、<科学>という言葉を使っているのだな」とわかれば、それで済むことです。

「自然とは何か」については、たとえば、森三樹三郎著の『「無」の思想』(講談社新書)に優れた分類がなされています。いちどお読みになることをお勧めします。そうすれば、自然という語は一義的なものではないことがわかり、他人が自分と同じような言葉の使い方をしていないからと言って、いちいち目くじらを立てるというようなこともなくなると思います。また、福岡氏の著作をご自分で読んでおられたら、すくなくとも、福岡氏自身が、あとがきで、「(結局)自然とは何か・・・、自然人とは何か・・・この一言にすら答ええなかった」と述べておられることも知ることができたことでしょう。

わたし自身は、福岡氏の「自然」という言葉の使い方も、「科学」ということばの使い方も、常識外れであるとは思いません。氏の主張は十分に伝わります。


(3)砂漠の緑化

砂漠を緑化することは果たして自然なことなのでしょうか?。砂漠は砂漠のままであるのが自然ではないですか?

わたしの説明が足りないので、いろいろ想像されて意見を述べられているのだと思いますが、福岡氏は、少なくとも現存する砂漠のいくつかは人工的に砂漠化したのだ、という意見の持ち主なのです。たとえば、氏は牧畜が砂漠化の原因となることを指摘しておられます。インドやオーストラリアの例などから、牧畜が土地をやせさせることを知っておられるからです。

現代の科学者に言わせますと、牧畜をやれば土地は肥えるはずだ、と言います。実際はどこでもやせている。オーストラリアの青年の話を聞きましても、インドの青年の話を聞きましても、やっぱり、畜産をやれば土地がやせる、というのが自分の結論なんです。

(福岡正信、『わら一本の革命』)

いまでは、このことは、常識になっているようです。たとえば、昨日のニューヨーク・タイムズ紙でも、中国の砂漠化の原因の一つは人工的なもので、それは増えすぎた牧畜であった、という科学者の報告の記事が載っていました。

The desert is the combined result, scientists say, of severe overgrazing that has destroyed the thin topsoil, and a decade of hotter, drier weather, including three straight years of extreme drought. (ERIK ECKHOLM, "Chinese Farmers See New Desert Erode Their Way of Life", New York Times, July 30, 2000)

人工によって自然でなくなったものを自然に戻してやる手助けをする、というのが福岡氏の砂漠緑化の考えの基になっているようです。

ついでに、興味深い福岡氏の考えを述べておきます。上記のニューヨーク・タイムズ紙の記事における科学者の報告では、あの砂漠化の原因は、牧畜のやりすぎ(人工)と天候の変化(自然)、ということですが、福岡氏は、雨が降らなくなったから砂漠化するのではなく、(牧畜などで)土地をやせさせ緑を無くすから、雨が降らなくなるのだ、と言われています。いわゆる「雨は下から降る」という考えです。

気象学言えば、雨は上から降るかもしれないけれど、哲学的に言えば、雨は下から降るもんだと自分は思う・・・。下が緑になれば、そこに水蒸気がわいて雲がわいて、雨が降るんだ、と。

(福岡正信、『わら一本の革命』)

福岡氏がいうように、また、ニューヨーク・タイムズ紙の記事でもそうであるように、雨が降らなくなったから砂漠化する、というのが今日の常識的な考えだろうと思います。しかし、「牧畜が砂漠化させる」という考えが今では常識となっているように、「雨は下から降る」という考えも近い将来常識となるかもしれません。少なくとも、ニューヨーク・タイムズ紙の記事では、人工による地球温暖化が、その天候の変化をもたらせている可能性があることを指摘しています。

しかし、福岡氏の砂漠緑化に関して、わたしの注目を引くのは、「砂漠緑化は自然か」といった問題ではなく --- すでに述べたように「何が自然か」という問題は客観的に決着のつく問題ではないのです---、むしろ、前回ものべましたとおり、それが人間が楽をする(何もしない)方法を目指しているところです。従来の潅漑方法の常識では、かならず、たとえばコンクリートを使った方法などを考えていたに違いありません。従来の思考が、「目標を達成するには、人間は何をすればよいか」、ということしか考えないからです。そうではなく、「できるだけ人間が何もしないで(つまり、自然に)、その目標を達成するにはどうしたらよいか」、と考えるのが、福岡氏の方法でしょう。


(4)「労多くして効少ない流通機構」

私も農家の出身なので農家の仕事のつらさは知っています。農家の仕事は田畑に出ているだけではありません。収穫した作物を仕分けたり梱包したりして市場に出荷できるようにする、それだけで1日2時間ぐらいはかかってしまいます。それを、また時間をかけて市場に持って行く。そうして作物が売れたとしても、二束三文で梱包に使った箱や袋の方が高くつくこともまれではありません。以前、脱サラして有機農業に取り組んでいる人の話が新聞にありましたが、やはり苦労して作った作物が安値で、生活が苦しいそうです。

まったくおっしゃる通りです。「労多くして効少ない流通機構」(『わら一本の革命』、104頁以降)というのが福岡氏の現代流通機構に対する批判です。この引用は少々長くなるので、(氏の著作を買わないで、わたしの引用と説明だけで済ませる人が増える、と)春秋社から著作権侵害の文句が出るかもしれませんが(^^)、実はこれは消費者の意識の問題でもあり、おそらく、本サイトの来訪者の方の多くは、そのあたりの事情をほとんどご存じ無い方が多いのではないかと思いますので、ここに転載しておきます。

たとえば、ここにある、このミカンでもですね、その他の果物でも、みなそうですが、薬をかけない果物を作ってくれとか、汚染しない米を作ってくれ、ということを消費者は言いますけれど、どうして、薬づけのような果物が出てきたかというと、一番最初の原因は、消費者の側にあるわけです。消費者は、形の整った、少しでもきれいな、少しでもおいしい、少しでも甘味の多いものを要求する。それが、そのまま百姓に、いろんな薬を使わす原因になっているんです。

・・・自分たちは、真っすぐなキュウリを食べる要求をしてもいないし、そんなに、外観のきれいな果物を要求しているわけでもない、ということを言いますけど、実際に東京の市場なら、東京の市場に出して、それが店頭に並べられたときにですね、ここにちょっと外観のいい物と悪い物とがあった場合、どのくらいの差がつくかということなんです。甘味度で言えば、糖度が一度増すごとに、それこそキロでいえば、十円、二十円の高値がつく。大・中・小でいえば、一つの階級が上がるたびに、二倍、三倍になる。玉が大きいということだけ、あるいは、糖度が一度か二度増すことによって、値段というものは、二倍、三倍にもとびあがる、というかっこうになってきている。こうなれば、サービス業者としては、少しでも、都会の人が要求するものを売ろうということになるのは当然でしょう。

たとえば、夏、八月に、温州ミカンを出しますね、昨年あたりは、ばかみたいに、十倍、二十倍の高値がついているわけです。だから、今年あたりは、ビニールハウスのなかで、冬の間に石油をたいて、もう、温室の中では、現在、花盛りなんですが、こうしてできたミカンが、八月に出荷される。そうすると、ふつう、キロ五十円しかないものに、五百円、六百円、一千円という、べらぼうな値段がつく。だから、十アールのミカン園にですね、いくら、数百万円の金をかけて、そういう資材を入れて、石油を燃やして、苦労してミカンを作っても、けっこう引き合うということで、さかんに、このごろやり始めてきているわけです。ほんの一ヶ月、ミカンが早いということのために、何十倍の労力、資材を入れて作る。しかも、それを平気で都会の人が買う、ということになっている。しかし、一ヶ月早く食べるということが、人間にとってどう役に立つのかというと、実は、これは疑問ばかりでなく、むしろ、マイナスじゃないかと思われるわけです。

また、数年前にはなかった、ミカンのカラーリング(色づけ)というのをやり始めた。これをやると、一週間ばかり色づきが早くなります。十月の十日前に売るのと、十日後に売るのと、十日か一週間の差によって、やっぱり値段というものが、倍になったり、半分になったりする。そのために、一日でも早く色をつけたくて、着色促進剤をかけ、さらに採集後、密室に入れてガス処置がとられる。

さらに、早く出すためには、甘味が足りませんので、早く糖度を増そうとして、人工甘味剤が使われる。まあ、ふつう、人工甘味剤っていえば、一般には禁止されているはずなんですが、ミカンに散布する人工甘味剤は禁止されていないようです。これは、農薬のうちに入るか入らないかも問題だと思うんですが、とにかく、人工甘味剤がかけられる。

こういうふうにしておいて、さらに今度は、共同選果場へ持っていって、大小を選別するために、一つ一つの果物が、何百メートルという距離を、ころころと、ころがされていく。そのため、非常に打撲傷ができてくる。大きな選果場になればなるほど、一つの果物が選別中に、長い間ころげて、汚れや打撲傷ができますから、その途中でまた、防腐剤がかけられ、着色剤がふきつけられるわけです。その前にまた、水で洗浄される過程がある。果物はさんざんな目に合います。

そして最後に、ワックス仕上といって、パラフィンの溶液がふきつけられて、表面にロウがひかれる。・・・これも何のためかというと、店頭におかれて、ビニール袋に入れるのと同じように、鮮度を保ち、二日も三日も、新しいとりたての果物のように見えるから、その見せかけのために、パラフィンで光らせるわけです。まあ、ミカン一つをとりあげても、こういうような処置がとられているんです。

・・・しかし、確かに、一つの組合、一軒の農家がですね、新しい手段を取れば、やっぱり、その年には、その工夫をしただけ、儲けが多くなる。ところが、二年目になってみると、ほかの共選や農協だって黙ってみているわけではなく、すぐそれをまねてやりだす。それで、二、三年すると、全国の果物に、ワックス処理がとられるようになる。そうなると、ワックス処理をしていないのは安くなるが、ワックス処理をしているからといって、高く売れるわけでもない。結局、数年経ってみると、ワックス処理をしたから、値売りができたという現象はなくなって、結局残るのは、ワックス処理をしなければいけないという、農家の労力、資材の負担だけというかっこうになってくる。

・・・こういうふうになってきますと、一生懸命努力しても追いつかない。価格が暴落してからのこの一、二年は、共選や農協の指導が全く厳重になってきまして、悪い品を作った場合には、没収というようなところまできています。だから悪い物を作ったときにはもう、共選に出せないというのが実情でして、そのために庭先選別が強化されてきた。庭先選別というのは、昼中かかって一生懸命とってきたミカンをですね、夕飯を食べてからのち、自分の庭で、十一時、十二時までかかって、みんな、それを一つ一つ手に取って、悪いミカンを選別して、いいものだけを残して出荷するということなんです。だからもう、ここ四、五年は、ミカン作りの農民は、夜眠れないほどのところまで追い込まれている。こうまでしても、その何割かは没収される。そして、平均の手取りは、わずかに五円でもあればいいといった状態になってきた。

そうすると、私が、薬もかけない、化学肥料も使わない、土地も耕さないで作った、そのミカンがですね、生産費が安いから、これを引けば、どうかすると、一生懸命作った人よりも、手取りが多いということになってくる。しかも、私が出すのは、もう、ほとんど無選別で、ただ、とったやつを、箱に放り込んで送るというかっこうですから、夜はもちろん早く寝てるというわけです。

(福岡正信、『わら一本の革命』より。下線は佐倉によります)

ところで、福岡氏は、国民皆農を究極の理想と考えられておられます。前回も指摘しましたように、氏の主張によれば、自然農法は一日平均2時間の労働時間で一家五人が養える、というものです。これは結局どういうことかといいますと、食うための仕事は、一週間に一日だけやればよいのであって、あと(六日)は、各自勝手にやりたいことをやればよい、ということだそうです。この国民皆農の理想からいえば、(日々の食物に関しては)流通機構は不必要になります。つまり、自分たちが食べるものは、家の外に出て新鮮なものをもって帰ってくればよい、ということになるからです。

じつは、わたしはこの考えに注目しています。自分が食べるものは自分が作るということ、しかも、それを一週間に一日の割合の仕事量でできるということ、これは、自然からますます離脱し、過労働でしかも運動不足、諸外国の市場と中央役人に重度に依存してきた、そんな現代日本人を、健康にし、独立させ、余裕を持たせ、自由にすると考えられるからです。自分たちの食うものが自分たちで確保できる土台さえあれば、いざというときに、会社や役人や他国の言うがままになる必要はもうなくなるのです。

最近では、サラリーマンが、週末だけ、郊外に買った農地や、田舎の農地に帰って、家族一緒に農作物を作ることを楽しむ人が増えているようですが、このような人々がますます増えれば、国民皆農の理想は、完全とはいかなくても、それに近いものが出来上がる可能性は十分にある、とわたしには思われるのです。日本の農業の未来の姿はその方向にあるとわたしは考えています。


(5)福岡氏の価値

「自然」というキーワードからは、氏の自然農法と従来の農業技術との間に根本的な違いを見つけることはできません。
福岡氏の自然農法の四大原則は「不耕起・無肥料・無農薬・無除草」です。それは、農事を<種まき>と<刈り入れだけ>にするために、それ以外の仕事をできるだけ無化して、よって、百姓の仕事を楽にすることです。

しかし、従来の百姓は耕起・肥料・農薬・除草のために多大の時間と金を使います。わたしは、自分の祖父の生活を見て育ってきましたから、従来の農業技術が、耕耘しなくてよい方法、肥料を使わなくてもよい方法、農薬を使わなくてもよい方法、除草をしなくてもよい方法等を見つけるために努力してきたとは絶対に信じられません。従来の農業技術は、むしろ、あたらしい耕耘機、あたらしい肥料、あたらしい農薬、あたらしい除草法などを発明するために、暴走してきたのです。そのため、百姓は、つぎつぎに持ち込まれる、あたらしい耕耘機、あたらしい肥料、あたらしい農薬を使わなければならず、結果として、百姓は、いつも借金をし、いつも忙しく、いつも苦しい生活を強いられてきたのです。従来の農業技術を前面に押し出した考え方では、百姓のために農業技術が存在するのか、農業技術の革新のために百姓が存在するのか、わからない世界なのです。

それに対して、福岡氏は、田畑は耕さなくてもよい、肥料をやらなくてもよい、農薬をやらなくてもよい、除草をしなくてもよい、それでも、従来の農業技術に負けないほどの収穫がとれる、ということを実践で示したわけです。なぜ、福岡氏は、そんなことをしようと考えたのでしょうか。それは、どうしたら百姓が楽になるか、というところから彼が出発したからです。

医者は、できたら自分が失業するのが一番理想的なのだ、というところから出発しなければ、患者のために医者がいるのか、医者のために患者がいるのか、わからなくなるでしょう。科学技術などできたら無いほうが良いのだ、少なくとも、無くても人間はちゃんとやっていけるのだ、という認識から出発せねば、同じような愚かな逆転が起きることでしょう。

自然に帰れという主張は、文明の起点に帰れという主張です。文明の起点に帰れという主張は、道具や技術がもっとも単純であった時代に帰れという主張です。それは、複雑な道具や技術はなくても人間はちゃんとやっていけることを確認せよ、ということです。つまり、自然に帰れという主張は、道具や技術の発展のために人間が存在する(文明の暴走)のではなく、人間のために道具や技術が存在するという本来の関係(自然)に帰れ、という人間性復帰の主張だとわたしは思います。その意味において、福岡氏の存在は今日重要な価値を持っていると思います。


おたより、ありがとうございました。