佐倉哲エッセイ集

日本と世界に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。


福原和明さんより

99年6月12日

日の丸・君が代に反対する理由(3)

主権在民・民主主義を尊重する立場とは

佐倉さんの書かれた「日の丸と君が代」を読ませていただき、自分がなぜ「日の丸 ・君が代」に反対しているか意見を述べさせていただきたく、二度にわたってお便りをさせていただきました。私の意見に対する佐倉さんの結論は、「福原は左翼思想の信奉者なので、単なる国家のシンボルに過ぎない『日の丸』を、事実を歪曲して侵略のシンボルであるときめつけ、それにより反対している」ということになりました。

佐倉さんによりますと、私が左翼思想の信奉者であることの理由の一つとして、私が「 日の丸賛成者=ファシスト」と主張したとされています。しかし、これははっきりさせておきたいのですが、私は「 日の丸賛成者=ファシスト」などと主張していません。確かに、「日の丸」の賛成者の中にはファシストも存在すると思います。しかし、世の中には色々な考えがあり、十把一からげに「 日の丸賛成者=ファシスト」というのは私は間違いだと思います。「日の丸」の賛成者は、程度の差こそあれ体制や権力に媚びを売っているように私には感じられますが、この人たちが全てファシストであるはずがありません。二度のお便りの中の一体どこで、「 日の丸賛成者=ファシスト」と私が主張しましたでしょうか。佐倉さんは、私が主張してもいないことを捏造しておいて、私のことを「左翼思想の信奉者」呼ばわりしています。

捏造の件は後で述べるとして、マルクスやエンゲルスやレーニンの著作を読んだことがなく、日本共産党を含めた左翼と呼ばれる政治団体と何の関係もない私が、「左翼思想の信奉者」と規定されることは誠に不本意ですので、自分の行動や考えの基(本来のイデオロギーの意味)になる「主権在民・民主主義を尊重する立場」というものについて、少し述べたいと思います。

戦争に駆り立てられたり、抑圧されたり、侵略されて殺されたりするのはどこの国でも「民衆」です。太平洋戦争末期に、沖縄の住民は当時の総数の三分の一にあたる15万人が殺されたのに対して、天皇はノウノウと生き残ったという事実はその証明のひとつです。

私は民衆の一人ですから、主権在民・民主主義を尊重する立場をとっています。これをもう少し具体的に述べると次のようになります。

侵略される側・殺される側・強姦される側・搾取される側・いじめられる側・強制される側・総じて支配される側にいるので、侵略する側・殺す側・強姦する側・搾取する側・いじめる側・強制する側・総じて支配する側に対抗するために主権在民・民主主義を尊重する立場をとる、ということです。

左翼思想というものを詳しく学んだ訳ではないので、それが真に平等な社会の実現を目指しているのだろうということしか分かりません。民衆の立場からものを言うことは、左翼思想に近いという印象を与えるのかも知れませんが、完全に中立な立場というものは存在しない以上、主権在民・民主主義を尊重する立場から一市民として、私は声をあげ続けようと思っています。

左翼思想の信奉者と呼ばれようがなんだろうが、「自由」とも「民主」とも全く関係がないくせに「自由民主党」と名乗る資本主義御用政党や、資本主義の腐れ官僚どもや、金を持っている奴ら(資本家/汚いマネして金もうけした奴らも含む)が余りにも横暴で、我々労働者(サラリーマン/日本人の圧倒的多数)に対してナメたマネばかりすることを私は決して許さないだけです。いくら真面目に働いていても、これといって良いことがある訳でもなく、私自身の生活が苦しいのは奴らのせいだからです。我々はずっとこんなカツカツな生活で一生我慢しなければならないのかということに日々疑問を感じています。そういった訳で、奴らが我々を支配する道具として利用する「日の丸・君が代」は、私には決して受け入れられるものではありません。


(1)侵略された側から見た「日の丸」が私にとっての「日の丸」

「日の丸」が侵略戦争に使用されることがあった、という過去の一時的な事実から、「日の丸」は侵略のシンボルである、という普遍的な主張は帰結しません。

そもそも、侵略地に「日の丸」を立てたのも、それが侵略のシンボルだったからではなく、それが日本という国のシンボルだったから出来得たことです。

私の「日の丸」は侵略のシンボルであるという主張は、「過去一時期『日の丸』が侵略のシンボルであったので、『日の丸』は侵略のシンボルである」ということではありません。すでに述べているように、「日の丸」の下に侵略された側から見たら「日の丸」は侵略のシンボルであるといっているのです。これはアジアの国々に対してだけのことではなく、アイヌ・琉球・在日朝鮮人/韓国人等、日本国内に存在する侵略された民族にもあてはまることです。国家のシンボルだから侵略地に「日の丸」をたてることができたというのは侵略者側からの屁理屈であり、侵略された側から見れば「日の丸」はまぎれもなく忌まわしい侵略のシンボルになるのです。なお、今現在においても、日本は侵略の罪を精算しないままでいるので、侵略された側から見ると「日の丸」は今なお忌まわしい侵略のシンボルのままです。

国旗の持つ役割は他国との区別としての、国家のシンボルというものだけではありません。それは国旗のただの一側面でしかなく、実際に国旗には、国家の統合や国威の誇示という機能もあります。単なる国家のシンボルに対して、一体どうして、悲しい気持ちになる人や怒りを抱く人や嫌悪感を抱く人が実在するのでしょうか。また、日本国内にある霞ヶ関の官庁などに「日の丸」がはためいているのは、国家の区別のためでないのは明らかです。この「日の丸」は公権力を誇示しているものだと思います(特に税務署に「日の丸」がはためいているのは誠にムカッ腹のたつものです)。

「日の丸」がただの国のシンボルであるというのは、国旗に対する認識不足から出ている主張だと思います。これは観念的な主張であり、実際的ではありません。佐倉さんの御主張は全て「日の丸」の一側面しか見られずに述べられているのものです。「日の丸」は単なる国家のシンボルであり、それにつく意味は全て二次的事柄であると言われる佐倉さんの御意見は、「日の丸」を国家統制や国家権力の誇示に利用しようとする側を大変喜ばせるものです。奴らの目的を曖昧にして、より一層「日の丸」を利用しやすくさせるからです。

「日の丸」が、実質上、日本の国旗であることは疑うべくもない事実です「日の丸」以外の旗が日本の国旗として国際交流の場で使われたことは一度もありません。
国家体制によって、今まで「日の丸」を国旗として実に勝手に使用してきただけのことであって、勝手に作られた既成事実と「日の丸」が国旗であることに賛成か否かという議論とは別のことです。「日の丸」を使用している側は、「日の丸」を国旗とすることに反対する人もいるのに、その存在を無視しているだけのことです。

いままでがそうだったとしても、これからもそれでいいとは限りません。既成事実があるから「日の丸」は国旗なんだという理論では何の解決もありません。実際には、日本が過去の罪をつぐなわず、開き直っているから「日の丸」が未だに残っているに過ぎないことです。民主的な手続きを踏んで国旗とされたことはない「日の丸」を国旗であると断定することは、「日の丸」に反対する人々の意見を圧殺することです。


(2)国家の体制が変われば国旗もまた変わっている

侵略された側から見て侵略を思い起こさせるものはすべて捨てなければならないなどという無理な理屈を徹底させれば、日本や日本人は存在すべきではない、という結論に帰着するでしょう。
通常他国では、戦争で負けたり(ドイツなど)革命や政変などで国家の体制が変わった(南アフリカ共和国など)時、また国旗と国家の実情が合わなくなった(カナダなど)時など、国旗といわれる旗もまた変わっています。日本では、戦争に負けて、天皇の神性やそれを根拠にした軍国主義が誤りであるとされたのにも関わらず「日の丸」は残りました。これは、日本の国家体制が戦前と戦後で全く変わったのではないからです。天皇制というインチキな代物が残るし、A級戦犯の岸信介が総理大臣になっていることからもそれは明らかです。戦前の国家体制は軍の上層部を除いて、アメリカ合衆国に忠誠を誓うことによって生き残ったのです。それは現在でも変わりません。今日の「新ガイドライン関連法」の成立という売国行為は、そのことの証明です。

過去の罪を考えれば、本来であれば軍部とともに、天皇制や官僚支配の国家体制を完全に解体するべきだったと思います。イタリアではムッソリーニを民衆の手で殺して決着をつけ、ドイツでは国民自ら戦犯を裁き二度と侵略をしないように様々な努力がされていますが、日本の民衆は自ら国家体制を裁くことはしませんでした。こうした中で、ドサクサにまぎれて誠に図々しく、「日の丸」は(君が代も)生き残ってしまったので す。

侵略する国家体制は滅びてしかるべきです。他国・自国の民衆を殺す国家体制など、民主主義を尊重する立場からは否定されるものです。日本人と呼ばれる一般民衆は、アジアの民衆とともに苦しめられたのであり、軍国主義の犠牲者であるという意味で同じ立場に立つものです。軍国主義の国家体制やそのシンボルは捨て去るべきですが、それに関連して、日本人が存在すべきではないという結論には決してなりません。


(3)ファシズムを防ぐ一環としての「日の丸」の反対

ほとんどの日本人は「日の丸」をすでに国旗として認めています。かれらは、ファシストでもなく、過去の侵略戦争を正当化する人々でもありません。だから、「日の丸賛成者=ファシスト、侵略主義者」という偏向した図式は、単なる政治宣伝(デマ)にすぎず、事実に根拠を置くものではありません。
私は、佐倉さんの「わたしは、『日の丸』を侵略のシンボルと決めつけて、『自分たちは別なんだ』などと新しい旗をたてて批判を免れようとするよりも、よいところもわるいところも全部ひっくるめて過去を引き受けて、まっすぐに批判を受け止めるべきだと思います」という御意見を受けて、「私にできることは、それが達成できるかどうかは別として、二度と日本が侵略をしないように努力することだと思慮します。その一環として『日の丸』に反対しているのです。これは、再び日本にファシズムが台頭することを防ごうということです」と述べました。

侵略しないようにする努力が、ファシズムの台頭を防ぐことであり、「日の丸」の反対はその一環であるという私の意見から、なぜ「『日の丸賛成者=ファシスト、侵略主義者』という偏向した図式」というものが突然出てくるのでしょうか。私はこのようなことを一切述べていないはずですが、上の佐倉さんの文章だと、まるで「日の丸賛成者=ファシスト、侵略主義者」と私が主張したようにとれます。一体どこで私がそのような主張をしていますか。私が主張してもいないことを私が主張したとするのは捏造以外の何ものでもありません。

すでに明らかなように、「日の丸」は国家という生き物のシンボルであって、「侵略のシンボル」とか「ファシズムのシンボル」というものに固定化されているものではないのですから、「日の丸」に反対することは、「日本が侵略をしないように努力すること」にもならないし、「再び日本にファシズムが台することを防」ぐことにもなりません。
十数年前に沖縄で開催された海邦国体にともない、沖縄では「日の丸・君が代」を強制する動きと、それに反発する動きの一連の事件がありました。その中で裁判ざたになったのは読谷平和の森球場で起きた「日の丸焼き捨て事件」です。地元の青年が、沖縄の高校生など「日の丸」反対の行動を受けて起こした事件ですが、その報復として、青年の経営するスーパーマーケットへの放火と、読谷村のチビチリガマにあった「世代を結ぶ平和の像」の破壊でした。「世代を結ぶ平和の像」の破壊の後には、「国旗燃ヤス村ニ、平和ワ早スギル『天誅』下ス」というビラが残っていました。

また、学校の現場では、卒業式での「日の丸」の掲揚・「君が代」の斉唱を拒絶する教師達の処分が後を断ちません。

このように事実として、「日の丸」を国旗と認めないものに暴力を振るったり、特別権力関係を利用して「日の丸」を強制しようとする奴らがいます。「日の丸」を踏み絵に使って、国家や権力への忠誠心を示させようとする奴らです。このような奴らは正にファシストであると思います。強制するという発想はファシズムのはじまりです。以上のように、「日の丸」を再び日本にファシズムが台頭することの道具として利用しようとする奴らが実際にいるからこそ、「日の丸」に反対することが日本にファシズムが台頭することを防ぐ行動の一環であると考えるのです。

日本の中でも外でも、民衆にとっての最大の敵はファシズムです。過去の精算無しに存在し、過去の罪を引きずっている「日の丸」は、ファシズムに容易に結びつくものの一つであると考えます。たとえ「日の丸」に対して過敏に警戒しているとしても、我々に何の損もありません。


(4)「日の丸」と「ハーケンクロイツ」は目クソと鼻クソ

「日の丸」は、ナチス党旗と違って、特殊な目的をもって作られたものではありません。国際的慣習にしたがって「日の丸」を国旗として採用していた日本が、後に、侵略的行為を一時期おこなうこととなった、ということです。だから、ドイツ人がハーケンクロイツを否定するのと、日本人が「日の丸」を否定するのは、まったく意味が違います。
党旗だの国旗だのという区別には私にとって意味がありません。国家統制や侵略のシンボルとして、「ハーケンクロイツ」も「日の丸」も同じ役割を果たしたからです。「目くそ、鼻くそを笑う」とはこのことです。問題になるのは、殺人兵器である「メッサーシュミット」や「フォッケウルフ」などに「ハーケンクロイツ」がついており、同じく殺人兵器である「零戦」や「隼」などに「日の丸」がついていた事実です。侵略のシンボルとして「日の丸」もハーケンクロイツも同じだといっているのです。

「日の丸」もハーケンクロイツも同じ役割を持ったのに、なぜ「日の丸」は現在まで廃れないのでしょうか。それは、国旗と党旗の違いということではなく、ヒットラーが死んだのに対して天皇が処刑を免れたことに関連して、ドイツでは戦前の国家体制(ナチス)が滅び去ったのに対して、日本の戦前の国家体制はしぶとく生き残っているからです。それゆえ、ドイツ人の大多数がナチスの犯罪を認識しているのに対して、日本の軍国主義がかつてアジアでしでかしたことを多くの日本人が犯罪と認識していません。また、国家のシンボルとして「日の丸」が定着していたのではありません。民衆は「日の丸」を体制側から強制的に押し付けられていただけです。


(5)民衆を象徴していない国旗や国歌など少しも必要ではない

民主主義という政治思想と、国家を識別するシンボルである国旗とのあいだは、論理的になんの必然的関係もありません。国旗や国歌がなくても、民主主義は蹂躙されうるし、国旗や国歌があっても民主主義は育ちます。

国旗や国歌の問題は、基本的に、国際交流上のエチケットの問題だと思います。民主主義やファシズムなどという政治思想の問題ではないと思います。

国旗が、国家間を識別するだけの記号であるならば、政治思想と国旗との間に必然的関係はありません。しかし、先にも述べたように国旗の持つ役割は国家間を識別する記号だけではありません。

私が、自分の立場(主権在民・民主主義を尊重する)を断った上で、国旗・国歌が必要無しと述べたのは以下の理由からです。

他国の民衆を尊敬することに私は異存はありません。一つの国の中には様々な人々がいて様々な民族があり、日本もまたその例外ではありません。国は様々な民族を統合したものであり、その象徴である国旗や国歌を尊敬することはその国の体制を尊敬することであり、その国の中の民衆を尊敬することにはなりません。ですから単純に「国旗や国歌の問題は、基本的に、国際交流上のエチケットの問題」とはいえません。民主主義を尊重する立場からすると、民衆を象徴する旗こそ他国の民衆に対する尊敬を形式的に示す道具になりうるのですが、その国の民衆を象徴していない国旗や国歌など少しも必要ではないのです。  


(6)反左翼思想の呪縛

国歌や国旗を認める立場を「ファシズム」と同一視したり、国歌や国旗に反対する立場を民主主義と同一視したりするところからも、それが、特殊な政治思想(マルクス・レーニン主義)に影響されていることがわかります。「日の丸」や「君が代」を認めるものを、十把一からげに、簡単に「ファシスト」と呼んだり、「権力の媚を売る者」と呼んだりするのは、政治的宣伝(デマ)です。もともと国家(権力)そのものを悪と見るマルクス・レーニン主義やそれに類似した政治思想がなければ、このように、単に「国家のシンボル」すぎないものを、無理やり「侵略のシンボルである」などと事実をわい曲して宣伝し、政治の道具に利用する理由がありません。それは、右翼が「日の丸・君が代」を国家崇拝のために利用しているのと、まったく同じ次元のものだと思います。

私の主張のどこで、国歌や国旗を認める立場を「ファシズム」と同一視したのでしょう。どこで私が、「日の丸」や「君が代」を認めるものを、十把一からげに、簡単に「ファシスト」と呼んだりしましたか。また、私が反対しているのはあくまでも「日の丸・君が代」であって、国旗・国歌については反対とはいわずに「必要無い」と述べたはずです。民主主義を尊重する立場から、国家統制に利用されがちな国旗・国歌は必ずしも必要ではないということです。先にも述べましたが、私の主張を捏造しておいて、「特殊な政治思想(マルクス・レーニン主義)に影響されていることがわかります」などと、妙な断定をされるいわれはありません。「日の丸・君が代」に反対する立場を十把一からげに「左翼思想の信奉者」とする政治的な偏見が念頭にあり、「左翼思想」は国賊で悪いことだという反左翼の呪縛があるからこういった捏造が平気でできるのだと思います。

人の主張を捏造しておいて、それをデマとするやり口は、「体制側の番犬」的な評論家がよく使う手口です。

「日の丸」を、単に「国家のシンボル」にすぎないという主張は、「日の丸」の一側面しか見ていないから成り立つものです。虐殺の現場での生き残りの人や、元従軍慰安婦や、沖縄の人など、現在でも「日の丸」を見て悲しく悔しい思いをする人々が現実にいるのです。いくら「日の丸」は単に国歌のシンボルですよと主張してみても、「日の丸」の下に虐げられた人々にとってその主張は独善に他なりません。「日の丸」が単に国歌のシンボルに過ぎないという主張は、「日の丸」を見ると嫌な気持ちになる人々の存在に対して無知であるか、圧殺しようとしているからこそ言えるのだと思います。いずれにせよ「日の丸」に賛成している人は、「日の丸」の下に抑圧されている人々の気持ちに対してあまりにも鈍感です。

民衆の旗でない旗を国旗とすることこそ、政治的宣伝(デマ)です。私が自分の立場を示して「日の丸」反対について論じているにも関わらず、私を「左翼思想の信奉者」と断じ、「無理やり『侵略のシンボルである』などと事実をわい曲して宣伝し」ていると断言されるのは、佐倉さんなりの政治的な考えが基盤にあるからではないのでしょうか。侵略された側にとっては、「日の丸」は侵略のシンボルであるという主張を私はしているのです。現在においても侵略の精算を何一つしていないので、侵略された側からすれば今でも「日の丸」は忌わしい侵略のシンボルなのです。そして私は侵略された側の立場に立つものであるということも明言しています。完全に中立の立場というものは存在しないのです。それぞれの立場からの主張が、政治的宣伝(デマ)ということならば、世の中の主張は全て、佐倉さんの主張も政治的宣伝(デマ)です。

「日の丸」に賛成する人は、多かれ少なかれ権力に媚びていると私が感じるのは、別にマルクスもレーニンも関係のないことで、媚びてる以外に「日の丸」に賛成する理由を見出せないからです。他の理由があるならぜひ教えていただきたいと思います。国に抑圧されてない人は「日の丸」に実に無邪気に賛成します。私は国に抑圧されているので、「日の丸」は糞だと思うし、ど偉そうに「日の丸」掲げられているのを見ると「ふざけんな」と感じます。


(7)佐倉さんの結論に対して

「日の丸」が侵略戦争に使用されることもあった、というのは事実です。しかし、それゆえ「日の丸」は侵略のシンボルである、という主張は政治的動機に基づいた無理な拡大解釈です。
何度もくり返して述べますが、「日の丸」の下に侵略されたり、抑圧された立場から見ると、現在でも「日の丸」は侵略のシンボルです。そうした立場から見ると、「日の丸」が侵略のシンボルであるというのは切実な現実問題であり、「政治的動機に基づいた無理な拡大解釈」どころではありません。侵略されたり抑圧されたりする立場からの反発に「政治的動機」など必要無いのです。「日の丸」は忌わしい糞旗である、そう思うから反対する、ただそれだけのことです。「日の丸」の下に侵略・抑圧された立場からは、「日の丸」に反感を持つのは必然であり、反感が沸きあがる出発点においては左翼イデオロギーとは何の関係もありません。
「日の丸」は失敗も成功もする国家のシンボルです。あらゆる国際交流の場(国連、オリンピック、サミット、国賓歓迎、等々)で使われている「日の丸」や「君が代」は、この事実にしたがって、つまり「日本という国家のシンボル」として、使われています。
「 日の丸」を国旗であるという主張こそ、政治的な動機に基づいた強弁です。私のみる事実として「日の丸」は、なし崩しに使用されているだけの非民主的な旗だからです。国連、オリンピック、サミット、国賓歓迎、等々の場で「日の丸・君が代」を使用しているのは、勝手に体制側がそうしているだけです。日本内外の「日の丸」が嫌いな人々の存在は眼中にないのです。「日の丸」が国旗だというのは体制側から見た事実であり、どのように「日の丸」使われていようが、私が「日の丸」に反対することに関係ありません。
世界中どこを見回しても、日本の左翼イデオロギー信奉者以外、だれもそれを「侵略のシンボル」として糾弾する者はありません。
これは明らかに嘘です。なぜ「日の丸・君が代」の法制化の動きに、アジアの国々は反発するのでしょうか。「日の丸・君が代」がアジアでは今でも侵略のシンボルであると考えられているから、「日の丸・君が代」の法制化によって日本が再び軍国主義化することにつながっていくことを恐れて反発している、という理由の他に何があるのでしょう。「日の丸・君が代」がただの国のシンボルであるのなら、外国から日本の国旗や国歌のことで反発を受ける筋合いはないはずです。

ソウル・オリンピックでも「日の丸」は上がり、「君が代」が演奏されました。北京で行われるオリンピックでも、やはり、「日の丸」は上がり、「君が代」は演奏されることでしょう。

金もうけ主義のサマランチが率いるIOCが仕切る現在の商業オリンピックは、国家と国家を後ろ楯にする大企業が前面に出過ぎていて、もはや民衆の祭典ではありません。国のために勝つことが求められていて、スポーツマンシップも選手個人の素晴らしさも色褪せてしまっています。

現在のオリンピックが民主的ではない以上、北京で行われるオリンピックでも、「日の丸」が上がり「君が代」が演奏されることは当然だと思います。ただこれは、中国の民衆の感情を無視する行為です。


結論

戦後、国名は大日本帝国から日本国にかわりましたが、日本は未だに立憲君主制の国です。これは戦前も戦後も変化がないので「日の丸・君が代」も残っている。ただそれだけのことであり、「日の丸・君が代」が国旗・国歌とする考えは、私の立場からは正当ではありません。

「日の丸・君が代」に反対する立場は「左翼思想」とは基本的に関係がなく、「日の丸・君が代」の下に侵略された側・抑圧された側の怒りから出ていることです。「日の丸・君が代」をファシズムの台頭や国家統制に利用しようとする奴らがいるからこそ、私は断固として「日の丸・君が代」に反対します。


作者より 福原和明さんへ

99年6月19日


(1)日の丸は国家のシンボル

「日の丸」がただの国のシンボルであるというのは、国旗に対する認識不足から出ている主張だと思います。これは観念的な主張であり、実際的ではありません。佐倉さんの御主張は全て「日の丸」の一側面しか見られずに述べられているのものです。「日の丸」は単なる国家のシンボルであり、それにつく意味は全て二次的事柄であると言われる佐倉さんの御意見は、「日の丸」を国家統制や国家権力の誇示に利用しようとする側を大変喜ばせるものです。奴らの目的を曖昧にして、より一層「日の丸」を利用しやすくさせるからです。
日の丸は「ただの国のシンボルである」というのではありません。日の丸は国のシンボルである、というのが基本的な事実だということです。

日の丸は国家のシンボルであるという基本的な事実(第一義)があってはじめて、日の丸を「国家統制や国家権力の誇示に利用」することができます。日の丸は国家のシンボルであるという基本的な事実(第一義)があってはじめて、国家が侵略をしたとき、日の丸は侵略のシンボルとなることができます。日の丸は国家のシンボルであるという基本的な事実(第一義)があってはじめて、ワールドカップに出場する日本チームを応援するのに日の丸を使用することができます。日の丸は国家のシンボルであるという基本的な事実(第一義)があってはじめて、国際海路における日本の船の日の丸のシンボルがその役目を果たすことができます。

日の丸が国家のシンボルでなければ、「国家統制や国家権力の誇示に利用」することはできません。日の丸が国家のシンボルでなければ、日の丸は侵略のシンボルになりません。日の丸が国家のシンボルでなければ、ワールドカップに出場する日本チームのシンボルにもなりません。日の丸が国家のシンボルでなければ、国際海路における日本の船の日の丸のシンボルがその役目を果たすことはできません。

日の丸は国のシンボルである、というのは基本的な事実です。その事実があってはじめて、日の丸は国家を代表するすさまざまなこと(侵略、平和、経済大国、国際援助、国連参加、スポーツ・チーム、船舶の所属国家、等々)のシンボルになりうるのです。いわば、日の丸は国のシンボルである、という事実は、日の丸がその他のシンボルであることの下敷きになっていることといえるでしょう。


(2)料理包丁反対!

「日の丸」は単なる国家のシンボルであり、それにつく意味は全て二次的事柄であると言われる佐倉さんの御意見は、「日の丸」を国家統制や国家権力の誇示に利用しようとする側を大変喜ばせるものです。奴らの目的を曖昧にして、より一層「日の丸」を利用しやすくさせるからです。・・・「日の丸・君が代」をファシズムの台頭や国家統制に利用しようとする奴らがいるからこそ、私は断固として「日の丸・君が代」に反対します。
料理包丁は強盗や殺人に利用される。わたしは強盗や殺人に絶対反対である。だから、料理包丁に断固として反対する。これが、福原さんの論理です。このような論理の誤りにおちいられたのは、上記にあげたような事実、つまり、日の丸は国家のシンボルであるというのは、基本的な事実であって、その他はすべて、その事実に立脚した派生的・二次的事実である、という明白な事実を受け入れることができないからだと思います。


(3)「体制側」と「民衆側」

「 日の丸」を国旗であるという主張こそ、政治的な動機に基づいた強弁です。私のみる事実として「日の丸」は、なし崩しに使用されているだけの非民主的な旗だからです。国連、オリンピック、サミット、国賓歓迎、等々の場で「日の丸・君が代」を使用しているのは、勝手に体制側がそうしているだけです。日本内外の「日の丸」が嫌いな人々の存在は眼中にないのです。
先週おこなわれたNHKの世論調査によると、「日の丸は日本の国旗としてふさわしいと思う」と答えた人は89%で、「ふさわしいと思わない」と答えた人は4%でした。

[NHK

(NHKニュース「おはよう日本」のテレビ画像より)

福原さんのいう「日の丸が嫌いな人々=民衆側」はわずか4%です。福原さんのいう「日の丸が嫌いな人々=民衆側」というのは、わたしが何度も繰り返して指摘してきたように、やはり、ある特殊な人々のことを指すようです。


(4)わずか4%の自称「民衆側」の正体

この、「日の丸が嫌いな」4%というのは、どんな人々の集まりなのでしょうか。福原さんがその代表的な人であるとすると、わたしが想像したことは的確だったことになります。つまり、日の丸を侵略のシンボルと考え、それに反対するのは、ある特殊な政治的ドグマ(マルクス・レーニン主義)の信奉者に違いないということです。

左翼思想というものを詳しく学んだ訳ではないので・・・
左翼思想を読めば、福原さんご自身の考え方がきわめて純粋な左翼思想(マルクス・レーニン主義系統の思想)であることがすぐわかっていただけると思います。

社会を「体制側・資本家側」(悪側)と「民衆側・労働者側」(善側)に分けてこれを対立させ、すべての悪の責任は「体制側・資本家側」にあると主張し、「民衆側・労働者側」の「体制側・資本家側」に対する憎悪感を駆り立て、「民衆側・労働者側」を団結させて、「体制側・資本家側」を倒して(革命)、「民衆側・労働者側」の平等社会(社会主義・共産主義)を作ることを究極の目的とする -- これが左翼思想(マルクス・レーニン主義系統の思想)の基本的な主張です。

「日の丸・君が代」に反対する立場は・・・「日の丸・君が代」の下に侵略された側・抑圧された側の怒りから出ていることです。「日の丸・君が代」をファシズムの台頭や国家統制に利用しようとする奴らがいるからこそ、私は断固として「日の丸・君が代」に反対します。
福原さんご自身が認めておられるように、「日の丸」に反対することとは、すなわち、「民衆側・労働者側」の立場に立って「体制側・資本家側」に対抗することである、とあくまでも主張されるところに、「日の丸」反対運動が左翼の政治運動にすぎないことが明々白々なのです。


(5)破滅したマルクス・レーニン主義

マルクス・レーニン主義の魅力は、何と言っても、「自分が不幸なのは他人のせいである」、という都合の良い言い訳を正当化する理論を提供してくれることです。

私自身の生活が苦しいのは奴らのせいだ・・・
だから、多くの労働者や農民を動員して、革命を起こすことができました。

しかし、なぜ、その革命はことごとく失敗してしまったのでしょうか。なぜなら、マルクス・レーニン主義は「国賊で悪い」のではなく、単純に、その社会分析が、間違っていたからです。

わたしたちの社会は、19世紀の人々が考えたような、「体制側・資本家側」(悪側)と「民衆側・労働者側」(善側)に分けることのできることのできるような単純なものではありません。ほとんどの労働者は同時に資本家(資本投資家=銀行預金者や株主)であり、資本家でない労働者など、資本主義が発展すればするほど、マルクスが予言したのと裏腹に、消滅していきます。余剰資金を社会に投資還元しないで、床下や貯金箱にためるのは、社会をより豊かにするためには、おろかな行為だということが、現代ではあまりにも明らかだからです。

また、旧社会主義諸国がまざまざと示してくれたように、平等社会を実現しようとすれば、自由競争を抑えなければならず、自由競争を抑えるためには、当然、国家権力の増大を必要とするために、ますます(国家権力と人々との間が)より不平等な社会を作らざるを得なくなります。絶対的平等を実現するためには絶対的国家権力を必要します。社会主義諸国がことごとく崩壊してしまったのは当然の帰結です。

今日、純粋な不平等社会、支配者階級と被支配者階級をはっきり分けることのできる権力至上主義の社会は、北朝鮮や中共など、共産党一党独裁体制のマルクス・レーニン主義国家ぐらいのものでしょう。しかし、他のマルクス・レーニン主義国家がすべて破滅したように、彼らも、やがて、マルクス・レーニン主義を完全に放棄することでしょう。


(6)政治闘争の道具と単純な事実

単なる国家のシンボルに対して、一体どうして、悲しい気持ちになる人や怒りを抱く人や嫌悪感を抱く人が実在するのでしょうか。
日の丸を、打倒すべき敵(資本家、抑圧する側、権力側、金持ち・・・)のシンボルに仕立て上げ、政治闘争の道具に使おうと考えている人々によって、「日の丸は侵略のシンボルである」と教え込まれれば、誰でも日の丸に対してそういう感情を持つでしょう。

しかし、さまざまな統計が示すように、圧倒的に大多数の人々は、日本の侵略行為に対しては怒りや嫌悪感を抱いても、日の丸そのものにに対して怒りや嫌悪感をいだいてはいないのです。それは、彼らには、日の丸は国家のシンボルであり、その国家が侵略したことがある、という単純な事実がそのまま見えるからです。

必要なのは、日本を平和国家にすることであって、そうすれば、国家のシンボルも平和のシンボルとなるでしょう。国家のシンボルを何度変えても、あるいは国家のシンボルをなくすことによっても、日本を平和国家にすることはできません。


おたより、ありがとうございました。