笠原 祥です。 辛辣なご回答有り難うござました ^^;

今回の笠原さんのご意見には、同意できないところが、沢山(ほとんど全部(^^))あります。いくつか取り上げて、それに対するわたしの意見を述べてみたいと思います。
せっかく詳細にご批判を頂いたのですが、私も、形而上学的な事柄は「わからない(証明不可)」という立場であり、事実認識に関する問題として取り扱っているわけではありません。

つまり、私の意見に対して事実として確認できるものがないため、それは誤謬であるおっしゃられても、最初から事実の証明を目指しているわけではありませんので、困ってしまうのです。

問題は、より善く生きるためには人間というものをどう考え、具体的な行動レベルまでどう日常生活に落とし込めばよいか?ということです。その観点から「死後にも生き残る霊魂とかあの世などというものがあるか?」という命題に対して、否定する立場と肯定する立場の双方の有意義な意見交換を目指していたのですが…・・。


(1)論理の飛躍

もし、人間の命がこの世限りのものであるならば、人間の存在そのものが無意味だということになります。最後には死んで何も無くなるのであれば、最初から存在しなかったのと同じです。
これは明らかに論理の飛躍だと思われます。「人間の命がこの世限りのものであるならば」、どうして、「人間の存在そのものが無意味だ」ということになるのか、また、「最後には死んで何も無くなる」ものは、どうして、「存在しなかったのと同じ」になってしまうのか、つまり、どのような手順で前者から後者が導出されたのか、その論理的手続がわたしにはまったく見えません。しかも、事実は、おっしゃっていることとは違っているように思えます。なぜなら、人でも、ものでも、その存在価値が認められるのは、その人なりものなりが、自分自身や他の人に、必要とされたり、望まれたりするときですが、そのことが成立するために、人やものが永遠でなければならないということはないからです。

桜の花が散ってしまうのなら、桜の花がなかったのと同じである(死んでしまうなら、初めから無かったことと同じ)、などとどうして言えるのでしょうか。散って死んでゆくはかない命だからこそ、桜の花は美しく、人に愛されるのではないでしょうか。使い捨ての紙コップやトイレットペーパーなど、一度の「命」しかなくても十分に価値があります。いや、それらの場合は、それが一度っきりの命である(投げ捨てできる)ことがその存在価値となっています。また、道なきところに道を開き、橋なきところに橋を架けた、今は亡き先人の努力は、いまでもわたしたちの生活を豊かにしてくれています。

前にも書きましたが、論理的手続などというたいそうなものを持ち出すまでもなく、全てが無くなった時点(例えば数十億年後に地球が太陽の爆発に飲み込まれ、消滅した時)において、それらはどのような意味をもつのでしょうか?その時点においては、最初から存在しなかったのと同じことではないでしょうか?ということなのですが…・・。


非常にむなしく、空虚な考え方であり、人によっては退廃的な方向に向かい、自暴自棄になるかもしれません。
死ぬと告知されて後、人生のもっとも有意義な時をおくるひとが沢山います。短い命だからこそ、命が大切に思われ、一生懸命生きようとするからです。むなしさは、生命の長さの問題ではなく、自分のことしか考えることのできない姿勢から生じるのだと思います。自己の本質を、他者との関わりの中に見るのではなく、自分自身の中に内在するもの(自分の皮膚の内側に囲まれている部分)と考えるかぎり、永遠に生きる霊魂のようなものを想定しないかぎり、死とは無以外のなにものでもなくなり、むなしく思われるのも、当然でしょう。
死んで無に帰すると確信すれば、命が大切だとは思わないでしょう。また、一所懸命生きようとする気にもならないでしょう。人は、生きること自体が目的ではありません。理由はわかりませんが、自分の内側から「より善く(良く)生きたい」という思いがふつふつと湧いてきます。自然に任せていればむなしさなどは起こりませんが、「死んで無に帰する」などと余計な解釈をすることにより、むなしさが創出されるのだと思います。

佐倉様のおっしゃる「自己の本質」をもう少し詳しく説明いただければ幸いです。


この有限の物質世界が全てであれば、なるべく多くのお金や物を自分の手元に集め、面白おかしく暮らすことが最も価値のある生き方だと言われても否定できません。
永遠に生きるから霊魂は「精神的」であり、有限だから肉体生活は「物質的」などというものでもないでしょう。むしろ、永遠の命への願望こそは「生きる長さ」、つまり量に興味を持つ考えであることから想像されるように、はなはだ物質的な欲求に基づいた考え方だと思われます。

実際、アートマン思想や輪廻思想の元であるバラモン教の経典を見ても、霊魂とあの世を信じるキリスト教の新約聖書や巷にあふれる新興宗教の文献を見ても、そこに記されているあの世の風景は、この世のそれをほとんどそのまま持ち込んでそれを理想化したものです。ヴェーダ文献によれば、最高天は「光明、緑陰、酒や美食、歌舞・音楽に恵まれた理想郷として表象されている」(中村元『ヴェーダの思想』349頁)と言われています。新約聖書によれば、救われる人が行く神の都とは、純金や碧玉、サファイア、エメラルド、赤縞めのう、赤めのう、カンラン石、緑柱石、黄玉、ひすい、青玉、紫水晶、で飾られている場所です(ヨハネの黙示録21章)。幸福の科学の出版物(雑誌『伝道』)に載っていた大川隆法総裁夫人のお話によれば、あの世では、欲しいものがあれば、それを心に思うだけでそれが目の前に現出するのだそうです。

あの世や霊魂の存在を信じない人々を物質主義的と批判する宗教家の語る、肉体を捨てたのち霊魂が住むあの世とは、まさに「ゴイズムの影を引きずった儘、来世や神について恣意的な空想をめぐらせ[たもの]」(田中裕さん)と言えるでしょう。「「死後の世界」というと、ただちに、死後における自分の運命や成りゆきのことしか思いを馳せぬ」、霊魂・あの世の思想はとても貧弱な思想に見える、というのがわたしの評価でもあります。(「ある仏教徒の『死後の世界』観」)

私もそのようなものは否定します。 人間が死ねば、そのまま仏や神になれるとか、天国で生活出来るなどということは単なる願望でしかないでしょう。死ぬ時の心の状態、それをそのまま別の世界に持ち越すことになるとしか思えません。


(2)事実認識と実存的要請

「永遠の魂」とか「輪廻転生」を考えることが「愚かな考え」ではなく、むしろ合理的であると考えるようになった理由を述べてみたいと思います・・・
上記では、「人間の命がこの世限りのものである」としても、必ずしも、「人間の存在そのものが無意味だということ」にはならないこと、また、「人間の存在そのものが無意味だ」と感じるのも、「人間の命がこの世限りのものである」と考えるからではなく、自分のことしか考えることのできない姿勢から生まれるのだ、というようなことを述べさせていただきました。

しかし、もっと根本的な誤謬は、「死後にも生き残る霊魂とかあの世などというものがあるのかどうか」という事実認識に関する問題に対して、「人間の存在意義」とか「むなしさ」などという実存的要請から、その判断を下しておられるところにあります。それは、明日の天気予報の判断を、客観的な気象条件だけから判断するのではなく、「明日雨が降っては自分の大事な休暇が台無しになってしまうから、明日は晴れでなければならない」という勝手都合で判断を下すようなものです。事実がどうであるかを、むなしく感じるかどうかで判断するのは、体温を測るのに体重計をもってするような根本的な誤謬です。

たとえ、「人間の命がこの世限りのものであるならば、人間の存在そのものが無意味だということにな[る]」としても、それで、霊魂やあの世が事実として存在するということにはまったくなりません。事実がどうであるかは、事実がどうであって欲しいかという人間側の勝手な実存的要請とは、まったく無縁だからです。事実判断に必要なのは、人間側の勝手な都合ではなく、客観的な認識手段(観察)です。体温を測るのに体重計が何の役にも立たないように、「死後にも生き残る霊魂とかあの世などというものがあるのかどうか」という事実認識に関する問題に対して、「人間の存在意義」とか「むなしさ」などという人間側の勝手な実存的要請は何の役にも立ちません。

私は事実認識に関する問題に対して言及しているわけではありません。再三申し上げているとおり、形而上学的問題に対して、事実認識を云々することなど愚の骨頂です。従って、「死後にも生き残る霊魂とかあの世などというものがあるのかどうか」という事実認識に関する問題に対して、判断を下しているのではなく、より善く生きるために、「死して無に帰する」と考えることが合理的か否かという命題に対して、私は合理的でないと考えると述べているにすぎません。


(3)説明と知識

この世には、染色体は完全に男性でも、心は完全に女性であるというような心と肉体の性が相反している人が存在します。 心が単に肉体(脳)の活動によって生み出されるのであれば、全く説明がつきません。性同一性障害は心は肉体とは別に存在すると考えた方が合理的な例の一つだと思います。
わたしたちがよくわからない現象X(性同一性障害)を説明するために、それ(現象X)についてよりもわたしたちがもっと知らない(実は何も知らない)Y(霊魂)を持ってきて「説明」しても、知らない現象X(性同一性障害)についてのわたしたちの知識を何ひとつ増やすことにはなりません。無知によって「説明」された事柄は、まだ何も説明されていないからです。

人間の知っていることはわずかなことであって、わたしたちの知識によって説明できないことは無限にあります。大切なことは、知らないことは知らないと認め、知るための努力を続けることだと思います。一ミリの知識も増えていないのに、納得してしまうようなことがあるとすれば、もともとその結論をその人が信じたかった(そうであって欲しいという欲求が強かった)だけ、というつまらない事実を明らかにするだけです。

ブッダが「愚かである」と叱責したのは、まさに、そのこと(一ミリの知識も増えていないのに、納得してしまうこと)だと思います。なぜブッダは、おおくの宗教家と異なって、「信仰を捨てよ」と説いたのか、その理由もここにあると思います。

人間は殆ど何も知らない存在であると私も思っております。「大切なことは、知らないことは知らないと認め、知るための努力を続けることだと思います」これもおっしゃる通りだと思います。しかし、「知らない」のですから、安易に否定することも正しい姿とは言えません。

そして、知るためには「仮定する」ということが大切です。形而上学的問題は、科学と違って検証することはできませんが、「人間の存在意義」とか心と体の関係を考えることによって「より善く生きる」という方向に向くならば、「愚かである」ということにはならないでしょう。

「心が単に肉体(脳)の活動によって生み出されるのではなく、心は肉体とは別に存在する」と仮定することによって、何か弊害が発生するのでしょうか?


(4)疑似科学

私は空をエネルギーと捉えており、一切衆生及び森羅万象はこのエネルギーの一形態で、精神活動もまたエネルギー活動(他に適当な表現が見つかりません)だと思っております。・・・水が空と地上の間を循環して生命を育むように、人間という存在もこの世だけに存在しているのではなく、この世と別の次元の間を転生輪廻という循環の法則にのって行き来しながら螺旋状に成長していく・・・この世は確かに無常であり、永遠なるものは何一つありません。しかし、それは表面的な現象であり、本質的な部分は変化しません。位置エネルギーが運動エネルギーに変化しても、エネルギー量が変化しないように、精神活動もエネルギーだとすると消滅して無くなることは考えられません。・・・自分の本質も死によって消え去るわけではなく、水が水蒸気として空に浮いているように、どこかで存在していてもおかしくないような気がします。
科学用語(「エネルギー」「法則」)を使っておられますが、ここに述べられているのは、もともと、知識でない(それについたはわたしたちは何も知らない)事柄(「転生輪廻」)を、単に科学用語らしきもの(「転生輪廻という循環の法則」)に置き換えておられるだけです。「[この世の]本質的な部分は変化しません」などというようなことが、一切の根拠を欠いたまま断言されたり、位置エネルギーや運動エネルギーの話から、突然、「精神活動エネルギー」という、それについてはまったくわたしたちは科学的知識をもたない、あやしげなところに飛んでいったりして、結局、それによって、何が結論されるのかと思えば、「自分の本質も死によって消え去るわけではなく、水が水蒸気として空に浮いているように、どこかで存在していてもおかしくない」というようなことです。

位置エネルギーや運動エネルギーに関するわたしたちの知識から、「転生輪廻という循環の法則」があるという主張までの間には、「精神活動エネルギー」という概念を導入するだけではとうてい埋め尽くされない途方もないギャップがあります。残念ながら、わたしたちは、ここに述べられている笠原さんのご意見から、エネルギーについも、また転生輪廻についても、新しい知識を一ミリも得ることはできません。わたしたちがここから知ることのできる唯一の事柄は、笠原さんは死後も生き残りたいという願望を持っておられるらしい、ということだけです。

本内容も、証明出来ない輪廻転生の問題を物理的な運動と対比して考えただけのことであって、「水が空と地上の間を循環して生命を育むように、人間という存在もこの世だけに存在しているのではなく、この世と別の次元の間を転生輪廻という循環の法則にのって行き来しながら螺旋状に成長していくというのが、私にとって合理的な考え方となります」と明記しているように、自分にとって合理的な考え方であり、人様に対して押し付けているわけでも主張しているわけでもありません。

また、「[この世の]本質的な部分は変化しません」というのは、何がどのように変化しても物質を構成している根源的な存在をクォーク(超ヒモでもかまいませんが)と呼ぶと、その質と量が変化するわけではないという程度の意味で、敢えて説明するほどでも無いと思いました。

さらに、「わたしたちがここから知ることのできる唯一の事柄は、笠原さんは死後も生き残りたいという願望を持っておられるらしい、ということだけです」というのも、どこにそのような事実が述べられているのでしょうか?どうも、「永遠の魂」とか「輪廻転生」を考える人は、このような価値観なのだという先入観が強すぎるのではないでしょうか?もう少し、冷静にお読み戴けたらと思います。私の願望は全く逆です。

「死して無に帰する」と信じることが出来るならば、どんなに楽なことか。現実の様々な苦しみも一時的なものであり、死ねば楽になれるし、生前の罪も帳消しになる…そう考えることが出来れば、悩みも軽くなります。しかし、それでは南無阿弥陀仏と唱えれば生前のどんな罪でも許されて、仏の御手に救い上げられるとか、イエスの贖罪にあずかれるというような他力信仰と変わらなくなってしまいます。私には「人間が生きる」ということは、そんな生易しいことだとは思えません。


(5)理想主義

我々は、この弱肉強食の凄惨な姿を見て、喜びを感じるでしょうか?決してそんなことはありません。・・・この世とは別の「実相の世界」が存在すると考える方が私にとっては自然なのです。・・・もし、人間としての生が一度きりであれば、これほど不公平なことは無いでしょう。・・・何故心はこのように泥沼化しているのでしょうか?・・・
笠原さんが使われている「合理的」という言葉の「理」とは、論理の「理」ではなく、理想の「理」です。つまり、「永遠の魂」とか「輪廻転生」の考えが笠原さんにとって「合理的である」とは、要するに、それらを想定したほうがより人間の理想に合致する、ということのようです。現実は悲惨である、不公平である、泥沼化している、こんなことがゆるされてよいのか。だからこの世は「仮の世」でなければならず、すべてが理想と合致する別の世界、「実相の世界」がなくてはならない。

しかし、理想とは、言葉を変えて言えば、人間の欲求以外の何ものでもありません。ここでも、事実に関する判断を、どうあって欲しいかという人間側の勝手な都合から判断を下すという、笠原さんの基本的な姿勢が現れています。すでに述べたように、事実がどうであるかは、どうであって欲しいかという人間側の要請とは無関係ですから、ここには根本的な誤謬があると言えます。

この部分も、事実に関する判断をしているわけではありません。「我々は、この弱肉強食の凄惨な姿を見て、喜びを感じるでしょうか?決してそんなことはありません。非常に悲しい、やりきれない気持ちにさせられます。もしこれが、必然的に決まっているものならば、決してそんな気持ちにはならないでしょう。当たり前の事として、平然としていられる筈です。我々がそのような気持ちになるのは、食物連鎖に頼らなくても永続性を確保出来る世界、つまり物質主体ではない世界を潜在意識のどこかで知っているからではないでしょうか?」と書きました様に、弱肉強食の凄惨な姿を見て、非常に悲しい、やりきれない気持ちにさせられますという事実から、食物連鎖に頼らなくても永続性を確保出来る世界、つまり物質主体ではない世界というものを仮定しているに過ぎません。

繰り返しになりますが、「永遠の魂」とか「輪廻転生」とか「実相の世界」の事実性を云々することは、検証が出来ないため愚の骨頂です。しかし、より善く生きるために、自分の存在をどのように考えるかということは、例え正解か否かの検証が出来なくても有意義だと思います。そして、「永遠の魂」とか「輪廻転生」とか「実相の世界」を仮定することにより、人生に対して前向きに取り組むことが出来るならば、それは決して「愚かな考え」ではないと思うのです。


(1)仮定と信仰

知るためには「仮定する」ということが大切です。・・・・「永遠の魂」とか「輪廻転生」とか「実相の世界」を仮定することにより、人生に対して前向きに取り組むことが出来るならば、それは決して「愚かな考え」ではないと思うのです。
知るために「仮定する」ことは確かに大切です。しかし、ここで使われている「仮定」という言葉は、(科学や論理で使われる場合とは異なって)、その意味内容は、実は、宗教が伝統的に使ってきた言葉「信仰」のことなのではないでしょうか。つまり、上記のご意見は、
「永遠の魂」とか「輪廻転生」とか「実相の世界」を、たとえ証明することはできなくても、信じることにより、人生に対して前向きに取り組むことが出来るならば、それは決して「愚かな考え」ではないと思うのです。
ということなのではないでしょうか。なぜなら、笠原さんが言われているように、「永遠の魂」とか「輪廻転生」とか「実相の世界」の存在が、人を動かし「人生に対して前向きに取り組むことが出来る」ようになるためには、「そうであるかも知れないし、そうでないかも知れない」という仮定の立場より一歩踏み込んで、事実かどうかはわからないけれども、事実であると信じることが必要だと思われるからです。
[人間は]死ぬ時の心の状態、それをそのまま別の世界に持ち越すことになるとしか思えません。
というような笠原さんの立場は、まさにそういう、「そうであるかも知れないし、そうでないかも知れない」という仮定の立場を一歩踏み越えて、あきらかに、「永遠の魂」の存在に関して、それを信じる信仰の立場を表明されたものです。


(2)事実判断と実存的要請のミスマッチ

私も、形而上学的な事柄は「わからない(証明不可)」という立場であり、事実認識に関する問題として取り扱っているわけではありません。つまり、私の意見に対して事実として確認できるものがないため、それは誤謬であるおっしゃられても、最初から事実の証明を目指しているわけではありませんので、困ってしまうのです・・・
わたしが「誤謬」として指摘したものは、「永遠の魂」とか「輪廻転生」などに関する笠原さんのご主張には、「事実として確認できるものがないため」とか、「事実の証明」になっていない、ということとは違います。それは、笠原さんご自身がなんどもそれらについては「わからない」ことを表明されているからです。むしろ、「在るかどうかわからないけれど、在ると信じる」というのが笠原さんの立場であり、そう信じるのには「合理的」な理由がある、ということを笠原さんはいろいろ述べられているわけです。

わたしが指摘した誤謬とは、「在るか、ないか」という問いに対する笠原さんの(「在る」と信じる)判断と、その判断を下された「合理的」といわれる理由との間にある根本的なミスマッチ(体温を体重計で測る)のことです。前回、指摘しましたように、笠原さんのあげられる「合理的」理由とは、その内実、「そのほうが笠原さんの理想(より良く生きられる、食物連鎖がなくなる、云々)に合致するから」というほどの意味でしかないからです。これでは、そうあって欲しいから、そう信じる、ということ以外のなにものでもありません。

「在るか、ないか」という問いは世界の事実に関する問いです。「在って欲しい、在って欲しくない」というのは人間側の要請(理想、欲求)です。この二つの間には何の関係もありません。ところが、笠原さんは、後者(個人的要請)を理由に、前者(事実)の問題に関して、一つの判断(「在る」と信じる)を下されたのです。「わたしはこういう理想・欲求をもっている、しかし、事実がそうであるかどうかはわからない」という立場(仮定)にとどまらないで、そこから、一歩踏み出して、「わたしはこういう理想・欲求をもっているので、事実はそうであるに違いない、そうとしか思えない」という領域(信仰)にまで行かれているのです。ミスマッチの誤謬はそこにあります。


(3)疑似科学

「[この世の]本質的な部分は変化しません」というのは、何がどのように変化しても物質を構成している根源的な存在をクォーク(超ヒモでもかまいませんが)と呼ぶと、その質と量が変化するわけではないという程度の意味で、敢えて説明するほどでも無いと思いました。
根源的な存在の「質と量が変化するわけではない」というのは、本当に、「敢えて説明するほどでも無い」ほど、確かなものなのでしょうか。sクォークは、ラムダ粒子や中間子が崩壊するとき、dクォークに変化するのではありませんか。また、陽子の強い相互作用の中で、グルオンは、ひとつのクォークから他のクォークへ移動する途中で、一瞬、いずれかのクォーク(あるいは反クォーク)に変化し、他のクォークに吸収される前に、また、クォークからグルオンに戻るのではありませんか。

さらにまた、多くの現代物理学者が想定するように、もし、クォークが究極的な粒子であるとすると、それは形も体積ももたない点(だからこれ以上分割できない)ということになりますが、そうすると、クォークのもつ質量とは何かという大きな問題にぶつかるために、現在これらの学者達は、「ヒッグス場」なるものを予想して、質量とは物質の属性ではなく、ヒッグス場との相互作用によって生み出される現象であろう、というふうな研究をしているのではありませんか。

「わたしたちの知っている世界で唯一不変なものは、すべては変化しているという事実だけだ」、と言ったある科学者の言葉は、物質の究極的粒子と言われるクォークの世界にも当てはまると思われます。


(4)自己の本質

佐倉様のおっしゃる「自己の本質」をもう少し詳しく説明していただければ幸いです。
あまり詳しく話すものはありません。「自分とはなにか」というような、だれでも一度や二度は、おそらく自問してみる問題に対する自分なりの答えであって、そのような種類の問いに対するわたしの答えはどこから見ても不完全なものだからです。それでも、おりにふれて、そのことを考えさせられる機会がおとずれます。すでに紹介した、増谷文雄氏の文章との出会いもそのような機会の一つだったわけです。

わたしはそこで、自分というものを、自我(あるいは霊魂)と同一視する考えとは異なる考え方、すなわち無我(あるいは縁起関係)として捉える考えがあるのだということを知らされたわけです。そして、すでに、お話したように、そこでわたしは、自我の思想(死後におけるの自分の運命がどうなるかを心配する生き方)よりも、縁起の思想(死んで後に残していく人々へ配慮することのできる生き方)の方をよりすぐれた思想であると認めるようになったわけです。

わたし自身の理解するところでは、無我の捉え方というのは、「自分」というものを成立させている根拠を、内在している魂のようなものとしてではなく、さまざまな人やものとの関係として捉える考えです。これを一言で表現する日本語をさがすと、「おかげさま」というのが、まあ、いちばん近いのではないかと思います。自分は、単に生きているのではなく、先人の努力や家族や隣人や仲間達や自然のおかげで生かされている存在でもある、という自己理解です。これは、そのまま、死後の世界の問題に続くわけですが、そうすると、やはり、死後の世界というと、死後自分が残していく、子や孫、大げさに言えば、人類の運命に配慮することのできる生き方、あるいは、わたし自身に関していえば「借金を踏み倒して死んだりしたら迷惑をかけるなあ」というようなことです。それに比べて、自己を自我(あるいは霊魂)と同一視する立場をとると、たとえば、死後の世界というと、なによりもまず、死後における自分の運命に思いが行きます。

また、当然ですが、わたしの「心」というものの捉え方も自己を自我と同一視するときとは変わっていきました。たとえば、「性格について」という小論のなかで、精神分析学者の岸田秀は、次のように述べていますが、ここで語られている「性格」は、現在わたしの理解する「心」の捉え方と非常によくにています。

同じ人物が、Aという集団では意地悪くて、疑い深く、傲慢で、しみったれた人と見られており、Bという集団では底抜けのお人好しと見られているということがありうる。そのいずれかのがその人の真実の性格であり、他が偽りの仮面であるということはない。いずれも、それぞれの集団の人たちとの人間関係の中での真実である。・・・もう一つ例を挙げれば、「後家のふんばり」と言われるように、それまでに、夫に一方的にかわいがられ、自分の判断では何もできず、自分で努力して何かをしようとしたことのない無意志の人形のようであった妻が、夫に急死されて、残された子供を抱えてたくましく生き出したということがあるが、これも、夫に甘えて何もしないほうが楽なので、猫をかぶって何もできないふりをしていたのだが、夫が死んだため、そうもしていられなくなり、たくましさという彼女の本当の性格が表に現れてきた、と解すべきではない。無意志の人形のようであった彼女の性格は、彼女にとってもっとも重要であった夫との人間関係に規定されていたのであり、たくましい性格は、今や彼女にとってもっとも重要となった子供との関係に規定されていたのであって、そのいずれも彼女の真実である。

(岸田秀、『続ものぐさ精神分析』、中公文庫、260〜262頁)

心というものは、そのひとの中に実在している何ものかではなく、その人と他の人々とのあいだの人間関係がつくりだす何ものか、という捉え方は、すべては縁起(依存関係)によって生起しているのであって、それ自体に内在する永遠不変の実体によって存在しているのではない、という無我の考えと一致するものだと思います。


(5)価値の主体者

全てが無くなった時点(例えば数十億年後に地球が太陽の爆発に飲み込まれ、消滅した時)において、それらはどのような意味をもつのでしょうか?その時点においては、最初から存在しなかったのと同じことではないでしょうか?
あるものに価値(意味)があるとかないとかという場合、それを必要とするとか欲する価値の主体者(たとえば人間)がいて、はじめて言えることです。たとえば、ダイヤモンドの価値はそのダイヤモンドの中にあるのではなく、それを欲する人がいて初めて生まれるものです。それを欲する人が世界のどこにもいなければ、それは無価値(ゼロ価値)であり、邪魔者扱いされれば、それは反価値(マイナス価値)をもつことになります。しかし、価値の主体者そのもの(生物)が存在しなければ、それは無価値(ゼロ価値)にもなりません。そのときは、価値(意味)を云々すること自体がナンセンスです。価値の主体者があってはじめて意味を持つ、「どのような意味をもつのでしょうか」というような質問自体が、ナンセンスだと言えるでしょう。

ところで、自我論者と異なって、無我(縁起)論者は、自己の行く末ばかりを気にして、あの世があるかないかというような無意味な空想にふけったりすることなく、「数十億年後に地球が太陽の爆発に飲み込まれ、消滅」するかもしれない未来の子孫たちのために、彼らが、滅び行く太陽系をを去り、新地をもとめて宇宙に飛び出すことができるように、着実に知識と技術を積み重ねる地道な努力を続けることでしょう。(^^) P>