笠原 祥です。

ここでは、まず、自分自身の本質をどのように捉えるかという問題に対する二つの考えかた、すなわち、自分自身の本質は内在する永遠の魂であるというクリスチャンとしてのわたしの思想と、自分自身の本質は変滅する無常の人や自然との関係にあるとする仏教徒としての増谷氏の縁起の思想がぶつかっているわけです。ここで、わたしには前者の考え方(クリスチャンとしてのわたし自身の考え方)がとても貧弱な思想であるように思われてきたということです・・・

そして、それまでわたしが無理やり信じ込もうとしていた、嘘か本当かわからぬ死後の世界や超越的世界に関する宗教的ドグマ「永遠の魂」を想定しなければならないその動機そのものが、わたし自身も気づかないうちに、いつのまにかわたしの内側から自然消滅していった、というわけです・・・

佐倉様のお考えはよくわかりましたが、私の質問である「死して無に帰するならば、人生は無意味ではないか」という疑問に回答を与えたことになるのでしょうか?佐倉様は本当に納得されておられるのでしょうか?という点につきましては、今一つ釈然としません。そこで、私が「永遠の魂」とか「輪廻転生」を考えることが「愚かな考え」ではなく、むしろ合理的であると考えるようになった理由を述べてみたいと思います。


1.死して無に帰するならば、人生は無意味となる

もし、人間の命がこの世限りのものであるならば、人間の存在そのものが無意味だということになります。結局、最後には死んで何も無くなるのであれば、最初から存在しなかったのと同じです。非常にむなしく、空虚な考え方であり、人によっては退廃的な方向に向かい、自暴自棄になるかもしれません。また、この有限の物質世界が全てであれば、なるべく多くのお金や物を自分の手元に集め、面白おかしく暮らすことが最も価値のある生き方だと言われても否定できません。


2.性同一性障害の問題

この世には、染色体は完全に男性でも、心は完全に女性であるというような心と肉体の性が相反している人が存在します。 心が単に肉体(脳)の活動によって生み出されるのであれば、全く説明がつきません。性同一性障害は心は肉体とは別に存在すると考えた方が合理的な例の一つだと思います。


3.物理法則の階層性と相似性から

私は空をエネルギーと捉えており、一切衆生及び森羅万象はこのエネルギーの一形態で、精神活動もまたエネルギー活動(他に適当な表現が見つかりません)だと思っております。また、私達は様々な法則のもとに生かされていますが、この法則もまた、エネルギー活動(例えば基本的な4つの力等)の一つだと思います。この法則は極微の量子レベルから極大の宇宙レベルまで、階層性と相似性を有しており、例外は許されておりません。その法則の一つに循環の法則があります。天体の運行や地球の自転、そして食物連鎖や種族保存など、全ての存在しているものはこの法則の範疇に有り、永続性を保つためには必要不可欠な法則です。私はこのような法則が偶然発生したとは考えられず、何らかの意志が働いているという立場をとります。そして、水が空と地上の間を循環して生命を育むように、人間という存在もこの世だけに存在しているのではなく、この世と別の次元の間を転生輪廻という循環の法則にのって行き来しながら螺旋状に成長していくというのが、私にとって合理的な考え方となります。


4.エネルギー保存則から

この世は確かに無常であり、永遠なるものは何一つありません。しかし、それは表面的な現象であり、本質的な部分は変化しません。位置エネルギーが運動エネルギーに変化しても、エネルギー量が変化しないように、精神活動もエネルギーだとすると消滅して無くなることは考えられません。氷が溶けて水に変化し、やがて蒸発して見えなくなりますが、水が無くなったわけではなく、個体から液体、そして気体へと相が変化したにすぎず、水の本質である、H2Oに変化があるわけではありません。そう考えると、自分の本質も死によって消え去るわけではなく、水が水蒸気として空に浮いているように、どこかで存在していてもおかしくないような気がします。


5.この世界の不完全さから

この世は絶対的な法則に支配されておりますが、不完全な世界でもあります。上述の食物連鎖を考えても、何故生き物が別の生き物を食らわなければ、生存出来ないようなシステムになっているのでしょうか?それは、この世が物質という有限で無常なもので構成されている世界だからです。ですから、この世で永続性を確保する為には、生産と消費というサイクルが必要になり、食物連鎖に代わるシステムは成立しないことになります。

我々は、この弱肉強食の凄惨な姿を見て、喜びを感じるでしょうか?決してそんなことはありません。非常に悲しい、やりきれない気持ちにさせられます。もしこれが、必然的に決まっているものならば、決してそんな気持ちにはならないでしょう。当たり前の事として、平然としていられる筈です。我々がそのような気持ちになるのは、食物連鎖に頼らなくても永続性を確保出来る世界、つまり物質主体ではない世界を潜在意識のどこかで知っているからではないでしょうか?

以上の考察から、この世とは別の「実相の世界」が存在すると考える方が私にとっては自然なのです。


6.人間の平等性から

私は、基本的に人間は平等であると思っていますが、現実は違っております。容姿や能力の差は勿論のこと、生まれた環境、育った環境によって、人間は大きく変わります。インドで狼に育てられた少女は、結局人間には戻れませんでした。この少女と我々自身の境遇を考えた時、平等と言えるでしょうか。この少女は本当に人間としての生を、精一杯生きたのでしょうか?この少女はその境遇を自ら選んだのではありません。もし、人間としての生が一度きりであれば、これほど不公平なことは無いでしょう。また、そこまで極端でなくても、仕事もしない酒飲みの自堕落な親の元で育てられた子どもは、人間に対する考え方、人生に対する考え方が大きく異なってくることは、否めないでしょう。人間としての生が一度きりであれば、その子どもの責任は、一体どこにあるのでしょうか?私は、基本的に自分に対する全ての責任は自分にあるという立場です。つまり、自分が今このような環境に生まれてきたのも、このようなことで悩んでいるのも、全ては自分がその原因をつくり込んだと考えています。それをカルマとよんでおり、その背景にあるのが輪廻転生の考え方です。過去に数え切れない程の生の経験を積みあげて、集大成としての自分がここに存在し、今を生きていると思うのです。


7.人間の心の泥沼状態を考えると・・・

自分を見詰めて感じることですが、何故心はこのように泥沼化しているのでしょうか?人間が本当に白紙の状態で生まれてきて、その白いキャンバスに自分の色で自分の絵を描くのならば、人間の苦悩はもっと単純で対処しやすいものだと思うのです。理論的にはわかっていても、どうしてもそちらの方向に引きずられていってしまうことが多々あり、それをカルマと名づけているのだと思いますが、単純に今生だけで形成されたものだとは思えないのです。

自分の兄弟をみても、また自分の3人の子どもを見ても、同じ親から生まれ 同じ時代に同じような環境に育っても、一人一人が全く違うのです。勿論、30や40になれば経験の差により当然相違は発生しますが、まだ自我の発達していない、2〜3才からあまりに違いすぎるのです。2〜3才でそれだけの相違が発生することをどう納得すればよいのでしょうか?

私は、それを転生輪廻によるカルマの違いと理解しております。そうすれば兄弟を比較して、お前だけ何故こうなのだと理不尽な叱り方をすることもなくなります。


今回の笠原さんのご意見には、同意できないところが、沢山(ほとんど全部(^^))あります。いくつか取り上げて、それに対するわたしの意見を述べてみたいと思います。


(1)論理の飛躍

もし、人間の命がこの世限りのものであるならば、人間の存在そのものが無意味だということになります。最後には死んで何も無くなるのであれば、最初から存在しなかったのと同じです。
これは明らかに論理の飛躍だと思われます。「人間の命がこの世限りのものであるならば」、どうして、「人間の存在そのものが無意味だ」ということになるのか、また、「最後には死んで何も無くなる」ものは、どうして、「存在しなかったのと同じ」になってしまうのか、つまり、どのような手順で前者から後者が導出されたのか、その論理的手続がわたしにはまったく見えません。しかも、事実は、おっしゃっていることとは違っているように思えます。なぜなら、人でも、ものでも、その存在価値が認められるのは、その人なりものなりが、自分自身や他の人に、必要とされたり、望まれたりするときですが、そのことが成立するために、人やものが永遠でなければならないということはないからです。

桜の花が散ってしまうのなら、桜の花がなかったのと同じである(死んでしまうなら、初めから無かったことと同じ)、などとどうして言えるのでしょうか。散って死んでゆくはかない命だからこそ、桜の花は美しく、人に愛されるのではないでしょうか。使い捨ての紙コップやトイレットペーパーなど、一度の「命」しかなくても十分に価値があります。いや、それらの場合は、それが一度っきりの命である(投げ捨てできる)ことがその存在価値となっています。また、道なきところに道を開き、橋なきところに橋を架けた、今は亡き先人の努力は、いまでもわたしたちの生活を豊かにしてくれています。

非常にむなしく、空虚な考え方であり、人によっては退廃的な方向に向かい、自暴自棄になるかもしれません。
死ぬと告知されて後、人生のもっとも有意義な時をおくるひとが沢山います。短い命だからこそ、命が大切に思われ、一生懸命生きようとするからです。

むなしさは、生命の長さの問題ではなく、自分のことしか考えることのできない姿勢から生じるのだと思います。自己の本質を、他者との関わりの中に見るのではなく、自分自身の中に内在するもの(自分の皮膚の内側に囲まれている部分)と考えるかぎり、永遠に生きる霊魂のようなものを想定しないかぎり、死とは無以外のなにものでもなくなり、むなしく思われるのも、当然でしょう。

この有限の物質世界が全てであれば、なるべく多くのお金や物を自分の手元に集め、面白おかしく暮らすことが最も価値のある生き方だと言われても否定できません。
永遠に生きるから霊魂は「精神的」であり、有限だから肉体生活は「物質的」などというものでもないでしょう。むしろ、永遠の命への願望こそは「生きる長さ」、つまり量に興味を持つ考えであることから想像されるように、はなはだ物質的な欲求に基づいた考え方だと思われます。

実際、アートマン思想や輪廻思想の元であるバラモン教の経典を見ても、霊魂とあの世を信じるキリスト教の新約聖書や巷にあふれる新興宗教の文献を見ても、そこに記されているあの世の風景は、この世のそれをほとんどそのまま持ち込んでそれを理想化したものです。ヴェーダ文献によれば、最高天は「光明、緑陰、酒や美食、歌舞・音楽に恵まれた理想郷として表象されている」(中村元『ヴェーダの思想』349頁)と言われています。新約聖書によれば、救われる人が行く神の都とは、純金や碧玉、サファイア、エメラルド、赤縞めのう、赤めのう、カンラン石、緑柱石、黄玉、ひすい、青玉、紫水晶、で飾られている場所です(ヨハネの黙示録21章)。幸福の科学の出版物(雑誌『伝道』)に載っていた大川隆法総裁夫人のお話によれば、あの世では、欲しいものがあれば、それを心に思うだけでそれが目の前に現出するのだそうです。

あの世や霊魂の存在を信じない人々を物質主義的と批判する宗教家の語る、肉体を捨てたのち霊魂が住むあの世とは、まさに「ゴイズムの影を引きずった儘、来世や神について恣意的な空想をめぐらせ[たもの]」(田中裕さん)と言えるでしょう。「「死後の世界」というと、ただちに、死後における自分の運命や成りゆきのことしか思いを馳せぬ」、霊魂・あの世の思想はとても貧弱な思想に見える、というのがわたしの評価でもあります。(「ある仏教徒の『死後の世界』観」)

 
(2)事実認識と実存的要請

「永遠の魂」とか「輪廻転生」を考えることが「愚かな考え」ではなく、むしろ合理的であると考えるようになった理由を述べてみたいと思います・・・
上記では、「人間の命がこの世限りのものである」としても、必ずしも、「人間の存在そのものが無意味だということ」にはならないこと、また、「人間の存在そのものが無意味だ」と感じるのも、「人間の命がこの世限りのものである」と考えるからではなく、自分のことしか考えることのできない姿勢から生まれるのだ、というようなことを述べさせていただきました。

しかし、もっと根本的な誤謬は、「死後にも生き残る霊魂とかあの世などというものがあるのかどうか」という事実認識に関する問題に対して、「人間の存在意義」とか「むなしさ」などという実存的要請から、その判断を下しておられるところにあります。それは、明日の天気予報の判断を、客観的な気象条件だけから判断するのではなく、「明日雨が降っては自分の大事な休暇が台無しになってしまうから、明日は晴れでなければならない」という勝手都合で判断を下すようなものです。事実がどうであるかを、むなしく感じるかどうかで判断するのは、体温を測るのに体重計をもってするような根本的な誤謬です。

たとえ、「人間の命がこの世限りのものであるならば、人間の存在そのものが無意味だということにな[る]」としても、それで、霊魂やあの世が事実として存在するということにはまったくなりません。事実がどうであるかは、事実がどうであって欲しいかという人間側の勝手な実存的要請とは、まったく無縁だからです。事実判断に必要なのは、人間側の勝手な都合ではなく、客観的な認識手段(観察)です。体温を測るのに体重計が何の役にも立たないように、「死後にも生き残る霊魂とかあの世などというものがあるのかどうか」という事実認識に関する問題に対して、「人間の存在意義」とか「むなしさ」などという人間側の勝手な実存的要請は何の役にも立ちません。


(3)説明と知識

この世には、染色体は完全に男性でも、心は完全に女性であるというような心と肉体の性が相反している人が存在します。 心が単に肉体(脳)の活動によって生み出されるのであれば、全く説明がつきません。性同一性障害は心は肉体とは別に存在すると考えた方が合理的な例の一つだと思います。
わたしたちがよくわからない現象X(性同一性障害)を説明するために、それ(現象X)についてよりもわたしたちがもっと知らない(実は何も知らない)Y(霊魂)を持ってきて「説明」しても、知らない現象X(性同一性障害)についてのわたしたちの知識を何ひとつ増やすことにはなりません。無知によって「説明」された事柄は、まだ何も説明されていないからです。

人間の知っていることはわずかなことであって、わたしたちの知識によって説明できないことは無限にあります。大切なことは、知らないことは知らないと認め、知るための努力を続けることだと思います。一ミリの知識も増えていないのに、納得してしまうようなことがあるとすれば、もともとその結論をその人が信じたかった(そうであって欲しいという欲求が強かった)だけ、というつまらない事実を明らかにするだけです。

ブッダが「愚かである」と叱責したのは、まさに、そのこと(一ミリの知識も増えていないのに、納得してしまうこと)だと思います。なぜブッダは、おおくの宗教家と異なって、「信仰を捨てよ」と説いたのか、その理由もここにあると思います。


(4)疑似科学

私は空をエネルギーと捉えており、一切衆生及び森羅万象はこのエネルギーの一形態で、精神活動もまたエネルギー活動(他に適当な表現が見つかりません)だと思っております。・・・水が空と地上の間を循環して生命を育むように、人間という存在もこの世だけに存在しているのではなく、この世と別の次元の間を転生輪廻という循環の法則にのって行き来しながら螺旋状に成長していく・・・

この世は確かに無常であり、永遠なるものは何一つありません。しかし、それは表面的な現象であり、本質的な部分は変化しません。位置エネルギーが運動エネルギーに変化しても、エネルギー量が変化しないように、精神活動もエネルギーだとすると消滅して無くなることは考えられません。・・・自分の本質も死によって消え去るわけではなく、水が水蒸気として空に浮いているように、どこかで存在していてもおかしくないような気がします。

科学用語(「エネルギー」「法則」)を使っておられますが、ここに述べられているのは、もともと、知識でない(それについたはわたしたちは何も知らない)事柄(「転生輪廻」)を、単に科学用語らしきもの(「転生輪廻という循環の法則」)に置き換えておられるだけです。

[この世の]本質的な部分は変化しません」などというようなことが、一切の根拠を欠いたまま断言されたり、位置エネルギーや運動エネルギーの話から、突然、「精神活動エネルギー」という、それについてはまったくわたしたちは科学的知識をもたない、あやしげなところに飛んでいったりして、結局、それによって、何が結論されるのかと思えば、「自分の本質も死によって消え去るわけではなく、水が水蒸気として空に浮いているように、どこかで存在していてもおかしくない」というようなことです。

位置エネルギーや運動エネルギーに関するわたしたちの知識から、「転生輪廻という循環の法則」があるという主張までの間には、「精神活動エネルギー」という概念を導入するだけではとうてい埋め尽くされない途方もないギャップがあります。残念ながら、わたしたちは、ここに述べられている笠原さんのご意見から、エネルギーについも、また転生輪廻についても、新しい知識を一ミリも得ることはできません。わたしたちがここから知ることのできる唯一の事柄は、笠原さんは死後も生き残りたいという願望を持っておられるらしい、ということだけです。


(5)理想主義

我々は、この弱肉強食の凄惨な姿を見て、喜びを感じるでしょうか?決してそんなことはありません。・・・この世とは別の「実相の世界」が存在すると考える方が私にとっては自然なのです。・・・もし、人間としての生が一度きりであれば、これほど不公平なことは無いでしょう。・・・何故心はこのように泥沼化しているのでしょうか?・・・
笠原さんが使われている「合理的」という言葉の「理」とは、論理の「理」ではなく、理想の「理」です。つまり、「永遠の魂」とか「輪廻転生」の考えが笠原さんにとって「合理的である」とは、要するに、それらを想定したほうがより人間の理想に合致する、ということのようです。現実は悲惨である、不公平である、泥沼化している、こんなことがゆるされてよいのか。だからこの世は「仮の世」でなければならず、すべてが理想と合致する別の世界、「実相の世界」がなくてはならない。

しかし、理想とは、言葉を変えて言えば、人間の欲求以外の何ものでもありません。ここでも、事実に関する判断を、どうあって欲しいかという人間側の勝手な都合から判断を下すという、笠原さんの基本的な姿勢が現れています。すでに述べたように、事実がどうであるかは、どうであって欲しいかという人間側の要請とは無関係ですから、ここには根本的な誤謬があると言えます。