笠原 祥です。

佐倉様は、

いくらひたいに汗し、一生懸命働いても、人間存在が死を以て無と帰するならば、すべての努力はむなしいのではないか。わたしは、ながいあいだ、そのように思っていたのです。しかし、そのように思っていたのは、実は、わたしが自分自身のことしか考えていなかったからではないかと思います。単純な事実は、わたしが死んで塵と帰しても世界は依然として存在し続けるであろうということです。しかも、わたしが今日いかに生きるかということは、その世界と無関係ではあり得ないのです・・・
と書いておられます。私も、「死して無に帰するならば、人生は無意味ではないか?」という疑問に10歳の時か苦しめられました。

わたしが死んで塵と帰しても世界は依然として存在し続けるであろうということです。しかも、わたしが今日いかに生きるかということは、その世界と無関係ではあり得ないのです」という事実のみで、はたしてこの疑問に回答を与えたことになるのでしょうか?佐倉様は本当に納得されておられるのでしょうか?

確かに、自分の存在が他者に影響を与え、その他者がさらに別の他者に影響を与えるというかたちで存続していくかもしれません。また、自分の残した著作や芸術等が後の世に大きな影響を与えるもかもしれません。しかし、数十億年後に地球が滅び、全てが無に帰したら同じ事です。その時点で何もなくなってしまうのですから、遅いか早いかの違いだけであり、この命題に関しては時間というファクターは意味を持ちません。

また、「しかし、そのように思っていたのは、実は、わたしが自分自身のことしか考えていなかったからではないかと思います」と書かれておりますが、それは否定されるべき事ではないと思います。何故ならば、「自分のことしか」考えていなかったとしても、本当にきちんと自分自身のことが考えられれば、他者のこともきちんと考えられると思うのです。逆に、自分自身をないがしろにしていては、他者を大切に思うことなど出来ないと思います。

私も聖書を少しかじりましたが、イエスの言葉の中に「自分自身を愛する如く人を愛せ」というのがありました。私は、自分自身を愛するとはどういうことかを理解し、それを実践できてこそ本当に人を愛する事が出来るのだと解釈しております。自分を愛するとは、「わたしが死んで塵と帰しても世界は依然として存在し続けるであろうということです。しかも、わたしが今日いかに生きるかということは、その世界と無関係ではあり得ないのです」という事実のみで、自分を納得させることではないと思います。

自分を愛するとは、「わたしが死んで塵と帰しても世界は依然として存在し続けるであろうということです。しかも、わたしが今日いかに生きるかということは、その世界と無関係ではあり得ないのです」という事実のみで、自分を納得させることではないと思います。
もちろん、「「わたしが今日いかに生きるかということは、その世界と無関係ではあり得ない」という事実」が、それだけで単独にあるわけではないわけですから、その一つの事実のみが問題を一気に解決した、ということではもちろんありえません。たとえば、「死後に残され人々の世界と無関係ではない」という表現の背後には、実は、人間存在を縁起の思想で捉えなおしてみる、というようなこともあるわけです。そのあたりの事情に関してもう少し説明を加えたいと思います。

わたしが、増谷文雄氏のこの文章に出会ったのは、まだ、わたしがクリスチャンであったころです。わたしはじつに長い間クリスチャンでしたが、クリスチャンとして当然のごとく、死後の世界いうようなことも当然考えていたわけです。ところが、わたしの拙文でも述べていますように、増谷氏のこの文章に出会ったとき、

なにがわたしにとって衝撃的であったかというと、ここで氏が思いを馳せておられる「死後の世界」というものが、死後に氏が行く世界のことではなく、死後に氏があとに残して行くこの世界、つまり「人類の運命や世界の成りゆき」のことだ、ということです。わたしはうまれてはじめて仏教の「無我」という言葉の意味がわかるような思いがしました。同時に、「死後の世界」というと、ただちに、死後における自分の運命や成りゆきのことしか思いを馳せぬ思想が、とても貧弱なものであるように思うようになりました。
これはどういうことかと言いますと、ここにでは、まず、自分自身の本質をどのように捉えるかという問題に対する二つの考えかた、すなわち、自分自身の本質は内在する永遠の魂であるというクリスチャンとしてのわたしの思想と、自分自身の本質は変滅する無常の人や自然との関係にあるとする仏教徒としての増谷氏の縁起の思想がぶつかっているわけです。ここで、わたしには前者の考え方(クリスチャンとしてのわたし自身の考え方)がとても貧弱な思想であるように思われてきたということです。それは、来訪者の田中裕さんが述べられましたように、
ゴイズムの影を引きずった儘、来世や神について恣意的な空想をめぐらせる「宗教家」よりも、自分があとに残していく世界と、そこに住まう人々を配慮できる「俗人」のほうがずっと尊いと思いますね。
というようなことです。すくなくとも、死後の世界の問題に関して言えば、わたしは、自我の思想(死後におけるの自分の運命がどうなるかを心配する生き方)よりも、縁起の思想(死んで後に残していく人々へ配慮することのできる生き方)の方をよりすぐれた思想であると認めるようになったわけです。

この問題のもう一つの側面は、嘘か本当かわからぬ死後の世界や超越的世界に関するさまざまなキリスト教のドグマによって自分の人生の意味づけをしなければならなかった事態 --- 信仰者としてのわたしをもっとも苦しめていた事態 --- からわたしが解放されたということです。「永遠の魂」はわたしの知る力を越えた領域に関するドグマですが、わたしの生き方が死後に残していく人々の世界と無関係ではないということは、凡人のわたしにも簡単にわかることです。借金を踏み倒して死ねば、迷惑をかけるわけですから。

こうして、わたしは、自分は死後の世界や超越的世界に関しては本当は何も知らないくせにまるで知っているかのごとく確信しふるまわなければならないという、この地獄の苦しみから解放され、しかも、この解放感はあまりにも素晴らしいものなので、この解放感に比べると、信仰によって得られるという根拠のないいかなるバラ色の約束も、すべて色あせて見えるようになったのです。

そして、それまでわたしが無理やり信じ込もうとしていた、嘘か本当かわからぬ死後の世界や超越的世界に関する宗教的ドグマ「永遠の魂」を想定しなければならないその動機そのものが、わたし自身も気づかないうちに、いつのまにかわたしの内側から自然消滅していった、というわけです。


ところで、与謝野晶子の歌は、「自分の残した著作や芸術等が後の世に大きな影響を与える」などというものではなく、

与謝野晶子が歌っている「殿堂」というのは、死後日本文学史に自分の名前が残るだろうなどという意味ではなく、万葉集にはじまり王朝の和歌の伝統、蕪村の俳諧明治の短歌革新の歴史を一貫して流れている生命に自分も与っている喜びを歌ったものと思います。 その喜びは、過去形や未来形ではなく、常に現在形で語られるものと思います。
という、上記にあげた田中裕さんの解釈にまったく同意するものです。「自分の残した著作や芸術等が後の世に大きな影響を与える」などと言う考え方は、「永遠の命」の考え方と同類であって、自我を未来に拡大したものでしかないと思います。