丁寧な説明いつもありがとうございます。

中村 元氏はつぎのように述べています。

初期の仏教においては、けっして『アートマン(我)が存在しない』とは説いていない

『無我』とは、アートマンが存在しないというのではなく、我(が)でもないものを我(が)とみなしてはならないという考え方であり、『われという観念』『わがものという観念』を排除しようとしたものである。

中村氏は仏教が無霊魂説を説いたかどうかは否定も肯定もしてはいないと思いますが、ただ「無我」が執着を取るために説かれたと指摘し、「アートマン」を「霊魂」として使ったとは考えていません。

資料を根拠に論を進める限界を少し感じてきました。同じ資料を見ても次のように見解が分かれることを発見しました。

1.同じ資料を見てもまったく反対の結論が出ることがたびたびあること。 2.資料の信憑性を疑うこと。その時はやはり自分の都合の言い資料を提出し、都合の悪い資料は後代になって作られたもの、あるいは、混ざったものとして捉える。

1についてはマールンキャ・プッタの資料で正反対の見解が出ています。ヴッチャの資料は私には「有無の中道」を説いているとしか思えません。また、ブッダは「信仰を捨てよ」といったとありますが、この前後の文章を私は知らないのでコメントしづらいのですが、おそらく「外道の信仰を捨てよ」といっているのだと推測しています。

2については私も佐倉氏もまったく同じ立場です。仏典は広大無辺なので、それがいくらでも可能になります。 たとえば佐倉氏は転生輪廻を示す部分はすべて土着の宗教が混ざった結果と考えています。 逆に私は霊魂の存在や転生輪廻は当然の前提で上求菩提・下化衆生こそがブッダの説きたかったことと考えており、仏典はその記述で満ち満ちていると思っています。また、仏教の無霊魂説を唱え始めたのは後の時代の「説一切有部」でこれを否定し、宗教改革をしたのが龍樹だと考えています。

いろいろな仏教学者の見解を持ってきても手法は私たちと一緒なので、結論の出方も一緒です。要は、出発点において霊魂を認める立場か違う立場かです。

すなわち、白紙の立場で仏典を研究したからこれこれの結果が出たといっているわけではないようです。なぜなら今述べたように資料の使い方次第でどちらの結論も出るようですから。

さて、そうであるならば証明されていないことを信じていることにおいては私も佐倉氏も同じ立場です。私はブッダを信仰していますが、佐倉氏は無霊魂信仰といえるでしょう。

最後になりますが、私の霊魂存在の確信は霊的体験によるものです。これは、単に勘違いや、錯覚、その他の要素をすべて考慮し、排除しても説明し切れない部分が残るからです。これも私の話を信じるかどうかの信仰に似た部分が出てきます。

結局、人は自分自身ですべてを証明できないので、他の人の認識を信ずるかどうかです。教育はまさにその世界です。学問の発展がそうです。

しかし、大事なことは何を信じるかです。学問でも誰の説を信じるか、それを選択するのはやはり自分です。その選択眼の善し悪しは時間の流れの中で結果によって証明されてゆきます。アビダルマは無霊魂説を信じ、論理ゲームをしていて(失礼な言い方ですが)そこから一体どのような自分作りができたのでしょうか。私には疑問です。

目に見えない世界や自分で証明しきれない部分は、やはり信仰の世界で、心で信ずるしかないということが今回も私の結論です。


追伸です

佐倉氏は資料主義とのことですが、私から見ると一番資料を信じていないのが佐倉氏のように見えます。経典の霊界や霊魂のことについて話している部分をすべて切って捨てています。これは大きな矛盾だと思います。

後の世に、経典に土着信仰などの部分が入ってきたのはわかります。だからといって霊界や霊魂の部分はすべてきって捨てていいことにはなりません。これは論理の得意な佐倉氏ならすぐにおわかりのことと思います。

たとえばギリシャ神話の話にインドの神の名前が混ざっても聞くほうは違和感なく聞くことができます。しかしマルクス主義の話の中にインドの神々の活躍の話が入っていれば聞くほうはすぐに違和感を覚えるはずです。すなわち、どちらにしても土着の神々の話は入る可能性はありますが、仏教が霊界や霊魂の話で満ち満ちていたので土着の神々の名前が混ざりやすかったとも言えるのです。可能性としては両者あるでしょう。ですから、土着の神々の名前が出てきたからといって霊界や霊魂の部分をすべて切って捨てて言い理由にはなりません。やはり、最初から仏教無霊魂説信仰をしていないときって捨てることはできないでしょう。

私は当然最初から霊魂の存在を信じている立場で話しています。また、できるだけ佐倉氏の提供した資料をもとに論を進めてきたつもりです。

高橋俊彦

返事が大変遅くなりましたが、高橋さんの言われているところをもっとよく理解するために、しばらく、幸福の科学の勉強に時間を費やしておりました。すでに明らかなように、わたしの無我に関する理解と高橋さんの理解(幸福の科学の立場)との間にはかなり距離があるよう(正反対)だからです。なぜ幸福の科学の考えはわたしの理解するところと、こうも違うのか、わたしにはどうも納得できかねるので、少々踏み込んで調べてみることにしたのです。

高橋さんが論拠とされている、無我について書かれている大川隆法さんのいくつかの著書(『釈迦の本心』、『悟りの挑戦 上下』、幾冊かの「霊示集」や「霊言集」、など)を読むだけでなく、幸福の科学の支部を訪ね、支部長さんとも何回かお話を交わし、ほぼ、幸福の科学の「魂」についての教えを理解することができたと思っています。

それは、結局、わたしが最初に予想していた通りでした。簡単にまとめると、次のようになります。

(1)わたしが訪ねた支部には仏教の経典は一冊もなく、大川隆法さんの著書ばかりが本棚に並べてありました。支部長さんのお話によると、大川隆法さんのお話そのものが経典であり、幸福の科学の信者は、いわゆる伝統的な仏典はあまり読まない、ということでした。

(2)しかし、大川隆法さんご自身は、仏教の経典や仏教学者の著述を読んでおられるようで、その著作にはそのことがよくうかがえます。幸福の科学の信者の仏教理解は、それ故、大川隆法さんの著書や法話を通して、大川さんの仏教理解をそのまま仏教の教えであると考えておられるらしい。

(3)しかし、大川さんご自身の教えはもともと、高橋信次のGLA系の新興宗教であり、大川さんの「永遠の魂説」は、仏典ではなく、そこに根拠があります。さまざまな「霊示集」や「霊言集」にその考えが述べられています。

(4)仏教はもちろん無我を主張していますが、大川さんはそれを「有我(永遠の魂説)」と解釈せねばならず、その根拠を示す重大な場面では、いつも仏典から離れ、「霊示集」や「霊言集」に述べられているようなご自身の神秘的「体験」を根拠とされます。

現在これらをまとめていますので、「何を根拠に幸福の科学は永遠の魂説を主張するのか」というようなタイトルで近々公表することになると思います。(最初の予定とは変わりましたが、「ブッダと大川隆法」として発表することになりました。大川さんの思想が、ブッダの思想とは根本的に異なるものであることが分かると思います。)

同時に、また、わたしはわたし自身の無我説の根拠を仏教思想全体の中に位置づけ、簡単に一つにまとめてみました。「無我の思想」です。高橋さんだけでなく、他の多くの来訪者の方に比較かつ批評していただくためです。