あのー、私は佐倉さんの「死後の世界」に対する見解を知りたかったのですが・・ ・あえて「サムエル」に言及したのもサムエル記28章を思い出してもらおうと私な りにヒントを出したつもりっだったんですよ。それに 旧約聖書にはあちこちに「よ み」という表現が出てきますよね。例えばエゼキエル書(32・17〜32・32)など他多数。

佐倉さんは「死後の世界」について旧約聖書のみから引用されてますが、新約聖書 についてはどうですか?

旧約聖書には、ヤコブの妻ラケルが死のうとしていた時のことについて、「彼女が 死に臨み、その魂が離れ去ろうとするとき・・・・」(創世三五・一八)と記されて います。死と共に、魂は肉体から分離するという記述ではないでしょうか。

創世記三七・三五に、ヤコブは、自分の愛する息子ヨセフが死んだと聞かされたと き、「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子の所に下って行きたい」と述べて います。ソロモンも、「あなたが行こうとしているよみには・・・・」(伝道九・一 〇)、ユダの王ヒゼキヤも「私は生涯の半ばで、よみの門に入る」(イザ三八・一〇 )と言っています。ルカ福音書一六章の「ラザロと金持ち」の話にはアブラハムが出 てきます。

聖書には人間の死と死後について、それなりに書いてあると思いますが・・・

                 


(1)なぜ、旧約聖書の例だけをあげたか

もともと、

モーセやサムエルをはじめとする旧約の偉人達は今頃どこで、どうしていると思いますか?
という問いでしたので、旧約聖書(ユダヤ教聖典)における例だけを取り出したのですが、これは、わたし自身も、とても良いことだと思いました。

その理由は、先ず第一に、旧約聖書の死後観と新約聖書の死後観は、根本的に異なっているので、そのことをより明確にするために、旧約聖書の死と死後に関する記述を、新約聖書(クリスチャンの見解)なしに、それだけ独立に紹介するのが良いと思ったのです。とくに日本人の場合は、ユダヤ教信徒の人も数少なく、クリスチャンから見た旧約聖書の解釈ばかり目にするので、なおさらに大切なことだと思いました。

実は、旧約聖書の解釈に関しては、クリスチャンは一つの避けがたい欠陥を持っています。キリスト教信仰を持ってしまうと、旧約聖書と新約聖書の両方を同じ神の言葉として受け入れますので、旧約聖書(ユダヤ教聖典)が、新約聖書(キリスト教)の基本的な考え方と異なっている、というような解釈の可能性が始めから取り除かれる、という欠陥が生じてしまうのです。つまり、クリスチャンは、キリスト教で教わったことが、旧約聖書でもそうであろう、と考えてしまうのです。ところが、まさに、この「人間の死後」の問題こそ、旧約聖書と新約聖書の見解が大きく分かれる問題の一つなのです。

[O]ne of the main differences between Old Testament and New Testament usage is the application of both psyche and pneuma to human existence beyond death.

旧約聖書と新約聖書の重要な違いの一つは、「プシュケー(魂)」と「プネウマ(霊)」という二つの言葉が、人間の死後の生存に使用されているかどうかにあります。

(W.J.Cameron, "soul", The New Bible Dictionary, 1962, p.1209 佐倉訳)

よく知られているように、キリスト教では、一般的に言って、人間には肉体とは別に「魂」というものが独立して存在していて、死んだ後にも生き残って、天国とか地獄に行く、というようなことが信じられています。ところが、わたしが例にあげたように、旧約聖書の伝統的な考え方には、そのような考え方はありません。人は死によってその生が終わるのです。読者のなかで、興味のある方は旧約聖書を取り上げて、一気に全部読んでみて下さい。旧約聖書の登場人物もナレーターも、いかに「死後の世界」とか「永遠の命」などに興味を持っていないかがわかるでしょう。

つまり、キリスト教(新約聖書)は、死後観において、本来の聖書(旧約聖書)の伝統から大きく逸脱した宗教なのです。もし本当に、クリスチャンが考えているように、人間は死後も生き延びて、天国とか地獄に行くのだとしたら、そして、その教えは旧約聖書においても大変重要な神の教えであるとしたら、なぜ、旧約聖書にある無数の死の記述に置いて、そのことがまったく言及されていないのか。 わたしは、この大切な問いを提示するために、旧約聖書における人間の死と死後の記述の例をできるだけ沢山取り出すのが、たいへん良い考えであると思ったのです。

第二の理由は、「新約聖書」(キリスト教だけの教典)の例はどうなるのか、という問いが来ることも当然予期していたからです。つまり、インターネットの特色を生かして、「新約聖書」に関しては、次にしようと決め込んでいたのです。

以上、もともと「旧約の偉人達」について質問されたということ。そして、上記にあげたわたし自身の二つの理由によって、旧約聖書だけを考察の対象としました。


(2)サムエルについて

旧約聖書における人の死に関する記述は圧倒的な量です。わたしがあげた例はほんの一部ですが、けっして例外的なものではなく、どれもこれもみんな「死後の世界」なるものは無視しているのです。「魂のようなものが、死後生き残って他の世界に行く」などという考え方が旧約聖書の宗教の伝統にはないからです。

しかし、そうはいっても、旧約聖書は膨大な量の宗教文書です。したがって、探せば、死後も生き残る「魂」について書いている、と解釈しようと思えば解釈できなくもない表現を見つけることもできます。新約聖書を信じるクリスチャンならば、砂漠にオアシスを見つけたような気がするかもしれません。しかし、それはオアシスなのでしょうか。もしかしたら、幻影にすぎないかも知れません。そこで、それらの幾つかを詳しく調べてみることにしましょう。その中の一つがサムエル記上28章の記述です。

サムエル記上28章の記述は、すでに死んでいるはずのサムエルと会話をする物語が述べられています。これは、旧約聖書において死人が会話をする唯一の物語です。死んだはずのサムエルが会話をするのだから、サムエルは死後も生きているに違いない、そう結論できそうです。しかし、その他のすべての旧約聖書の膨大な量の死人に関する記述には、そのようなことはまったくないのですから、これは、詳しく調べてみる必要があります。

旧約聖書にあまり詳しくない読者のために、簡単に、物語の説明をしておきます。物語全体が分からなければ、サムエル記のこの問題部分もよく分からないからです。サムエルというのは、古代イスラエルの王政の始まりに深く関わったカリスマ的宗教指導者(預言者)です。サムエルは、サウルという人物を、宗教的儀式を通して、イスラエルの最初の王として任命します(10章)。しかし、やがて、サウルはサムエルの支持(神の好意)を失います(15章)。そして、サムエルはサウルの代わりに、秘かにサウルの部下であったダビデを王として任命します(16章)。そこで、イスラエルはサウルを支持する者たちとダビデを支持する者たちとに分かれて、争いが生じます(18章以降)。そのような状態の中で、宗教指導者サムエルは死にます(25章)。そして、やがてイスラエルの宿敵ペリシテ人との戦いが始まると、サウルは必死に神の助けを乞いますが、神は現れてくれません(28章)。神はサウルを離れダビデとともにいたからです。死んだはずのサムエルが会話をするという、問題の記述はこのような背景で起こるのです。

サウルはすでに国内から口寄せや魔術師を追放していた。 ペリシテ人は集結し、シュネムに来て陣を敷いた。サウルはイスラエルの全軍を集めてギルボアに陣を敷いた。サウルはペリシテの陣営を見て恐れ、その心はひどくおののいていた。サウルは主(ヤーヴェ)に託宣を求めたが、主(ヤーヴェ)は夢によっても、ウリムによっても、預言者によってもお応えにならなかった。サウルは家臣に命令した。「口寄せのできる女を捜してくれ。その女のところに行って尋ねよう。」家臣は答えた。「エン・ドルに口寄せのできる女がいます。」サウルは変装し、衣を替え、夜、二人の兵を連れて女のもとに現れた。サウルは頼んだ。「口寄せの術で占ってほしい。あなたに告げる人を呼び起こしてくれ。」女は言った。「サウルのしたことをご存じでしょう。サウルは口寄せと魔術師をこの地から断ちました。なぜ、わたしの命を罠にかけ、わたあしを殺そうとするのですか。」サウルは主(ヤーヴェ)にかけて女に誓った。「主(ヤーヴェ)は生きておられる。この事であなたが咎を負うことは決してない。」女は尋ねた。「誰を呼び起こしましょうか。」「サムエルを呼び起こしてもらいたい」と彼は頼んだ。その女はサムエルを見ると、大声で叫び、サウルに言った。「なぜわたしを欺いたのですか。あなたはサウルさまではありませんか。」王は言った。「恐れることはない。それより何を見たのだ。」女はサウルに言った。「神のようなものが地から上ってくるのが見えます。」サウルはその女に言った「どんな姿だ。」女は言った。「老人が上ってきます。上着をまとっています。」サウルにはそれがサムエルだと分かったので、顔を地に伏せ、礼をした。サムエルはサウルに言った。「なぜわたしを呼び起こし、わたしを煩わすのか。」サウルは言った。「困り果てているのです。ペリシテ人が戦いを仕掛けているのに、神はわたしを離れ去り、もはや預言者によっても、夢によってもお答えになりません。あなたをお呼びしたのは、なすべき事を教えていただくためです。」サムエルは言った。「なぜわたしに尋ねるのか。主があなたを離れ去り、敵となられたのだ。主はわたしを通して告げられたことを実行される。あなたの手から、王国を引き裂き、あなたの隣人、ダビデにお与えになる。あなたは主の声を聞かず、アマレク人に対する主の憤りの業を遂行しなかったので、主はこの日、あなたに対してこのようにされるのだ。主はあなたのみならず、イスラエルをもペリシテ人の手に渡される。明日、あなたとあなたの子らはわたしと共にいるであろう。主はイスラエルの軍隊をペリシテ人の手に渡される。」サウルはたちまち地面に倒れ伏してしまった。サムエルの言葉におびえたからである。(28:4-20)
この引用で明らかなように、死んだはずのサムエルが出てくるのは、実は、口寄せを通してです。「恐れることはない。それより何を見たのだ。」と、サウルが口寄せの女に尋ねているように、死んだはずのサムエルが客観的な対象として現れたのではなく、サウルは、ただ、口寄せの女のイマジネーション中の「サムエル」と「出会った」のにすぎません。

ところが、旧約聖書の宗教は(ユダヤ教もキリスト教も)、最初の律法ができたときから、口寄せを固く禁止しているのです。上記の引用の中で、女がサウル王が口寄せや魔術師をイスラエルの地から追放した、と言っているのは、イスラエルの宗教にとって、もともと、口寄せ霊媒は神の律法に逆らうものだからです。

あなたが、あなたの神、主(ヤーヴェ)の与えられる土地に入ったならば、その国々のいとうべき習慣を見習ってはならない。あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせるもの、占い師、卜者、易者、呪文を唱えるもの、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。これらのことを行う者をすべて、主(ヤーヴェ)はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主(ヤーヴェ)は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。(申命記 18:9-12)
つまり、神自身が口寄せを認めれば、神自身がその律法を破ることになりますから、サウル記28章で神が口寄せの信頼性をあたかも認めているように解釈することには困難があります。むしろ、ここでは、神に見放されたサウルが、どんなに神を求めても神が答えてくれないので、神の律法に背くことを自分でも知りながら、かつて追放した口寄せのところへ、隠れてこっそりとアドバイスをもとめに行かざるを得ない状況に追い込まれるという、絶望的なアイロニーが語られている、と解釈すべきでしょう。だから、サウルが口寄せや魔術師を追放したことを物語の始めに記述しているのです。そうすることによって、このアイロニーがきわだち、神が離れてしまったサウルの救いのなさが浮き彫りにされるからです。したがって、この物語から、旧約聖書が、サムエルがどこか別の世界で霊魂として生きている、と結論するのは少々早計であることが分かります。

この物語りの著者は、さらに、口寄せのイマジネーションの中の「サムエル」にさえ、いかにサウルが神から見放されて絶望的状況にいるかを

明日、あなたとあなたの子らはわたしと共にいるであろう。
という表現で語らせていますが、ここでも、「サムエルのような神の人の魂は天国に、サウルのような神への反逆者の魂は地獄に」などという、キリスト教的考え方が、旧約聖書の考え方にとって無縁であることがはっきりわかります。この物語の著者はあきらかにサムエルの居場所を、明日サウルとその子たちが行くところ、すなわち単なる「死そのもの」と考えています。(旧約聖書の死の記述としてよく使われる「先祖の列に加えられる」という表現を思い出して下さい。)旧約聖書において、死後の世界はサムエルにとってもサウルにとっても同じなのです。「塵にすぎない」人間が、命がなくなれば、「塵に返る」(創世記3章19節)というだけなのです。それは、彼らが、永遠に生きる神々ではなく、人間であるという旧約聖書の人間観(創世記3章22節)に基づくものです。


(4)陰府(シェオル)について

サムエルのような神の人も、サウルのような神に反逆した人も、死後は同じところ(死そのもの)にゆくという考え方は、旧約聖書の人間の死に関する考え方のきわだった特徴です。旧約聖書は、人間が死ぬという事態を、しばしば「陰府(よみ)に下ってゆく」という表現をしていますが、どんな人が陰府に下ってゆくかを調べれば、この旧約聖書の特徴が明らかになります。

息子ヨセフが死んだと思って、父ヤコブは次のように嘆きます。

「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府に下ってゆこう。」(創世記37章34節)
ここでは、ヤコブが自分や息子ヨセフの死のことを「陰府に下ってゆく」と表現しています。ヤコブやヨセフは神に仕えた旧約聖書の偉人たちです。次に、神に反逆した人を調べてみましょう。モーセの指導に反逆したコラとその仲間たちの死です。
モーセは言った。「主がわたしを遣わして、これらすべてのことをさせられたので、わたしが自分勝手にしたのではない。それは次のことでわかるであろう。もしこの者たち(コラ、ダタン、アビラムとその仲間)が人の普通の死に方で死に、人の普通の運命に会うならば、主がわたしを遣わされたのではない。だが、もし主が新しいことを創始されて、大地が口を開き、彼らと彼らに属する者すべてを呑み込み、彼らが生きたまま陰府に落ちるならば、この者たちが主をないがしろにしたことをあなたたちは知るであろう。」こう語り終えるや否や、彼らの足下の大地が裂けた。地は口を開き、彼らとコラの仲間たち、その持ち物一切を、家もろとも呑み込んだ。彼らと彼らに属する者はすべて、生きたまま、陰府へ落ち、地がそれを覆った。彼らはこうして、会衆の間から滅び去った。(民数記16章28節以降)
このように、神に反逆する者も「陰府に落ちてゆく」のです。このように、神の人も神に反逆する人もゆくという陰府は、キリスト教の天国・地獄の世界とまったく異なるものです。このために、幾つかのクリスチャン学者による旧約聖書翻訳は、とても奇妙な結果を生んでいます。たとえば、有名なキング・ジェームス訳では、陰府をあらわすシェオルを、神に反逆する人がゆく場合には「hell(地獄)」、神の人がゆく場合は「grave(墓場)」と訳し分けています。恐るべき信仰です。

それでは、陰府とはいったいどんな所なのでしょうか。まず、「陰府に下ってゆく」(創世記37章、ヨブ7章、イザヤ57章)とか、「陰府へ落ち」(民数記16章)とか、「陰府に下し」(サムエル上2章)とか、「高い天」とは逆の方向にある(イザヤ7章)とか、「穴に下る」「地の底の穴」「影に閉ざされた所」「暗闇の地」(詩編88編)というような表現から、陰府とは下の方(地下)にあると考えられていることが分かります。そういえば、サムエル記28章の口寄せの女の「サムエル」も、「上って」きたのでした。

さらに、死んだ人がゆく場所としてではなく、死そのものと同一視される表現も沢山あります。たとえば、「陰府の縄がめぐり、死の網が仕掛けれている」(サムエル下22章、詩編18編、)とか、「死と契約を結び、陰府と協定している」(イザヤ28章)とか、「死の綱がわたしにからみつき、陰府の脅威にさらされ」(詩編116編)とか、「命ある人間で、死を見ないものがあるでしょうか。陰府の手から魂を救い出せるものがあるでしょうか」(詩編89編)というような表現は、陰府が、死者のゆく場所としてではなく、死そのものと同一視されている例です。

さらにまた、人が一度陰府に下ったら、「もう、上ってくることはない」(ヨブ7章9節)とか、「死霊が起きあがって、あなたに感謝することがあるでしょうか。」(詩編88編)とか、「いつかは行かなければならないあの陰府には、仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ」(伝道の書9章)などとも表現されています。

次の例は、死を間近に感じる信者が神の助けを求める必死の祈りの一部ですが、ここでは、「陰府にゆく者」が、「穴に下る者」「力を失った者」「汚れた者」「死人のうちに放たれて」「墓に横たわる者」と同一視されています。

わたしの魂は苦難を味わい尽くし
命は陰府にのぞんでいます。
穴に下る者のうちに数えられ
力を失った者とされ
汚れた者と見なされ
死人のうちに放たれて
墓に横たわる者となりました。
(詩編88編)
つまり、「陰府に下る」とは「墓に横たわる」ことを意味しているのです。以上の沢山の事実から、陰府とは、実は、死という事実そのもの、あるいは、死体を収める場所(墓場)、死体が塵に返る所(土の中)などの象徴的な表現である、と解釈するのが一番自然であると分かります。したがって、旧約聖書における陰府の概念は、人間は死ねば「塵に返る」(創世記3章19節)という、旧約聖書の根本的人間観に矛盾するものではありません。


(5)魂(ネフェシュ)について

シェオルには、それにうまく対応する日本語「陰府」(黄泉)があります(古事記や日本書紀の記述によると、そこは暗い地下の世界で、死んて行った人の体にウジがわいている所です)が、残念ながら、ネフェシュという言葉には、それにうまく対応する日本語がありません。日本語の「魂」は、死後、体から離れて、あの世に行ったり、成仏できないで、そのへんをうろちょろしたりするようなものですが、ネフェシュはそんなものではないからです。

たとえば、ネフェシュは次のように、使われています。創造の第5日目の記述です。

神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」(創世記1章20節)
これを原語から語順を替えずに直訳(ミルトス・ヘブライ文化研究所による)すれば、
そして言った 神が 群がらせよ 水は 群がるものを 魂を(ネフェシュ) 生きている また鳥が 飛ぶように の上に 地 の上に 表面 大空の 天の
となりますが、もう少しわかりやすく語順を替えてやると、
そして神が言った 水は 魂(ネフェシュ)が生きている 群がるものを 群がらせよ また鳥が 地の上 天の大空の表面の上を 飛ぶように と     
となります。「ネフェシュ(魂)が生きているもの」とは、まさに、日本語では「生き物」のことですが、日本語の「魂」がうまく対応していないことは明らかでしょう。聖書におけるネフェシュとは、このように、魚や鳥を含むすべての動物の持つ生命力のことを指すのですが、日本語の「魂」には、もっと別な意味が込められているからです。

もう一つ例をあげてみましょう。

主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。ひとはこうして生きる者となった。(創世記2章7節)
このなかの、「ひとはこうして生きる者となった」という部分は、直訳では「すると ひとは 魂(ネフェシュ)に 生ける(もの)となった」となります。生命力のある者となったという意味です。

したがって、日本語訳や英訳が、ネフェシュという言葉の訳に、「魂」とか「soul」を使用するとき、わたしたちは、気をつけなければなりません。Kikuchiさんは、

旧約聖書には、ヤコブの妻ラケルが死のうとしていた時のことについて、「彼女が 死に臨み、その魂が離れ去ろうとするとき・・・・」(創世三五・一八)と記されて います。死と共に、魂は肉体から分離するという記述ではないでしょうか。
といわれていますが、たとえば、新共同訳(1992年)によれば、そこは次のように翻訳されています。
ラケルが最後の息を引き取ろうとするとき……(創世記35章18節)
となっています。新共同訳がネフェシュの原語の意味(生命力)を踏まえて訳しているのにくらべて、Kikuchiさんの引用された翻訳(改訳版)は、明らかに、日本語の「魂」ということばの持つ特殊な意味と、ネフェシュという原語の意味の違いに注意を払わない、きわめて、誤解を招きやすい、ずぼらな翻訳と言わねばなりません。

一般に、キリスト教の教理によれば、虫や魚や鳥や家畜などの動物は魂を持たないのです。しかし、すでに見たように、ネフェシュ、つまり、ラケルから離れ去ろうとしたネフェシュなるものは、魚や鳥や家畜や地を這う虫など、生き物すべてが持っているもの、つまり神が与えた生命力です。彼女からネフェシュが離れるとは、彼女から生命力が離れる、即ち、生命力が尽きる、ということを意味しています。それは、もともと神が息を吹き込むことによって生命力を持つようになった人間の生命力が尽きて、息が絶えることなのです。

旧約聖書の伝統から逸脱して、キリスト教がいかにして、魂説を受け入れるようになったかという問題は、おおきな問題で、簡単に語り尽くせないものがありますが、西暦前2世紀以降ユダヤ人の間で急速に流行した、黙示文学・終末思想運動、またそれらが生みだした復活思想がその下地を作ったのであろうことは、だいたい予想がつきます。また、キリスト教が、当初から、それが生まれたパレスチナではなく、ギリシャ・ローマのヘレニズム文化圏のなかで、育っていった歴史的事実も無視できません。つまり当時ユダヤ人の間で流行していた復活思想と、人間を「肉体と精神」からできているものと見るヘレニズムの二元論的人間観の考え方に影響をうけて、キリスト教的人間観が生まれたのではないかと、わたしは考えています。