佐倉哲エッセイ集

聖書における「死後の世界」

--- 人間は死んだらどうなるか ---

佐倉 哲


「人は死んだ後どうなると思いますか?無に帰るのでしょうか?モーセやサムエルを はじめとする旧約の偉人達は今頃どこで、どうしていると思いますか?また神を知ら ずに死んでいった世界中の多くの人達の場合はどうでしょうか?そして現在生きてい る我々は死ぬとどうなると思いますか?」

というお便りを AK さんよりいただきました。人間は死んだらどうなるのでしょうか。聖書の「死後の世界」について考察します。

1997年11月11日


AKさんへ


おたより、ありがとうございます。わたしの考えよりも、むしろ、聖書は人間の死と死後についてどのように記述しているか、それをまず調べてみましょう。


(1)アダムの死と「死後のアダム」

アダムは、セトが生まれた後八百年生きて、息子や娘をもうけた。アダムは九百三十年生き、そして死んだ。 (創世記 5:4-6)
アダムの死についての記述はこれだけです。そして、「死後のアダム」などについては、聖書は何も語りません。


(2)ノアの死と「死後のノア」

ノアは、洪水の後三百五十年生た。ノアはは九百五十歳になって、死んだ。 (創世記 9:28-29)
ノアの死についての記述はこれだけです。そして、「死後のノア」などについては、聖書は何も語りません。


(3)アブラハムの死と「死後のアブラハム」

アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子イサクとイシュマエルは、マクベラの洞穴に彼を葬った。その洞穴はマムレの町の、ヘト人ツオハルの子エフロンの畑の中にあったが、その畑は、アブラハムがヘトの人々から買い取ったものである。そこに、アブラハムは妻サラと共に葬られた。アブラハムが死んだ後、神は息子のイサクを祝福された。 (創世記 25:7-11)
アブラハムの死についての記述はこれだけです。そして、「死後のアブラハム」などについては、聖書は何も語りません。


(4)イサクの死と「死後のイサク」

イサクの生涯は百八十年であった。イサクは息を引き取り、高齢のうちに満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子のエサウとヤコブが彼を葬った。 (創世記 35:28-29)
イサクの死についての記述はこれだけです。そして、「死後のイサク」などについては、聖書は何も語りません。


(5)ヤコブの死と「死後のヤコブ」

ヤコブは、エジプトの国で十七年生きた。ヤコブの生涯は百四十七年であった。イスラエル(ヤコブ)は死ぬ日が近づいたとき、息子ヨセフを呼び寄せて言った。 「もし、お前がわたしの願いを聞いてくれるなら、お前の手をわたしの腿の間に入れ、わたしのために慈しみとまことをもって実行すると、誓ってほしい。どうか、わたしをこのエジプトには葬らないでくれ。わたしが先祖たちと共に眠りについたなら、わたしをエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってほしい。」 ヨセフが、「必ず、おっしゃるとおりにいたします」と答えると、「では、誓ってくれ」と入ったので、ヨセフは誓った。イスラエル(ヤコブ)は寝台の枕元で感謝をあらわした。 (中略)
ヤコブは息子たちに命じた。「間もなくわたしは、先祖の列に加えられる。わたしをヘト人エフロンの畑にある洞穴に、先祖たちと共に葬ってほしい。それはカナン地方のマムレの前のマクベラの畑にある洞穴で、アブラハムがヘト人エフロンから買い取り、墓地として所有するようになった。そこに、アブラハムと妻サラが葬られている。そこに、わたしもレアを葬った。あの畑とあそこにある洞穴は、ヘト人から買い取ったものだ。」ヤコブは、息子たちに命じ終えると、寝床の上に足をそろえ、息を引き取り、先祖の列に加えられた。ヨセフは父の顔に伏せて泣き、口づけした。ヨセフは自分の侍医たちに、父のなきがらに薬を塗り、防腐処置をするように命じたので、医者はイスラエル(ヤコブ)にその処置をした。 (中略)
それから、ヤコブの息子たちは父に命じられたとおりに行った。すなわち、ヤコブの息子たちは、父のなきがらをカナンの土地に運び、マクベラの畑の洞穴に葬った。それは、アブラハムがマムレの前にある畑とともにヘト人エフロンから買い取り、墓地として所有するようになったものである。ヨセフは父を葬った後、兄弟たちをはじめ、父を葬るために一緒にのぼってきたすべての人々と共にエジプトに帰った。 (創世記 47:28-50:14)
大変長いので、ヤコブが死ぬ直前に息子たちの将来について予言した部分と、ヤコブのなきがらをエジプトからカナンの墓地に運ぶ道程に関する記述は省略しましたが、ヤコブの死についての記述はこの部分だけです。ここでもまた、「死後のヤコブ」については、そのなきがらをどうしたかということ以外、聖書は何も語りません。


(6)ヨセフの死と「死後のヨセフ」

ヨセフは父の家族と共にエジプトに住み、百十歳まで生き、エフライムの三代の子孫を見ることができた。マナセの息子マキルの子供たちも生まれると、ヨセフの膝に抱かれた。ヨセフは兄弟たちに言った。「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みて下さり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上って下さいます。」それから、ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。「神は必ずあなたたちを顧みて下さいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上って下さい。」ヨセフはこうして、百十歳で死んだ。人々はエジプトで彼のなきがらに薬を塗り、防腐処置をして、ひつぎに収めた。 (創世記 50:22-26)

モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが、「神はかならずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここから一緒に携えて上るように」と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである。 (出エジプト 13:19)

イスラエルの人々がエジプトから携えてきたヨセフの骨は、その昔、ヤコブが百ケシタで、シケムの父ハモルの息子たちから買い取ったシケムの野の一画に埋葬された。それは、ヨセフの子孫の嗣業の土地となった。 (ヨシュア記 24:32)

ヨセフの死についての記述はこれだけです。そして、「死後のヨセフ」などについては、その骨をどうしたかということ以外、聖書は何も語りません。


(7)アロンの死と「死後のアロン」

イスラエルの人々、その共同体全体はカデシュを旅立って、ホル山に着いた。ホル山はエドム領との国境にあり、ここで主(ヤーヴェ)はモーセとアロンに言われた。「アロンは先祖の列に加えられる。わたしがイスラエルの人々に与える土地に、彼は入ることができない。あなたたちがメリバの水のことでわたしの命令に逆らったからだ。アロンとその子エルアザルを連れてホル山に登り、アロンの衣を脱がせ、その子エルアザルに着せなさい。アロンはそこで死に、先祖の列に加えられる。」モーセは主(ヤーヴェ)が命じられたとおりにした。彼らは、共同体全体の見守る中をホル山に登った。モーセはアロンの衣を脱がせ、その子エルアザルに着せた。アロンはその山の上で死んだ。モーセとエルアザルが山を下ると、共同体全体はアロンが息を引き取ったのを知り、イスラエルの全家は三十日の間、アロンを悼んで泣いた。 (民数記 20:22-29)
アロンの死についての記述はこれだけです。そして、「死後のアロン」などについては、聖書は何も語りません。


(8)モーセの死と「死後のモーセ」

主(ヤーヴェ)の僕モーセは、主(ヤーヴェ)の命令によってモアブの地で死んだ。主は、モーセをベト・ベオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない。モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力も失せてはいなかった。イスラエルの人々はモアブの平野で三十日の間、モーセを悼んで泣き、モーセのために喪に服して、その期間は終わった。 (申命記 34:5-8)
モーセの死についての記述はこれだけです。そして、「死後のモーセ」などについては、彼の死体がどのへんに葬むられたかということ、まただれもその正確な場所を知らないということ以外、聖書は何も語りません。

以上、アダムからモーセにいたるまで、聖書の重要人物の死と死後に関する聖書自身の記述を取り上げてみました。 それでは、こんどは、神(ヤーヴェ)を信ぜず、神に反逆した人たちの死と彼らの死後に関する聖書の記述を調べてみましょう。不信仰者に関しての物語は、列王記下に沢山でてくるので、この書が便利です。


(9)ヨアハズの死と「死後のヨアハズ」

ユダの王、アハズヤの子ヨアシュの治世第二十三年に、イエフの子ヨアハズがサマリヤでイスラエルの王となり、十七年間王位にあった。彼は主(ヤーヴェ)の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪に従って歩み、それを離れなかった。(列王記 13:1-2)

ヨアハズは先祖と共に眠りにつき、サマリヤに葬られた。その子ヨアシュがヨアハズにかわって王となった。 (列王記 13:9)

罪深きヨアハズの死についての記述はたったこれだけです。そして、「死後のヨアハズ」などについては、彼がサマリヤに埋葬されたということ以外、聖書は何も語りません。


(10)ヨアシュの死と「死後のヨアシュ」

ユダの王ヨアシュの治世第三十七年に、ヨアハズの子ヨアシュがサマリヤでイスラエルの王となり、十六年間王位にあった。彼は主(ヤーヴェ)の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪をまったく離れず、それに従って歩み続けた。(列王記 13:1-2)

ヨアシュは先祖と共に眠りにつき、ヤロブアムがその王座についた。ヨアシュはイスラエルの王たちと共にサマリヤに葬られた。 (列王記 13:9)

罪深きヨアシュの死についての記述はたったこれだけです。そして、「死後のヨアシュ」などについては、彼が埋葬されたということ以外、聖書は何も語りません。


(11)ヤロブアム二世の死と「死後のヤロブアム二世」

ユダの王ヨアシュの子アマツヤの治世第十五年に、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムがサマリヤで王となり、四十一年間王位にあった。彼は主(ヤーヴェ)の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪をまったく離れなかった。(列王記 14:23-24)

ヤロブアムは先祖と共に、イスラエルの王たちと共に眠りにつき、その子ゼカリヤがヤロブアムに代わって王となった。 (列王記 14:29)

罪深きヤロブアム二世の死についての記述はたったこれだけです。そして、「死後のヤロブアム二世」などについては、聖書は何も語りません。


今度は、少し、歴代誌から、神に背いた人物の死とその「死後」について引用してみましょう。


(12)アハズの死と「死後のアハズ」

アハズは二十歳で王となり、十六年間エルサレムで王位にあった。彼は父祖ダビデと異なり、主(ヤーヴェ)の目にかなう正しいことを行わなかった。彼はイスラエルの王たちの道を歩み、その上バアルの神々のために像を鋳て造った。主(ヤーヴェ)がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国民の民の忌むべき慣習に倣って、ベン・ヒノムの谷で香をたき、自分の子らに火の中を通らせた……。アハズ王は援助を求めてアッシリアの王に使者を送った。再びエドム人が攻めてきてユダを撃ち、住民を捕虜にした。ペリシテ人もシェフェラの町々とユダ領のネゲブに襲いかかり、ベト・シェメシュ、アヤロン、ゲデロト、ソコとその周辺の村落を占領し、そこに住んだ。このように主は、イスラエルの王アハズのゆえにユダを辱められた。彼がユダを堕落させ、主に甚だしく背いたからである。…このアハズ王は、災難の中でも、なお主に背いた…。アハズは神殿の祭具を集めて粉々に砕き、主(ヤーヴェ)の神殿の扉を閉じる一方、エルサレムのあらゆる街角に祭壇を築いた。またユダの町という町には何処にも聖なる高台を造って、他の神々に香をたき、先祖の神、主(ヤーヴェ)の怒りを招いた。(歴代誌下 28:1-25)

アハズは先祖と共に眠りにつき、エルサレムの都に葬られた。しかし、その遺体はイスラエルの王の墓には入れられなかった。(歴代誌下 28:27)

たいへん罪深きアハズの死についての記述もたったこれだけです。そして、「死後のアハズ」などについては、やはり、その遺体の埋葬に関するもの以外、聖書は何も語りません。


(13)マナセの死と「死後のマナセ」

マナセは十二歳で王となり、五十五年間エルサレムで王位にあった。彼は主(ヤーヴェ)がイスラエルの人の前から追い払われた諸国民の民の忌むべき慣習に倣って、主(ヤーヴェ)の目に悪とされることを行った。彼は父ヒゼキヤが取り壊した聖なる高台を再建し、バアルの祭壇を築き、アシェラ像を造った。更に彼は天の万象の前にひれ伏し、これに仕えた。主はかつて、「エルサレムにわたしの名をとこしえにとどめる」と言われが、その主の神殿の中に彼は異教の祭壇を築いた…。彼はベン・ヒノムの谷で自分の子らに火の中を通らせ、占いやまじないを行い、魔術や口寄せ、霊媒を用いるなど、主の目に悪とされることを数々行って主の怒りを招いた…。マナセはユダとイスラエルの住民を惑わし、主がイスラエルの人々の前で滅ぼされた諸国民の民よりも更に悪いことを行わせた。主はマナセとその民に語られたが、彼らはそれに耳を貸さなかった。 (歴代誌下 33:1-10)

彼(マナセ)は先祖と共に眠りにつき、自分の王宮に葬られた。その子アモンがマナセに代わって王となった。(歴代誌下 33:20)

たいへん罪深きマナセの死についての記述もたったこれだけです。そして、「死後のマナセ」などについては、やはり、その遺体の埋葬に関するもの以外、聖書は何も語りません。

以上あげた「主(ヤーヴェ)の目に悪とされることを行った」人々の例は、決して特殊な例ではありません。どの人を取り上げても、死と死後に関する聖書の記述は、どれも同じように、彼らの死後については、せいぜい遺体の埋葬について簡単にふれているだけです。


結論

これらの死と死後の事柄に関する聖書の記述からはっきり分かることは、聖書にとって「身体とは別に、人間には魂のようなものがあって、身体が滅んだ後にも、どこか別の世界で生き延びていく」といった類の考え方が、聖書の登場人物や聖書を書いた人々にとっては、まったく無縁であるということです。死後についての彼らの関心は、せいぜい、かれらのなきがらがどのように葬られるか、残される子孫がどのようになっていくか、ということだけです。つまり、聖書における「人間の死後」とは、人は死んだら墓に葬られて「先祖の列にくわえられる」という単純で厳粛な事実だけのようです。

これは、「塵にすぎないお前は塵に帰る」(創世記 3:19b)とか、人間は、神々と違って、永遠に生きることはできない(創世記 3:22-24)、という旧約聖書の人間観からみてもきわめて当然のことだと言えるでしょう。

したがって、わたしも、聖書の伝統に従って、人間の「死後の世界」なるものについては、無視と沈黙をまもることにしておきましょう。


佐倉 哲



本論には、次の批評が寄せられています。

AKさんより(97.11.18)

田所健作さんより(97.11.18)

samtsumiさんより(97.11.21)