今日はある姉妹と共に聖研だった。

 「だから聞き方に注意しなさい。」と聖書は言っている。(ルカ8:18)昔「聞き方に注意しなかった」人々がいた。イスラエルの民である。彼らは安易に、主の契約に肯んじ、その契約に参加した。

 彼らには、契約の現実が見えていなかった。事の重大性がわかっていなかったのだ。従えば祝福背けば破滅。主のことばは契約者への責任追及の手を緩めなかった。襲い来る厳しい定め。契約の成就に容赦はなかった。歴史に刻まれた、神からのショッキングな答え。

 今の時代にはもうそういう人々はいないのかと思っていたがそうでもない。今でもいるのだ。聖書の権威を否定する人々、聖書を神のことばとして認めない人々のことである。成立年代用語などで聖書を切り刻んでいく人びと細かいミスにのみ目を止めそれを盾に聖書にある重要なことをもことごとく否定する人。

 彼らは確かにイスラエルのように直接、契約のことばを交わしたわけではない。しかし、明らかに神の言葉として認められている聖書に多く触れ、万民に開かれている救いの契約に関して少なくとも普通の人々よりも多く聞く機会を持った、救いの契約の門口に何度も立っている人々ではないか。

 彼らは主のことばの書き方が気に入らないのだ。どうして100%完璧に書いてくれないのだろうと枝葉末節を批判する。あたかも、少しモノのわかってきた反抗期の幼子のようだ。「親はいつもうるさい。ああしろ、こうしろと。自分だってそれくらいわかっている。だがやりたいようにやりたいのだ。親だって不完全な人間なのにわかった振りをして口出しをするな。」と、危険な事に手を出し災難に遭う少年のようだ。親は自分が不完全だとわかっている。それでも、親として知っていることは、子供に語らずにはおれないただそれだけなのだ。

 知恵はちまたで大声で叫び広場でその声をあげ騒がしい街角で叫び町の門の入り口で語りかけて言う。「わきまえのない者たち。あなたがたはいつまでわきまえのないことを好むのか。あざけるものはいつまであざけりを楽しみ愚かなものはいつまで知識の憎むのか。」わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐあなたがたに私の霊を注ぎあなたがたにわたしのことばを知らせよう。私が呼んだのにあなたがたは拒んだ。わたしは手を伸べたが顧みる者はない。あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し私の叱責を受け入れなかった。それでわたしもあなたがたが災難に会うときに笑いあなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう。恐怖があらしのようにあなたがたを襲うとき災難がつむじ風のようにあなたがたを襲うとき、苦難と苦悩があなたがたの上に下るときそのとき彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。わたしを捜し求めるが彼らはわたしを見つけることができない。なぜなら彼らは知識を憎み主を恐れることを選ばずわたしの忠告を好まずわたしの叱責をことごとく侮ったからである。(箴言1章20〜30節)

 書かれてあるものをどのように解釈したとしてもそれはその人々の自由だ。しかし、どのように解釈しようとも主のことばを軽んじたあの民の悲惨な歴史が変ることがないように、この警告を書いた方の真意は変わらない。

 主のことばを軽んじたあのイスラエルの民の悲惨さと今の時代の彼らの気の強さが、なぜか重なって見える。彼らに襲いかかろうとしているものは何か?膝ががくがくと震えてくるような感触と共にその将来を彷彿とし慄然と立ち尽くした私は、足を踏み出すことも忘れていた。

麻生いのり

1.人間崇拝

「聖書は主の言葉である」という麻生さんの言葉は人間の言葉です。麻生さんは、わたしと同じく、ただの人間であって、神ではないからです。

同じように、『聖書』も、はじめから終わりまで、すべて人間の言葉です。聖書を書いた人々も、だれ一人例外なく、麻生さんやわたしとまったく変わらない、ただの人間であって、神様ではないからです。

わたしは、人間が大好きですが、人間(の言葉)を拝んだりはしないのです。

法王何者ぞ、監督何者ぞ。しかり、ペテロ何者ぞ、パウロ何者ぞ。彼らは皆罪の人にしてキリストの救いに与かりしまたは与かるべき者にあらずや。彼も人なりわれも人なり、神は彼らによらずして直ちに余輩を救い給うなり。余輩は人として彼らを尊敬す。しかれども彼らはおのが信仰をもって教権を装うて、余輩に臨むべからざるなり。

(内村鑑三、明治49年)


2.真理と権威

主のことばを軽んじたあのイスラエルの民の悲惨さと今の時代の彼らの気の強さが、なぜか重なって見える。彼らに襲いかかろうとしているものは何か?膝ががくがくと震えてくるような感触と共にその将来を彷彿とし慄然と立ち尽くした私は、足を踏み出すことも忘れていた。
結局、最後は脅迫に依存するのがキリスト教宣教2000年の変わらぬ体質です。「信じなければひどい目に遭わせるぞ」と脅かされれば、何でもかんでも「はい、それは真理でございます」と受け入れるのが、真理よりも救いを優先するクリスチャンの生き方でしょうが、まさにそれが理由で、わたしはクリスチャンを止めたのです。「真理だから」ではなく、「救いという御利益が得られる」という理由で聖書を真理として受け入れることは、自己に対して不誠実になることです。

わたしは、真理でないもの(間違っているもの)を「真理ではない」と言っているだけですが、たかがそれだけのことで、ひどい目に遭わせるというのなら、聖書の神(聖書信者のイメージする神像)は、真理の神ではなく、心の狭い単なる独裁者にすぎません。

余輩は必ずしもキリスト教を説かず、余輩が真理と信ずることを説く。余輩は聖書が示すゆえに真理なりと言わず、真理なるが故に真理なりと言う。余輩は聖書を研究す、聖書に盲従せず。余輩は神の愛を信ず、ゆえに僭越を恐れず して余輩の確信を語る。

(内村鑑三)


3.真理に対する畏敬

聖書が人間の言葉であることは明らかですが、それが神の言葉であるかどうかは一つも明らかではありません。それを確定する何の根拠もありません。神の存在そのものが明らかではないのですから当たり前のことです。一つも明らかなことではないのに、そして何の根拠もないのに、聖書が神の言葉であることを、始めから、無条件に、揺るがすことのできない前提に置くのは、真理に対する畏敬のこころが欠けているからです。