佐倉様

パウロの手紙にある、目からうろこのような物という表現のように、私の今までの信 仰らしきものは、自己欺瞞だったのでしょうか。

あなたの意見には感服しました。逃げ道に神様を持ってくるほど楽なことはありません。現実を見たくないし、出来れば超越した力に助けてもらいたい、私のような意志薄弱には、信仰心はとても優しい逃げ道です。

祈れば、牧師は信じさせてくださいと祈ることだと・・・なにか違います。2千年経っても、人間が神の教えによって何かひとつでも進歩したのでしょうか?

思い込みという言葉で、現実を再確認させられました。

ただ、なにか寂しいような気がします。佐倉様も教会を離れる時少しはそう思われましか?教えてください。

困ったより

今振り返って、当時の日記を見ると、

すこし考えれば、このままここにいる方がどんなに恵まれているか明らかである。それにもかかわらず、わたしは旅に出ようと考えている。衣食住はもちろん、人生のあらゆる意味、生きる方法、目的、そして相談することの出きる友さえ与えてくれる幸福の島から、わたしは一人小舟に乗って大海に出ようとしている。荒波のもくずとなってわたしは消えてしまうかもしれない。どこに向かっているかも知らない。

しかし、人生の全ての意味や真理が与えられているということに耐えられない何かがわたしの中にある。与えられた人生の解答を弁証することのみに生きる自分に耐えられない何かがわたしの中にある。

それゆえ、わたしは一つの疑問符という小さな小舟に乗って大海に出ようとしている・・・

------------------

理性を使う努力をどれほどやったからといって、理性の限界を説いているのだろうか。私の目の前には不可解の大海が広がっている。その中に一歩も足を付けないで、理性の限界ばかり説いて泣き言をいってはいけない。疑問符の帆柱を立てて、不可解の大海に漕ぎだす一つの小舟とならねばならぬ・・・

------------------

私は法然にならって、・・・彼の師叡空との議論の際、師がその先師良忍上人の証言を典拠として、自説を裏付けせんとするや、「良忍上人も先にこそ生まれたまいたれ」(良忍上人といっても先に生まれたというだけではありませんか)などといって師叡空を立腹させ、「学問ははじめて見立つるはきわめて大事なり、師の説の伝習はたやすきなり」(学問は真理を発見するのが大事なのであって、ただ先師の教えを学び伝えるだけなら簡単なことです)などと言った、その真理への執念を学ぶべきである。

------------------

真理というものが天降り的に特権を持ったある個人(預言者、キリスト、等々)を通して与えられ、残った人々はそれを受け入れるだけという考え方よりも、人類歴史という、無数の人々の試行錯誤と絶え間ない挑戦を通して、真理が自らの姿を少しずつ現していく、というのが本当なのではないか。

「劫初より造り営む殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ」(与謝野晶子)
である。

------------------

たとえ、われわれがどんなに神を知ったとしても、それは明らかに限られた(真理の)一部分にしかすぎず、知らない部分は無限大なのであって、ここに、われわれ(クリスチャン)がわれわれのみを神の代身者とみなすことの危険が存在する。

------------------

人間が何かを分かったからといって、どれほどのものであろうか。人生は不可解な無限の大海ではないか。いかにも自信のなさそうな真理の一片だけに私は私の信頼をよせる・・・・

------------------

「確信を持って生きる」などと豪語する人は、やはり、なんだか疑わしい。知っていると思い込んでいる世界がどれほどのものだと思って「確信をもっている」などと自負するのであろうか。・・・不安とは、何か嫌悪したり、否定したりするべきものではなく、わたしが自由であることの証拠ではないのか。一体、「確信を持って生きる」とは、無知の世界が見えないということであり、一つの方向へのみ行くことを定められているということではないか。すなわち他人に強制されてそうするにせよ、あるいは、自分で自分をそのように仕向けるにしろ、要するに、自己満足にすぎないのではないか。自己欺瞞ではないか。怠慢ではないのか。たんなる演技にすぎないのではないか。奴隷ではないのか。不安とは、無知の知に至ったものの認識であり、夢からの覚めることであり、自由精神にとっては、創造のための渾沌である。

------------------

キリスト教を受け入れることは・・・自己に対して不誠実である。

------------------

「党派は常に新しい奴隷を仕立てる。自分では絶体に奴隷ではないと思っている奴隷を。政治的経済的意味での奴隷はやがて消滅するだろうが、精神の奴隷は増大するだろう。それに甘んずる人間は絶えまい。」(亀井勝一郎)

------------------

大衆運動家よ、学生運動家よ、[信仰者達よ]、きみたちはなぜすぐ徒党を組まんとするのか。なぜ数や量で勝たんとするのか。なぜそんなに力に頼るのか。最後に勝利するのは真理であるのに。一票を集めるために頭をぺこぺこ下げたり、金力を駆使する老政治家のごとく、みにくい姿をさらしている。自らの信ずる真理性によってのみ勝たんとせよ。おのれ(一人)の真理を信頼できず、数や量を集めることしかできないのなら、はじめから闘争など始めるべきではない。真理に一体いかなる助け手、保証者がひつようであろうか。力ではない、真理性によって勝負せよ。

------------------

一人考える時を持ちなさい。

------------------

などと書いています。「幸福の島を後にして、一人小舟で大海に漕ぎだす」という物語(イメージ)をつくることによって、わたしが宗教的ドグマから自らを解放したことがわかります。