初めまして。いつの頃からか、佐倉さんのHPを、これは勉強になるなあと拝見させて頂いています。私もじつは子供の頃からのクリスチャンです。母親からすり込みされたクリスチャンで、未だに信仰は捨てずにいます。信仰と学問は別物、というのが信条です。私の通う教会は結構、リベラルな雰囲気であり、牧師先生も、どんな発言も割と大目には見てくれます。(神は死んだなんて言うと、大変でしょうが。まあ、私もそこまで思っていません。)

私の場合は、日本でいう葬式仏教に近いのかなあ、と。子供の頃からそういうもんだと思ってきているので、学問的にはキリスト教批判派の言う通りと思いつつ、教会には通っているというか、何というか。結構、主体性のない、いざとなったら転びそうなクリスチャンです。ただ、その程度の信仰心でありながらも、ああ、キリシタン迫害のない時代に生まれて幸せだなあと思ったりしているのですから、病膏肓に入る、かもしれないですね。

私の家のお隣もクリスチャンです。福音派です。私の信仰なんてそういう人からみると本当にクリスチャンごっこをしているだけ、なのだそうです。(私だけに限らず、私の通う教会程度だと、ごっこどまりなのだそうです)私は時々、心底、福音派の人が羨ましく、妬ましくなります。スーパーパワーたる主にすべてをゆだねた生活(本当かな?)、聖書霊感説(私の聖書は新共同訳・・・)何も疑わず、自らの主張を裏書きしてくれる書物、思想のみに目をむけ・・・・。とても楽そうだなあ、考えなくていいんだもの。

これでも、日本という異教社会の中でずっと信仰を保ち続けるのには苦労してるんだ!!信仰と学問の板挟みとなり、信仰と学問は別物という信条にたどり着くまで、紆余曲折してるんだ!!と福音派には言いたくなります。佐倉さんのように勇気を持って、教会から離れられたら・・・・。でも、きっとずっと離れないでしょうね。だからこそ宗教は麻薬であり、怖いものなのです。私程度の信仰心の人間でさえ離れないのですから。時々、さぼったりするけれど。

佐倉さんのHPは、私にとっては、とても貴重なものです。理性を使え、疑え、自ら思考しろ、と常に冷静に呼びかけてくれるからです。信仰を持つものとして狂信には陥りたくないのです。オウムの人たちのように。あの人たちを裁き、社会的に糾弾し、罰することは、法律にそえば簡単でしょう。でも、宗教的に裁くことは・・・。聖絶ということを知っている私にとっては簡単ではありません。あれも信仰の一形態です。そう思えばこそ、常に佐倉さんの主張に耳を傾け続けたいと思うのです。どうぞ、今後ともますますのご活躍を!

由起子

信仰とは、キリスト教が教えるように、<神や人類の真実を知っていると思い込むこと>ではなく、たとえば、日本人が神社の前でやるような、たんなる<願いごと>にすぎないことが素直に認められるようになれば、信仰もほほえましく美しいものとなりますが、そうでなければ、自己を騙す行為にすぎないわけですから、いままでのキリスト教信仰は軽べつされても仕方がないと思います。もしかしたら、日本人はキリスト教を救うことができるのかもしれません。