佐倉哲エッセイ集

キリスト教・聖書に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。


  ホー  キリスト  聖書の間違い  来訪者の声 

水野さんより

00年4月14日

思考の限界について (2)

水野です。回答拝見しました。いつも迅速に対応していただき、ありがとうございます。

(1)「無視すべきではない」はひとつずつなら実行可能

知らないことは無限にあり、その一つ一つの可能性のすべてを「無視するな」というのは、有限な人間には不可能だからです。 例えば、モルモン教の神 -- 人間はやがて神になることのできるというそんな神 -- の存在を「肯定も否定もできないので、無視すべきではない」と考え、日々宗教的物事を考えるたびに、その神に注目しているクリスチャンが一体何人いるでしょうか。日本の神 -- 人間に取り憑く存在としてのキツネやタヌキ、それにカッパや天狗 -- の存在を「肯定も否定もできないので、無視すべきではない」と考え、日々宗教的物事を考えるたびに、そのことに注目しているクリスチャンが一体何人いるでしょうか。

上記回答の後半(「例えば、」以降)はとても当惑させられるものでした。

聖書の神について考えるのに、どうして(取り憑く存在としての)キツネ、タヌキ、 カッパ、天狗の存在する可能性を考慮に入れる必要があるのでしょうか。 仮にわたしがキツネらしきものに憑かれた経験があるなら、または憑かれたひとを 見た経験があるなら、わたしはそんな力を持つキツネが本当に存在するかを 真剣に考えるでしょうが、しかし、だからといって、それと聖書の神を混同し、 同じ枠のなかで考えるようなことはしないでしょう。 むしろ、聖書の神は聖書の神として、キツネはキツネとして、 あくまでまったく別個に存在するふたつの問題として取り組むことと思います。 聖書とキツネの間にはおそらく何の関連もないからです。

またモルモン教についても同様です。わたしはモルモン教について無知ですが、 もしわたしがこの先モルモン教に興味を持ったとしても、聖書の神とモルモン教の神とを 一緒くたにして考えることはしないでしょう。「聖書の神」と「聖書に基ずく(?)宗教 の一派であるモルモン教が教える神」とは、おそらく別物だろうからです。

したがって、わたしがいう「肯定も否定もできない事柄を無視すべきでない」とは、 肯定も否定もできない数多くの事柄の、仮にAという題目について考えるとき、 Aとは無関係なBもCもDもEも、さらにその他すべての題目についてまでも、 Aと共に考慮に入れるべきだ、という意味ではありません。 佐倉さんのおっしゃるとおり、有限な人間にそれは不可能であり、 第一それでは考えるという行為自体が成り立たないと思います。

要するに、Aという命題について考えるのであれば、B以降はひとまず保留しておいて、 さしあたりAだけに着目し、Aだけに限定して吟味することができるということです。 そして、これは限定された作業である以上、有限な人間にも充分実行可能です。 現に佐倉さんも返信メールの(2)のなかで、「神の見地」というAについて語って おられます。その主張のなかには、BやCは登場しない、つまり、モルモン教や キツネやタヌキやカッパや、その他もろもろの肯定否定できない要素は一切出てこない、 ただ「神の見地」というひとつのテーマがあるだけです。

佐倉さんがおっしゃるとおり、「わたしたちは、自分の興味のある範囲のことにしか 注意を向けることはしないし、(それしか)でき(ない)」存在です。わたしは、 たまたま自分に興味のあった聖書の神の存在について考え、 人間の持つ『思考の限界』という結論を前回提出しました。 他の事柄、たとえばモルモン教やカッパや天狗の存在などには、今のところ興味がない ので無視しています。もしわたしがこの先誰かのカッパ論を読み好奇心をそそられる ことがあれば、そのときはわたしもカッパについて大いに考えたいと思います。 ただしその場合も、聖書の神とカッパは別々の入れ物にある問題として扱い、 聖書を考える際にカッパを無視しないというような支離滅裂な混同はしないでしょう。 わたしがいう「肯定も否定もできない事柄を無視しない」とはこのようにテーマごとに 順次実践できるものであり、したがって有限な人間にも実行可能なものです。


(2)神の見地の「内容」を問題にしているのではない

たとえ、神や神の見地の実在を仮定しても、その「神の見地」は、神を知らない人間にとっては、まったく無意味だということを述べたのです。なぜなら、 神を知らない人間にとっての「神の見地」とは、どんなに頑張っても、 どこまでいっても、「神の見地はああだこうだ」と考える人間の見地にすぎない からです。わたしたちは、神を知る人間になったとき、そのときはじめて、 「神の見地」を語ることとなるでしょう。

書き方が下手だったのかもしれませんが、前回わたしは「神の見地」という表現を 下記(a)と(b)の2種類の意味に分けて考えていました。

      (a)「人工の」神の見地
                神を知ることのできない人類には認知不可能な内容が
                神の見地はこうあってほしいと願う信仰者の憶測により、
                「神の見地とはこうだ」と無理に定義されたもの
      (b)「本来の」神の見地
                神が肯定も否定もできない以上、神の見地もまた存在し得るとして
                仮定されたもの。神を知ることのできない人類にも認知できるもの。
                「神の見地とはこうだ」という無理な定義は含まない
(a)は信仰者の期待や希望による主観的「憶測」であり、(b)は可能性として あり得るという客観的「知識」です。このように、(a)と(b)とでは歴然とした差が あるにもかかわらず、佐倉さんはこれらを同じものとして排除してしまいます。

神や神の見地の実在を仮定しても、その「神の見地」は、・・・(中略)・・・ どんなに頑張っても、どこまでいっても、「神の見地はああだこうだ」と考える 人間の見地にすぎない

なぜ、実在すると仮定されたはずの「神の見地」(b)が人工のもの(a)にすぎない のでしょうか。またなぜ、実在すると仮定されたはずの「神の見地」(b)の内容を、 (a)のように「ああだこうだ」と頑張って規定する必要があるのでしょうか。 そもそも、わたしは知るべくもない神の見地の「内容」など問題にはしていません。 その証拠にわたしの前回の主張は、神の見地の「内容」という憶測(a)からではなく、 それが「可能性としてあり得る」という知識(b)から出発しています。 その主張とはこうです。

存在があり得るとだけ認知できる「神の見地」がある以上、 人間のどんな正論も覆される恐れがあり、よって、 人間の思考には限界があることが自覚される。つまり、 人間が宗教について批判するとき、「この考えは人間的考えであり、究極的に 正しいとは言えない」という結論までしか出せない、・・・という限界である。

以上です。まとめますと、以下のとおりです。論理的過ちがあれば指摘してください。

<わたしの主な論旨>
(1)・(聖書の)神の存在は有限の人知には肯定も否定もできないものである。
       ・肯定も否定もできないものは、世の中にたくさんある。
       ・肯定も否定もできないものは、「すべて同時に」ではなく「ひとつずつ順番に」
          考察することができ、またそれが妥当な思考方法である。
       ・よって、(聖書の)神の存在について考察することは可能である。
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(2)・人間は人間的見地からしか考えることができない。
       ・神の存在が肯定も否定もできず、あり得る以上、神の見地の存在もあり得る。
       ・神の見地が存在し得るとすると、人間のどんな正論も覆される恐れがある。
       ・よって、人間が宗教について批判するとき、「この考えは人間的考えであり、
          究極的に正しいとは言えない」という結論までしか出せない。
では、よろしくお願いします。失礼します。





作者より水野さんへ

00年4月29日

論理的過ちがあれば指摘してください・・・

間違いの指摘というよりは、むしろ、水野さんとわたしの、問題の捉え方の違い、問題に対する姿勢の違い、というぐらいのことだと思いますが・・・

(1)「無視すべきではない」ではなく「無視しないことも可能だ」なら・・・

もちろん佐倉さんのおっしゃるとおり、神の存在は肯定も否定もできないものとして充分認識しております。ただし、この認識は人間を信仰に拘束しないかわりに、人間を「神」という概念から解放もしません。むしろ、物事を考えるとき神の存在する可能性を無視すべきではない、という制限を課すものと理解しております。(3月26日)

・・・わたしがいう「肯定も否定もできない事柄を無視しない」とはこのようにテーマごとに 順次実践できるものであり、したがって有限な人間にも実行可能なものです。(今回)

「無視すべきではない、という制限を課す」ではなく、「無視しない」ことも「実行可能」である、ということでしたら、もちろん、わたしには何の問題もありません。

人の興味の範囲は限られていて、自分の興味のない範囲のことは無視せざるを得ないのは、有限な人間としてはしかたないことですから、水野さんが他人の神を無視せざるをえないように、他人も水野さんの神を無視せざるを得ない、ということは必然的に起こるわけです。そのとき、人々が水野さんの神を無視したからといって、水野さんの神は「無視すべきではない」などと「制限を課」されたのでは、人々はたまらんだろうなあ、と思ったのでした。

しかし、今回、そうではなく、自分の興味のある神について考えているとき、その神の存在の可能性を無視しないことも可能である、ということだそうですから、これはもう、わたしにとっては何の問題もありません。


(2)水野さんの作り上げた神像

わたしは知るべくもない神の見地の「内容」など問題にはしていません。 その証拠にわたしの前回の主張は、神の見地の「内容」という憶測(a)からではなく、 それが「可能性としてあり得る」という知識(b)から出発しています。
神に限らず、内容を持たないものの存在など、想定することはできないのではないでしょうか。何であろうと、その存在を想定するためには、その存在を規定する何かがあらかじめ前提にされていなければならないでしょう。たとえば、水野さんの神像は、(ア)知や意志を持ち合わせた何らかの人格的存在であり、(イ)人間より上位の権威を持った存在であり、しかも、(ウ)人間に関心を持っている、といったさまざまな特殊な(キリスト教臭い)内容をすでに持っています。そうであってはじめて、その神は「人間の正論を覆」すことができるわけですから。

水野さんの作り上げた神像から離れて、世界の神々を眺めてみますと、たとえば、ある神々は人間より下等な(すくなくとも、人間より上位の権威を持っているとは言えない)存在であり、人間に教えを乞うことになっているものがあります。たとえば仏教。また、別の宗教では、神は人格的存在ではありません。たとえば道教。さらにまた他の神は、知的存在ですが、最高存在であるため、人間のような程度の低い存在にはいっさい興味を持ちません。たとえば、アリストテレスのヌース。さらにまた、他の多くの宗教では、水野さんの神のような意地悪な神は「悪魔」と呼ばれ、善なる別の神にやっつけられるという話になっているのではないでしょうか。

どんな神像であろうとも空想の中では無限に作り上げることができ、どんな神像であろうとも、それに似たものが実在するかもしれない、と自問することができます。空想は無制限です。水野さんも、まずあらかじめ「人間の正論を覆す」趣味を持つ、ある特殊な性格をもつ神像を空想の中で勝手に作り上げて、そして、それに似たものが実在するかもしれない、などと自問して、なにかご自分で心配しておられる(あるいは、他人を心配させて喜んでおられる?)のでしょうか。

勝手に神像をつくって拝むな、という聖書の中心的メッセージは、もしかしたら、聖書の中でもっとも人間にとって役立つメッセージなのかもしれません。


おたより、ありがとうございました。


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