前回10月18日にお送りしたメールでは分かりにくい点が多々あるので、分かりや すく記述してみます。よろしければ、前回送信したものは削除して、こちらを読まれてください。

四福音書を比較すると、墓に行ったガリラヤの女のうち、一番最初にイエスの墓に行ったのはマリア・マグダレネで「朝早くまだ暗いうちに」やって来ます。(ヨハ 20:1)「明るくなりかけたころ」もう一人のマリア、すなわちヤコブの母マリアがやって来ます。(マタ 28:1)それから、サロメやヨハンナや彼女たちと一緒にいた他の女たちもやって来ます。(ルカ 24:1)その時、太陽はすでに昇っています。(マル 16:2)彼女たちは香料と香油を安息日の前に準備しますが(ルカ 23:56)、それでは足りないと思い、マリア・マグダレネと、ヤコブの母マリア、それにサロメはさらに香料を買います。(マル 16:1)彼女たちは「記念の墓の戸口から、だれがわたしたちのために石を転がしのけてくれるのでしょうか」と言い合っています。(マル 16:3)墓を見上げると、大きな地震が起きた後で(マタ 28:2)石が記念の墓から転がしのけてあるのを見ます。マリア・マグダレネは、ペテロとヨハネのところに走って行って、「人々が主を記念の墓から取り去ってしまい、どこに置いたのか分かりません」と言います。(ヨハ 20:2)

その間、残りの女たちは中に入りますが、イエスの体は見当たらず、当惑していると、二人のみ使いが現れます。そのうちの一人は石の上に「座っていました」(マタ 28:2)が、彼女たちの側に立ちます。もう一人は「白い長い衣をまとって右側に座って」いましたが、彼も立ち上がります。そのみ使いは、一人の若者のように見えます。(マル 16:5)彼らは、イエスがよみがえらされたこと、イエスが死後三日目によみがえらされることなどを弟子たちに知らせるよう言います。彼女たちは、おののきと強い感動にとらわれ、また恐れと大きな喜びとを抱きつつ、弟子たちに報告するため(マタ 28:8)、墓から逃げるように去って行きます。(マル 16:8)

同じ頃、ペテロとヨハネは出て行って記念の墓に向かいます。二人とも一緒に走り出しますが、若いヨハネの方が先に着きます。前方に屈むと巻き布が見えますが、中には入りません。次に、ペテロがやって来て、中に入ります。彼はイエスの死体がなくなっているのを見ます。その時、ヨハネも入り、同じことを見ます。彼は自分のうちに帰ります。

その頃、マリア・マグダレネ以外の婦人たちは弟子たちに報告しようと走っています。すると、復活したイエスが彼女たちに出会って、「こんにちは」と言われます。彼女たちは近づいてその足を抱き、彼に敬意をささげます。その時、イエスは「恐れることはありません。行って、わたしたちの兄弟たちに報告し、彼らがガリラヤに行くようにしなさい。彼らはそこでわたしを見るでしょう。」と言われます。(マタ 28:9,10)

彼女たちがその道にある間に、警備隊のある者が市内に行き、起きたことすべてを祭司長たちに報告します。祭司長たちは、年長者たちと集まって相談した後、十分な数の銀をその兵士たちに与え、夜中に弟子たちがイエスが盗んだことにします。(マタ 28:11‐15)

同じ頃、マリア・マグダレネは記念の墓の近くで泣いています。そして中を覗くと先程の二人のみ使いがいます。一人は頭のところ、もう一人は足のところに座っています。彼らが、「婦人よ、なぜ泣いているのですか」と言うと、マリアは「人々がわたしの主を取り去ってしまい、どこに置いたかわからない」と答えます。マリアが振り返ると、園丁が目に留まります。彼は「婦人よ、なぜ泣いているのですか」とやさしく尋ねます。マリアは「だんな様、もしあなたが主を運び去ったのでしたら、どこに置いたかおっしゃってください。わたしが引き取りますから」と答えます。園丁が「マリア!」と言うと、マリアはその言い方からイエスだと気づき、「ラボニ!」と言ってすがり付きます。イエスは、「兄弟たちのところへ行って、『わたしは、父のもとに戻る』と言いなさい」と言われます。マリア・マグダレネは弟子たちのところに行き、主を見たことを報告します。(ヨハ 20:3−18)マリア・マグダレネ以外の婦人たちも、始め恐れに満たされていて、何も話しませんでした(マル 16:8)が、主の言われたことを思い出し、弟子たちにことごとく報告します。(ルカ 24:9,10)

こう考えると、四福音書は矛盾しているのではなく、互いに補完し合っていることが分かるでしょう。


・・・こう考えると、四福音書は矛盾しているのではなく、互いに補完し合っていることが分かるでしょう。
「新しいK.M.さんによる福音書」も、前回わたしが指摘した数々の矛盾の解消になっていません。したがって、わたしの全体的な感想も前回と同じです。すなわち、
聖書を神の言葉として絶対化し、いかなる誤謬も矛盾もないとする立場は、本当に、聖書を尊敬する立場なのだろうか。こんなにも、平気で、聖書の記述をいじくり回し、勝手に付け加えたり、削除したりできるのは、聖書そのものが何を自分に語っているかを聞こうとする態度、真実を知ろうとする態度にはなはだ欠けていることを示しているのではないだろうか。そこにあるのは、ただ、「聖書はこうあって欲しい」(矛盾があってほしくない)とする自分の欲望の絶対化にすぎないのではないだろうか。


なお、読者の方々で興味のある方は、前回わたしが示した方法で、各福音書と「新しいK.M.さんによる福音書」を比べて、福音書間の矛盾を調和化するために、いかに多くの事柄が、福音書の物語から削除されたり、勝手に付け加えなければならないか、そして、出来上がったフランケンシュタインのようなグロテスクな物語が、いかに、もともとの各福音書が語る物語とはかけ離れたものになっているか、を確認してみて下さい。