この部分も冷静に考えれば矛盾しません。まず、墓を見に行ったのはマリア・マグダレネ、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、サロメ、そして「一緒にいた他の婦人たち」です。そして、「墓に向かう途中で」大きな地震が起き、み使いが天から降りて、石をわきへ転がし、その上に座ります。墓に着くと「すでに、墓から石が取りのけてあ」ります。マリア・マグダレネは中に入りませんでしたが、他の婦人たちは中に入ります。マリア・マグダレネは「石が取り除かれるのを見て、誰かが遺体を運 び去ったと思い込」みます。それで、そのことをペテロとヨハネのところへ報告に行きます。墓の中で、遺体がなくなっていることに気づき、途方に暮れているとき、「輝く衣を着た二人の人」、または「白い長い衣を着た若者」すなわち二人のみ使いに出会い、遺体のないことと復活を告知されます。帰る途中、復活したイエスが「こんにちは」と言って現れます。婦人たちは始めは「震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった」のですが、すぐ「恐れながらも大いに喜び」、「十一人と他の人皆に一部始終知らせた」のです。こう考えると、何も矛盾しません。

「冷静に考えれば」、すなわち、矛盾を調和化するために、原文から都合の悪い部分を削除したり、原文にないことを追加する作業をほどこしますと、「K.M.さんによる福音書」が成立します。

聖書ドグマを信じ続けるために、K.M.さんが、原文に何を加筆し何を削除したか、くわしく調べてみることにしましょう。



(1)マタイの福音書と「K.M.さんによる福音書」

マタイの記述(28:1-10) 「K.M.さんによる福音書」
さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。あなたがたは十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方はここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体のあった場所を見なさい。それから、急いで行って、弟子たちにこう告げなさい。『あの方は、死者の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』確かに、あなた方に伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるため走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」 墓を見に行ったのはマリア・マグダレネ、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、サロメ、そして「一緒にいた他の婦人たち」です。そして、「墓に向かう途中で」大きな地震が起き、み使いが天から降りて、石をわきへ転がし、その上に座ります。墓に着くと「すでに、墓から石が取りのけてあ」ります。マリア・マグダレネは中に入りませんでしたが、他の婦人たちは中に入ります。マリア・マグダレネは「石が取り除かれるのを見て、誰かが遺体を運 び去ったと思い込」みます。それで、そのことをペテロとヨハネのところへ報告に行きます。墓の中で、遺体がなくなっていることに気づき、途方に暮れているとき、「輝く衣を着た二人の人」、または「白い長い衣を着た若者」すなわち二人のみ使いに出会い、遺体のないことと復活を告知されます。帰る途中、復活したイエスが「こんにちは」と言って現れます。婦人たちは始めは「震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった」のですが、すぐ「恐れながらも大いに喜び」、「十一人と他の人皆に一部始終知らせた」のです。


読み比べればすぐにわかりますように、マタイの福音書と「K.M.さんによる福音書」の間には沢山の矛盾と相違が見られます。

(ア)マタイの福音書によれば、「マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」と明確に記述してありますが、「K.M.さんによる福音書」では、その数がかなり水増しされ、二人のマリアに加えて、ヨハンナ、サロメ、および「他の婦人たち」が墓に行ったことになっています。他の福音書(マルコとルカ)とのつじつまを合わせねばならないからです。

(イ)マタイの福音書によれば、婦人達が墓に行くと、天使(単数)が降りてきて石を転がしその上にすわったので、番兵たちは「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」のですが、そのとき、この天使(単数)は婦人たちには「おどろくことはない」となだめます。ところが、「K.M.さんによる福音書」では、天使が降りて石の上に座ったのは、婦人たちがまだ「墓に向かう途中」であったことになっています。そのため、石の上の天使が婦人たちに「恐れることはない・・・」と言ったというマタイの記述が、「K.M.さんによる福音書」では削除されています。

(ウ)マタイの福音書によれば、石の上に座ったこの天使はただちに婦人たちに次のようにくわしく告知します。

恐れることはない。あなたがたは十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方はここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体のあった場所を見なさい。それから、急いで行って、弟子たちにこう告げなさい。『あの方は、死者の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』確かに、あなた方に伝えました。
ところが、「K.M.さんによる福音書」では、まずマグダラのマリアがおかしな別行動をおこします。すなわち、(マタイによれば)マグダラのマリアを含めた婦人たちは、すでに石の上の天使によって、イエスの復活についてはすでに告知されているはずなのに、他の福音書(ヨハネ)とのつじつまを合わせなければならないために、彼女は「石が取り除かれるのを見て、誰かが遺体を運び去ったと思い込」み、そのまま、ペテロとヨハネのところへ報告に行かねばなりません。

(エ)マタイの福音書によれば、墓の外で婦人たちは石の上の天使によって、イエスは復活したので遺体がないことなど、すべてを告知されたはずなのに、「K.M.さんによる福音書」では、他の福音書とのつじつまを合わせねばならないために、婦人たちは、墓の中で「遺体がなくなっていることに気づき、途方に暮れ」る、ということになければなりません。

(オ)マタイの福音書によれば、墓の外で婦人たちは石の上の天使(単数)によって、イエスは復活したので遺体がないことなど、すべてを告知されたはずなのに、「K.M.さんによる福音書」では、他の福音書(マルコとルカ)とのつじつまを合わせねばならないために、墓の中で、二人の人間、「または」、二人の天使、に告知されるということになっています。マタイの福音書には、墓の中で再び天使に出会ったなどという記述はありません、すでに墓の外で石の上の天使によってすべてが告知されているからです。

(カ)マタイの福音書によれば、婦人達は、すぐ、「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるため走って行った」ことになっていますが、「K.M.さんによる福音書」では、他の福音書(マルコ)とのつじつまを合わせねばならないために、婦人たちは、その前に、まず、「始めは『震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった』」ということになり、それから、「すぐ『恐れながらも大いに喜び・・・十一人と他の人皆に一部始終知らせた』のです」などという、おかしな二段構えの話になっています。



(2)マルコの福音書と「K.M.さんによる福音書」

マルコの記述(16:1-8) 「K.M.さんによる福音書」
安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日、朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げてみると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。ご覧なさい。納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペテロに告げなさい。『あの方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。 墓を見に行ったのはマリア・マグダレネ、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、サロメ、そして「一緒にいた他の婦人たち」です。そして、「墓に向かう途中で」大きな地震が起き、み使いが天から降りて、石をわきへ転がし、その上に座ります。墓に着くと「すでに、墓から石が取りのけてあ」ります。マリア・マグダレネは中に入りませんでしたが、他の婦人たちは中に入ります。マリア・マグダレネは「石が取り除かれるのを見て、誰かが遺体を運 び去ったと思い込」みます。それで、そのことをペテロとヨハネのところへ報告に行きます。墓の中で、遺体がなくなっていることに気づき、途方に暮れているとき、「輝く衣を着た二人の人」、または「白い長い衣を着た若者」すなわち二人のみ使いに出会い、遺体のないことと復活を告知されます。帰る途中、復活したイエスが「こんにちは」と言って現れます。婦人たちは始めは「震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった」のですが、すぐ「恐れながらも大いに喜び」、「十一人と他の人皆に一部始終知らせた」のです。


マルコの福音書と「K.M.さんによる福音書」の間にもいろいろな矛盾と相違が見られます。

(ア)マルコの福音書によれば、墓に行った婦人たちは「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」と明確に記述してありますが、「K.M.さんによる福音書」では、その人数はやはり水増しされていて、この三人に加えて、ヨハンナ、および「他の婦人たち」が墓に行ったことになっています。他の福音書(ルカ)とのつじつまを合わせねばならないからです。

(イ)マルコの福音書によれば、婦人たちは「誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」などと話ながら墓に着いて、ふと「目を上げてみると、石は既にわきへ転がしてあった」ということになっていますが、「K.M.さんによる福音書」では、他の福音書(マタイ)とのつじつまを合わせねばならないために、マタイの記述を少し曲げながら、「『墓に向かう途中で』大きな地震が起き、み使いが天から降りて、石をわきへ転がし、その上に座ります」という話が付け加えられています。マタイとのつじつまを合わせると言っても、マタイにはない「墓に向かう途中で」がわざわざ挿入されているのは、なんとかマルコとの折り合いも付けなければならないからです。というのも、マルコによれば、大きな地震が起きて天使が降って石を転がしたというマタイの話と違って、ふと「目を上げてみると、石は既にわきへ転がしてあった」という物語になっているからです。

(ウ)マルコの福音書によると、婦人たちが

墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
ことになっています。この「白い長い衣を着た若者」が彼女たちにただちにイエスの復活を告知したことになっています。ところが、「K.M.さんによる福音書」では、そうではなく、
墓の中で、遺体がなくなっていることに気づき、途方に暮れているとき、「輝く衣を着た二人の人」、または「白い長い衣を着た若者」すなわち二人のみ使いに出会い、遺体のないことと復活を告知されます。
ということになっています。

つまり、マルコでは、墓の中で婦人たちが最初に見たのは、イエスの復活を告知する「白い長い衣を着た若者」であって、その「白い長い衣を着た若者」によってイエスは「ここにはおられない」ことを教えられるのですが、「K.M.さんによる福音書」では、婦人たちは、まず最初に、「遺体がなくなっていることに気づき、途方に暮れている」のです。

(エ)マルコの福音書によると、婦人たちが墓の中で出会い、イエスの復活を告知したのは、一人の「白い長い衣を着た若者」(単数)でした。ところが、「K.M.さんによる福音書」では、

「白い長い衣を着た若者」すなわち二人のみ使い・・・
というふうに、いつのまにか一人の「白い長い衣を着た若者」が「二人のみ使い」ということになっています。他の福音書(ルカ)とのつじつまを合わせるためです。

(エ)マルコの福音書によると、墓の中で「白い長い衣を着た若者」に告知されるとすぐ

婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
という話になっているのに。「K.M.さんによる福音書」では、
帰る途中、復活したイエスが「こんにちは」と言って現れます。婦人たちは始めは「震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった」のですが、すぐ「恐れながらも大いに喜び」、「十一人と他の人皆に一部始終知らせた」のです。
という違う話になっています。

つまり、マルコでは、婦人たちは墓での経験に驚き「墓を出て逃げ去った」のであり、恐ろしくて「だれにも何も言わなかった」のですが、「K.M.さんによる福音書」では、他の福音書(マタイ)とのつじつまを合わせるためにマタイとマルコを混在させた話に仕立て上げています。だから、はじめは恐ろしくてだれにも何も言わなかったけれど、後になって「恐れながらも大いに喜び」弟子達に知らせに行った、などという話になり、その結果として、マタイの「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるため走って行った」という記述とも、「だれにも何も言わなかった」というマルコの記述とも、大きく矛盾する話になってしまったのです。マルコの「(恐怖から)墓を出て逃げ去った」という記述と、マタイの「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるため走って行った」という、調和することのできない二つの記述を無理やり混ぜたからです。

(オ)マルコの福音書によると、すでに見たように、「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」ということで話は終わっているのですが、「K.M.さんによる福音書」では、他の福音書(マタイ)とのつじつまを合わせるために、マルコの話にはまったくない、墓から帰る途中イエスが突然「こんにちは」といって出てくるという話が付け加えられています。



(3)ルカの福音書と「K.M.さんによる福音書」

ルカの記述(23:56b-24:11) 「K.M.さんによる福音書」
婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見あたらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、ふたりは言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。まだ、ガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして墓から帰って、十一人と他の人皆に一部始終知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話しが、たわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。 墓を見に行ったのはマリア・マグダレネ、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、サロメ、そして「一緒にいた他の婦人たち」です。そして、「墓に向かう途中で」大きな地震が起き、み使いが天から降りて、石をわきへ転がし、その上に座ります。墓に着くと「すでに、墓から石が取りのけてあ」ります。マリア・マグダレネは中に入りませんでしたが、他の婦人たちは中に入ります。マリア・マグダレネは「石が取り除かれるのを見て、誰かが遺体を運 び去ったと思い込」みます。それで、そのことをペテロとヨハネのところへ報告に行きます。墓の中で、遺体がなくなっていることに気づき、途方に暮れているとき、「輝く衣を着た二人の人」、または「白い長い衣を着た若者」すなわち二人のみ使いに出会い、遺体のないことと復活を告知されます。帰る途中、復活したイエスが「こんにちは」と言って現れます。婦人たちは始めは「震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった」のですが、すぐ「恐れながらも大いに喜び」、「十一人と他の人皆に一部始終知らせた」のです。

ルカの福音書と「K.M.さんによる福音書」の間にもいろいろな矛盾と相違が見られます。

(ア)ルカの福音書によれば、墓に行ったのは「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった」となっているのに、「K.M.さんによる福音書」では、「サロメ」が加えられています。他の福音書(マルコ)とのつじつまを合わせるためです。

(イ)マルコの福音書と同じように、ルカの福音書によれば、婦人たちが墓に着いてみると、すでに「石は既にわきへ転がしてあった」ということになっているために、「K.M.さんによる福音書」は、他の福音書(マタイ)とのつじつまを合わせ、マタイの記述を少し曲げながら、「『墓に向かう途中で』大きな地震が起き、み使いが天から降りて、石をわきへ転がし、その上に座ります」という、マルコやルカの記述には全くない話が付け加えられています。すでに見たように、マタイとのつじつまを合わせると言っても、マタイにはない「墓に向かう途中で」がわざわざ挿入されているのは、なんとかマルコやルカとの折り合いも付けなければならないからです。マルコやルカによれば、大きな地震が起きて天使が降って石を転がしたというマタイの話と違って、墓についてみるといつの間にか「石は既にわきへ転がしてあった」という物語になっているので、「墓に向かう途中で」を挿入加筆せざるを得なかったのです。

(ウ)ルカの福音書によれば、婦人たちは墓の中で「輝く衣を着た二人の人」にイエスの復活を告知されるだけでなく、

まだ、ガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。
と、念を押して教えられます。
そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして墓から帰って、十一人と他の人皆に一部始終知らせた。
という話になっています。ところが、すでに見たように、マルコの
婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
という記述とつじつまを合わさねばならないため、「K.M.さんによる福音書」では、
帰る途中・・・婦人たちは始めは「震え上がり、正気を失っていた。」
ということになっているのです。墓の中でちゃんと「婦人たちはイエスの言葉を思い出した」のに、「帰る途中・・・正気を失って」しまうという話になっているのは、もともと矛盾している物語を無理やり混合させたからです。



(4)ヨハネの福音書と「K.M.さんによる福音書」

ヨハネの記述(20:1-2) 「K.M.さんによる福音書」
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちにマグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペテロのところへ、またイエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置いてあるのか、わたしたちには分かりません。」 墓を見に行ったのはマリア・マグダレネ、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、サロメ、そして「一緒にいた他の婦人たち」です。そして、「墓に向かう途中で」大きな地震が起き、み使いが天から降りて、石をわきへ転がし、その上に座ります。墓に着くと「すでに、墓から石が取りのけてあ」ります。マリア・マグダレネは中に入りませんでしたが、他の婦人たちは中に入ります。マリア・マグダレネは「石が取り除かれるのを見て、誰かが遺体を運 び去ったと思い込」みます。それで、そのことをペテロとヨハネのところへ報告に行きます。墓の中で、遺体がなくなっていることに気づき、途方に暮れているとき、「輝く衣を着た二人の人」、または「白い長い衣を着た若者」すなわち二人のみ使いに出会い、遺体のないことと復活を告知されます。帰る途中、復活したイエスが「こんにちは」と言って現れます。婦人たちは始めは「震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった」のですが、すぐ「恐れながらも大いに喜び」、「十一人と他の人皆に一部始終知らせた」のです。

ヨハネの福音書と「K.M.さんによる福音書」の間の矛盾と相違は一目瞭然です。



(5)感想

「K.M.さんによる福音書」を読んでいてわたしは次のように感じました。

聖書を神の言葉として絶対化し、いかなる誤謬も矛盾もないとする立場は、本当に、聖書を尊敬する立場なのだろうか。こんなにも、平気で、聖書の記述をいじくり回し、勝手に付け加えたり、削除したりできるのは、聖書そのものが何を自分に語っているかを聞こうとする態度、真実を知ろうとする態度にはなはだ欠けていることを示しているのではないだろうか。そこにあるのは、ただ、「聖書はこうあって欲しい」とする自分の欲望の絶対化にすぎないのではないだろうか。

そのように感じました。



なお、後に頂いたK.M.さんからのお便りによりますと、このおたよりは「分かりにくい点が多々ある」そうですので、新しいおたよりをごらんください。

(11月18日)