(これは「12月28日」の続きです)

(1)何の意味もない根拠

『(1)アブラハムとサラの物語は夫婦間の性の問題を含んでいる』においてですが、前回私はダビデの例を出して佐倉氏の「例外ではない」という主張に反論したのですが、ここでまたも「例外ではない」と言われていますが、佐倉氏の主張に対してダビデの例ははっきりと反証していますが、これでも「例外ではない」と強く主張されるのならばはっきりとその根拠を示して下さい。


(2)こじつけ矛盾論

自分が殺されて美人妻サラが奪われるかもしれない、という創世記20章の話は、サラが90歳の老婆であったことを考慮にいれると、わたしたちの常識ではとてもありえないきわめて滑稽で可笑しい物語になっています。ところが、創世記17章18章を見ると、アブラハムとサラも、わたしたちと同じ常識感覚を持っていたことが分かります。すなわち、我々と同じように、かれらも「笑った」のでした。彼らも、わたしたちと同じように、彼らが夫婦間の性生活を楽しむとか子供を生むとような歳はもうとっくに過ぎており、ありえないことだと思ったからです。したがって、創世記20章の話と創世記17章18章の話はうまく一致しません。

自己世界観に浸りきっておられるようですが、記述の理解がごっちゃまぜになっている事に気付かれているのだろうか。性生活について「わたしたちと同じ常識感覚を持っていた」という事には反論はありませんが、彼らが「笑った」のは自分達が老齢にも関わらず「子供を産める」という告知に対して笑ったのです。「90歳の女が子供を産めるわけがないという事に関して、我々もサラも感覚は等しい事はわかりますが、「90歳の容姿」については何も表されていません。つまり、90歳のサラが「容姿も醜く崩れていた」というのは我々の常識感覚でしかないのです。そうすると、17、18章は「年齢と出産」、20章は「年齢と容姿」に関しての言及となります。これを佐倉氏は『美しい女を妻にしたい、という願望のなかには、通常、「床を共にする」ことへの願望も含まれている』と主張され17、18、20章を結びつけられている訳ですが、この主張に対して私はダビデの例を挙げて佐倉氏の根拠が無意味である事を証明しているのです。この事から