聖書の間違い

復活(4)

--- イエスの顕現 ---

佐倉 哲


福音書や他の新約聖書の記録に依れば、イエスの死後三日目に、彼は死から蘇り、復活したことになっています。しかし、彼の復活後の顕現を報告するそれらの記録は多くの矛盾に満ちていて、聖書の記録の中でも最も信頼できないものの一つとなっています。



マタイの記録

新約聖書の中で、処刑にされた後、復活したイエスが人々の前に現れたことに関する記録は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの各福音書、使徒行伝、そしてパウロのコリント人への第一の手紙です。まず、マタイとルカを比べてみましょう。

マタイによれば、イエスの墓を見に行ったマグダラのマリアと「もう一人のマリア」が、墓が空になっていたことなどを、イエスの弟子たちのところへ報告に帰る途中、イエスはこの二人の女性の目の前に突然「おはよう」といって現れます。それが、マタイによれば、イエスの最初の顕現です。

マタイによる福音書 28:8-10
婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるため走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
イエスの、ガリラヤへ行け、という命令に従って、弟子たちはガリラヤへゆき、そこでイエスに出会います。それが、マタイによれば、イエスの第二の、そして最後の顕現です。
マタイによる福音書 28:16-20
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。かれらに父と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」
こうして、マリアたちを通して命じられたように、ガリラヤに行った十一人の弟子たちは、「イエスが指示しておかれた山」の上で復活したイエスに出会ったことになっています。(マタイやマルコのガリラヤ中心主義については「 女の報告と弟子たちの反応 」参照。)そこで、イエスは弟子たちに世界宣教を命令し、「世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」と弟子たちを勇気づける言葉で、マタイの福音書は終わります。


ルカの記録

ルカによるイエス顕現に関する記録は、以上見たマタイの記録とはまったく異なるものです。顕現の出来事の時と場所に注意して、ルカの記録を調べてみましょう。

ルカの福音書 24:13-53
[イエスの墓が空であることがわかった、] ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから60スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じあっていると、イエス御自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話しは何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在しながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人達がわたしたちを驚かせました。婦人達は朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使達が現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人達が言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心の鈍く預言者たちの言ったこと全てを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるために家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活してシモンに現れたと言っていた。二人とも、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。 そこでイエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるため彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなた方に送る。高いところからの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

以上が、ルカの福音書にあるイエス顕現に関する全記録です。ストーリーが長いので順序を追ってマタイの記録と比べてみましょう。

すでに見たように、マタイによると、復活後のイエスの最初の顕現は墓から帰る途中の二人のマリアに起こりました。しかし、ルカでは、イエスの最初の顕現は、同じ日に(「ちょうどこの日」)、エマオという村に向かって歩いていた二人の弟子たちに起こります。この二人は女たちの報告はすでに知っていますが、彼女たちへのイエス顕現については知りません。また「ガリラヤに行け」という命令も知りません。ルカの記録ではイエスはマリアたちに顕現しないからです。これがマタイとルカのイエス顕現に関する記録の第一の矛盾です。

また、すでに見たように、マタイによれば、イエスは、マリアたちに言付けて(エルサレムにいた)弟子たちに「ガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と命令したのでした。そして、実際、その命令通り、弟子たちはガリラヤの「イエスが指示しておかれた山」に行って、イエスに出会ったのでした。ところが、ルカの記録によると、エルサレム郊外のエマオという村に行く途中でイエスらしき人物に出会ったと思い込んだこの二人の弟子は、「時を移さず出発して、エルサレムに戻って」きます。すると、エルサレムでは他の弟子たちがペテロ(シモン)にもイエスが現れたと語っており、また二人もエマオでの経験を彼らに話しますが、「こういうことを話している」うちに、イエスが、(まだエルサレムにいる)彼らのところに出て来てしまうのです。しかも、そのイエスは、「ガリラヤに行け」と言ったマタイのイエスと異なって、「都にとどまっていなさい」と言って、弟子たちにエルサレムにとどまることを命じるのです。ここでも、マタイとルカの間に大きな矛盾があることが分かります。これが、マタイとルカのイエス顕現に関する記録の第二の矛盾です。

さらに、すでに見たように、マタイによれば、イエスは、ガリラヤの山の上で弟子たちに世界宣教の命令をしますが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」と弟子たちに約束します。ところが、ルカによると、女たちが墓が空であったことを報告したその日の夜、イエスは、まだエルサレムにいる弟子たちに、世界宣教を命じますが、驚くべき事に、「世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」と言ったマタイのイエスと違って、ルカのイエスは「そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き」、彼らを祝福し、「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられ」てしまうのです。つまり、マタイによれば復活したイエスは、世の終わりまで弟子と共にいるのですが、ルカによれば、復活したイエスは、その日のうちに、昇天してしまうのです。これが、マタイとルカのイエス顕現に関する記録の第三の矛盾です。

ルカの歴史観によれば、イエスの役目は終わり、これからはイエスに代わって聖霊が主役となって、神の地上での業を現すことになっています。だから、ルカにとって、イエスの昇天と聖霊降臨は、主役の入れ替わりという大きな歴史的意味を持っているのです。それに比べて、マタイは、イエスはずっとこれからも、弟子たちと共にあって神の業に参加し続ける、と考えていたのです。マタイにとってイエスの昇天は無意味なのです。


マルコの記録

すでに、何度か繰り返して述べたように、マルコの復活に関する記録は、どの写本によるかによって異なります。(「なぜマルコ伝の最終章が信頼できないか」を参照。)最も信頼されている古い写本(シナイ写本、バチカン写本1209号など)によると、二人のマリアとサロメという三人の女性が、墓の中で出会った一人の若者によって、イエスが復活したことを、告知された後、

マルコの福音書 16:8

婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。

という具合で、復活したイエスが顕現するという記録はありません。

ところが、四世紀以後に書かれた写本(レギウス写本L019号など)には、イエス顕現の記録が書き加えられているものがあります。それが、現代聖書学がいわゆる「長い結び」と呼んでいる部分です。マルコに加えられたこの部分は明らかに他の福音書の顕現記述をまとめたものにすぎず、特にルカの記録に大きく影響されていることがわかります。

「マルコの福音書の長い結び」(16:9-20)

イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。

その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いていく途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことを信じなかった。

その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを信じなかったからである。それからイエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに、福音を述べ伝えなさい。信じて洗礼を受けるものは救われるが、信じないものは滅びの宣告を受ける。信じるものには次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇を掴み、また毒を呑んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

主イエスは、弟子たちに話した後、天にあげられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至る所で宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの言葉が真実であることを、それに伴うしるしによって、はっきりとお示しになった。

一見して分かるように、ここでは、マタイやルカなどの他の福音書の記述をもとにして、復活物語がまとめあげられています。イエスがマリアへ現れた話はマタイ(とヨハネ)から、イエスが二人の弟子に現れた話はルカから、イエスの昇天はルカから、イエスが弟子と共に働き続けたという話はマタイから、といったぐあいです。しかし、マルコの「あの方は、あなた方より先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」というガリラヤ行きのテーマ(16:7)が完全に脱落していることや、イエスが昇天するところなどから、マルコへのこの加筆が、もとのマルコの思想から離れ、ルカの思想に大きく影響を受けていることが分かります。つまり、「マルコの長い結び」はマルコの福音書自体と矛盾しているわけです。

これに比べると、「短い結び」の方は圧倒的にマタイに影響されています。

「マルコの福音書の短い結び」

婦人たちは、命じられたことをすべてペテロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン。

この説では、復活した「イエス御自身」が「東から西まで」弟子たちを通して「福音を広められた」ということになっており、イエスは昇天しません。きわめてマタイ的なイエス解釈と言えます。


ヨハネの記録

ヨハネによると、最初のイエス顕現は、マタイと同じように、マグダラのマリアに対してですが、内容はまったく異なっています。マタイの場合は、マグダラのマリアと共に「もう一人のマリア」が一緒にいたのですが、ヨハネの記録では、マグダラのマリア一人です。それに、マタイによれば、イエスが顕現したのは、墓が空であったことを知ったマリアたちが「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるため走って行」くのですが、イエスはその「行く手に立っていて」、彼女たちに「おはよう」と言って現れるのです。

しかし、ヨハネによると、イエスは墓から帰る途中のマリアには顕現しません。イエスの顕現は、マリアが弟子たちに報告した後、弟子たちの中でペテロとヨハネが墓に行き、墓が空であったことを確認してから、彼らが「家に帰って行った」後で起こるのです。すなわち、その時マリアは「墓の外に立って泣いていた」のですが、その泣いていたマリアの背後から、「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」、と言ってイエスが現れるのです。

ヨハネによる福音書 20:1-18

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちにマグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペテロのところへ、またイエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置いてあるのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペテロともう一人の弟子は、外に出て墓に行った。…… [ペテロ] は中に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じところには置いてなく、離れたところに丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。……それから、この弟子たちは家に帰って行った。マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、何故泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、何故泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、何処に置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」と言う意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのは止しなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

このように、ヨハネの記録するところはマタイのそれときわめて異なり、矛盾しています。しかも、マタイと違って、イエスのマリアへの顕現の出来事を、弟子たちが墓を見に来たあとに置いてあるので、この物語りは、思いもよらず、滑稽なものとなってしまっています。すなわち、イエスは、ペテロと「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」ヨハネが、二人とも家に帰ってしまい、そこからいなくなるのを待っていて、マグダラのマリアが一人になったとき、ようやく出てきて、「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。云々」と言って、弟子たちへの伝言を預ける、というほとんどありえない話になっているのです。

さて、ヨハネの福音書も、他の福音書と同じように、イエスは弟子たちみんなが集まっているところにも顕現します。マタイと異なり、ガリラヤの山の上ではなく、ルカのように、エルサレムのある家の中で起こります。しかし、顕現したイエスの最初の行いは、ルカにおける記述と比べると微妙な相違があります。

ヨハネによる福音書 20:19-20

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。

ルカでは、イエスは「手と足」を見せたのですが、ヨハネでは、「手と脇腹」となっています。これは一見、些細な相違に見えますが、問題は、なぜヨハネでは「手と脇腹」となっているのかです。それは、ヨハネを読み進んでいけば明らかになります。
ヨハネによる福音書 20:24-29

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき一緒にいなかった。そこで、他の弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ!」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」

ルカでは「手と足」を見せたイエスが、なぜヨハネでは「手と脇腹」を見せるのかというと、この有名な、ヨハネの福音書だけに含まれている「疑い深いトマスの物語」が、そのあとに続くからです。つまり、ここでは、福音書の編集上の目的と都合によって、イエスが何をしたかが決められているのです。

さらにまた、マタイやルカやマルコの「長い結び」では、イエスが弟子たちの集まっているところに顕現するのは一度だけですが、ヨハネでは、二回に分けられています。一回目はトマスがいないとき、二回目はその八日後、トマスがいるときです。このように、ヨハネにおいては、イエスが二度に分かれて顕現しなければならないのも、ヨハネがトマスの物語を取り入れたためであり、結局のところ、イエスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」と語らせるためです。しかし、すでに見たように、ルカの福音書では、最初に弟子たちに顕現した後、「そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き」、その日のうちにイエスは昇天してしまっているのです。


ヨハネの福音書への加筆

次のような結語がしめすように、もともと、ヨハネの福音書は「疑い深いトマスの物語」で終わっていました。

ヨハネによる福音書 20:30-31

このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物には書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

ところが、現在わたしたちに伝わってきたヨハネの福音書では、この結語の後も、「その後、イエスは……」と言って、イエスの顕現物語が続くのです。つまり、かなり早い時期に、誰かによって、更なるイエス顕現物語(21章)が加筆されたのです。したがって、ヨハネには二つ目の結語があるという奇妙な事態が生じているのです。
ヨハネによる福音書 21:25

イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

もちろん、もし、これが聖霊による加筆であるとしたら、「ちょっと待て、言い忘れたことがある」と言って、聖霊が加筆者に催促したのかも知れませんが。

それでは、ヨハネ福音書に後から加筆されたイエス顕現物語を調べてみましょう。

ヨハネによる福音書への加筆部分(21:1-14)

その後、イエスはディベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出ていって、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何も取れなかった。すでに夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べるものがあるか」彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば取れるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることが出来なかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。他の弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻ってきた。陸から二百ペキスしか離れていなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今取った魚を何匹か持ってきなさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで、網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多く取れたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちは誰も「」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンをとって弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

この加筆部分によれば、弟子たちは「ディベリアス湖畔」で三度目のイエス顕現を経験したことになっています。「ディベリアス湖」とはガリラヤにある湖で、他の福音書では「ガリラヤ湖」とも呼ばれています。つまり、弟子たちは、エルサレムからガリラヤに帰ってきたことになっているのです。これは、ルカの記述から考えると、あり得ないことです。なぜなら、すでに見たように、ルカによれば、弟子たちへの最初の顕現の日に、イエスは彼らにこう言ったのです。
ルカの福音書 24:47b-49
エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなた方に送る。高いところからの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい
と。ルカによれば、「高いところからの力に覆われるまで」、つまり、聖霊降臨(使徒行伝第2章)のときまで、エルサレムに「とどまっていなさい」と、イエスは弟子たちに命令をし、しかも、その直後、
ルカの福音書 24:50-49
イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
とうわけですから、ヨハネに加筆された部分のイエス顕現物語はルカの記録と一致しません。

以上、各福音書のイエス顕現の記録を見てきましたが、マタイはルカと一致せず、ヨハネはマタイともルカとも一致しません。そして、マルコにはもともと復活の記録なく、後代のクリスチャンがマタイやルカを元に加筆せねばならないものでした。それでは次に、使徒行伝とパウロの手紙におけるイエス顕現の記録を比較検討してみましょう。


使徒行伝

「使徒行伝」はルカによって書かれた二番目の書ですが、いくつかの部分においてルカの福音書との食い違いがあり、すべてがルカ自身によるものかどうか、疑問に思われます。例えば、福音書の場合は、復活したイエスはその日のうちに「ベタニヤ」で昇天し、弟子たちはエルサレムに戻って「神殿の境内」で神を賛美し続けたことになっているのですが、使徒行伝では、「40日間」にわたって弟子たちに現れた後、イエスは「オリーブ山」から昇天し、弟子たちはエルサレムに帰ると、ある人の家の「上の部屋」で祈りづつけた、ということになっているからです。

使徒行伝 1:3-14
イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。……さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威を持ってお定めになった時や時期は、あなた方の知るところではない。あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに到るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。……使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻ってきた。……彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋にあがった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて祈っていた
しかし、イエス顕現に関して、もっとも興味深い使徒行伝の記録は、サウロの改心物語です。はじめクリスチャンたちを迫害していたサウロは、ある日イエスに出会い、改心し、パウロとして熱心なクリスチャンとなります。
使徒行伝 9:1-20
さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従うものを見つけだしたら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしはあなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行した人たちは、声は聞こえても、誰の姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起きあがって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れていった。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。

ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにいます」と言った。すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を尋ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入ってきて自分の上に手を置き、元通り目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」……

そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。

この物語りの何が興味深いかと言えば、パウロのイエスとの出会いがイエスの昇天後のことだからです。使徒行伝によれば、イエスは「御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ」た後、「彼らが見ているうちに」昇天したのです。すなわち、復活したイエスの顕現はその四十日間に限られるのでなければなりません。したがって、使徒行伝によれば、このパウロの経験は、イエスの弟子たちが経験した「死から復活したイエスの顕現」とは根本的に違う種類のものでなければなりません。しかるに、パウロ自身は、彼の経験を同種類のものと見ているのです。そこで、最後に、パウロの記録を調べてみることにしましょう。


コリント人への第一の手紙

新約聖書は、各福音書が先に来て、使徒行伝がその後に続き、それからパウロや他の手紙が来るので、福音書や使徒行伝が先に書かれたという印象を与えますが、新約聖書の中で最古のものはパウロの手紙です。そのパウロの手紙の中で、死から復活したイエスが弟子たちに顕現したことを語る唯一のものがコリント人への第一の手紙の第十五章です。

コリント人への第一の手紙 15:3-8

最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かはすでに眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました……。

キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなた方の中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です……。

パウロのこの記録によれば、イエスの最初の顕現はペテロ(ケファ)に対してです。パウロのリストにはマグダラのマリア(たち)はありません。二度目の顕現はイエスの12弟子たちです。ここまでは、ルカの記録とほぼ一致します(しかし、マタイやヨハネの記録とは大いに異なります)が、エマオに向かっていた二人の弟子はパウロのリストにはありません。問題は、この後です。パウロによれば、三度目の顕現は「五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました」というものですが、これはどの福音書にも使徒行伝にも相当する記録はありません。しかも、パウロはこの手紙を書いている当時、その「大部分は今なお生き残っています」と主張しているのです。なぜ、これが福音書に記録されなかったのか。しかも、気になることは、パウロのリストをみると、すべて、復活したイエスの顕現は信者にしか経験されていないという事実です。これらのことはわたしたちの疑心を刺激します。どうして、イエスの復活に関しては一致する証言がこんなに少ないのか。どうして、どれもこれも主観的なものばかりなのか。等々。

次に問題となるのは、パウロ自身への顕現です。パウロは明らかに、他の弟子たちへの顕現も彼への顕現も同じ種類のものとして考えています。パウロ自身は彼への顕現がどのようなものであったか、記録に残していませんが、通常、使徒行伝に記録されているサウロの改心を指すと考えられています。少なくとも、改心以前ではないのですから、復活したイエスのパウロへの顕現は、ルカの福音書や使徒行伝の記録するイエスの昇天以後であることは確かです。そうすると、パウロのこの手紙と使徒行伝とは、たいへん重要な食い違いを見せていることになります。使徒行伝では、確かに、復活したイエスが顕現したのは昇天前の四十日間だけだったはずだからです。

もし、パウロの言うごとく、イエス昇天後も、つまり、いつでもイエスは人々に現れることができ、それは、使徒行伝が記録しているようなサウロの改心の経験のようなものだとすると、さらに大きな疑問が生まれてきます。そもそも、イエス顕現のさまざまな証言は、死んだイエスが復活したことを証明するはずのものだったのです。ところが、サウロの改心経験における「イエスの顕現」なるものは、死人の復活を証明するような、特別の顕現ではないからです。パウロはイエスの声を聞いただけです。アナニアに到っては、イエスは「幻の中に」現れたにすぎません。こんな程度の宗教現象はどこにでも転がっています。死人の復活を証言できるようなものではありません。

パウロは、彼へのイエス顕現も他の弟子たちへのイエス顕現も、同種類のものとして見ていますから、逆に考えると、そもそも、初めから、弟子たちやマリアたちへのイエスの顕現なるものは、パウロの経験と同程度のものだったとも考えられます。そういえば、エマオに向かっていた二人の弟子たちの経験したイエス顕現も、「すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」といった程度の、きわめて頼りないものでした。だから、この二人は「道で話しておられるとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と確認しようとしたのです。しかし、「心が燃えていた」というようなことが、死から生き返ったイエス顕現の証拠になるのでしょうか。そればかりでなく、この二人はイエスの復活を信じるために、顕現したイエスに、聖書にキリストは復活すると書いてある、と教えられねばならなかったのです。パウロも、イエス顕現について、それがいかにリアルであったかを説明するより、結局、「聖書に書いてあるとおり三日目に復活した」というように、聖書の権威によりかかろうとします。実は、パウロは改心する前から、ファリサイ派のユダヤ教徒であり、初めから、死人の復活を熱心に信じていた人だったのです(使徒23:6-8)。


顕現記録の歴史

イエスの顕現の記録について、ひとつ注目すべきものがあります。それは、後代に書かれたものほど、顕現の内容が具体的、豊富になっている、という事実です。各福音書、使徒行伝、パウロの手紙を、書かれた順序にならべてみると、最初に書かれたのがパウロの手紙、次がマルコ、そしてマタイ、ルカ・使徒行伝、最後にヨハネです。

パウロの記録は、西暦50年代に書かれたものですが、すでに見たように、だれに顕現したかを述べる単なるリストであって、顕現の内容はまったく書かれていません。マルコ(古い写本)にも顕現の記録はありません。マタイに至ってはじめて、顕現の内容がの記録されていますが、きわめて単純なものでした。ルカ・使徒行伝は、エマオの二人の経験が具体的です。しかし、最も内容が具体的で豊富なのは、最後に書かれたヨハネです。ヨハネは西暦90年から西暦100年の間に書かれたものとされていますが、疑い深いトマスの話や魚が153匹取れた話など、大変興味深い物語が盛り込まれています。

この事実は、復活したイエスの顕現の伝承が、初めは単純なものだったのが、時間がたつに連れて、枝葉が付けられて、だんだん具体的な話が追加されていったことを示しています。これは、どんな物語も、口承伝承で、人から人に伝わってゆくうちに、だんだん枝葉がついてゆくという、一般法則にも合致するものです。


結論

イエスの復活に関する記録は、聖書全体の中でも最も矛盾の多い部分ですが、そのなかでも、特にイエスの顕現そのものに関する記録は、各福音書、使徒行伝、パウロの手紙、それぞれが独自の記録を持っていて、その証言がほとんど一致しません。それはまるで、被告人のアリバイを立証して、無実を証明しようとして呼んだ複数の証人たちが、それぞれ、熱心に、「被告人は事件当時わたしの家にいました」と証言するようなもので、証言そのものが被告人を窮地に追い込むのに似ています。イエスが死から復活したことを証明しようとして、マタイやルカやヨハネやパウロは、それぞれ、「イエスがわたしに現れた」と熱心に主張する証人を沢山登場させるのですが、彼らの証言がお互いに矛盾しているために、イエスが復活したという話がますます信じられないものになっているのです。しかも、弟子たちやパウロのもともとの顕現経験そのものさえ、瞬間的に消えたり、声だけだったり、幻の中だったり、結局聖書の権威に寄り掛からねばならなかったりして、客観性の欠如した、きわめて頼りのないものですから、彼らの証言はますます説得力のないものとなっているのです。