このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。
00年8月30日
佐倉 哲様 00年9月24日
かつては系列企業における下請け会社にすぎなかった企業(日本)が、自らの力によって商品と市場を積極的に開拓して、親会社(米国)がなくてもやっていけるようになることです。わたしが、前回、
と言ったのは、そういうことです。それは、単なる経済問題(「終わってみたら、依存度は○○%だった」)ではなく、哲学的・政治的選択(生き方の選択)の問題でもあると思います。下請け会社がそのまま下請けのまま生存し続けるか、親会社がなくてもやっていけるようになるかは、その会社の企業哲学とその主体的選択にかかっているのではないでしょうか。
同じようなことは国家としても言えると思います。親会社がなければやっていけない下請け会社は、どんないやな要求でも、親会社の言うことを聞かなければなりません。日本が、必ずしも望ましいと思われない米国の要求をしばしば飲まざるを得ないのも、同様な関係(依存度の高さ)があるからではないでしょうか。自立とは、そのような関係から解放されることです。
しかし、どうやってコントロールするのかという点になると、誰も具体的な話ができません。これも当然です。そんな方法はないからです。
下請け会社が自立するためになすべき最初のことは、今まで親会社ばかり見ていた眼を、世界中に向けることでしょう。日本が対米依存度を低下させることができるかどうかは、他国の市場開拓にかかっています。しかしながら、東南アジアにバイク1台を売るのと、米国に高級自動車1台を売るのとでは、まるで事情が異なっています。そこで、問題は、米国以外の諸国、とくに日本の場合は、アジア諸国の購買力の増加ということになります。(「作者より柳田俊一さんへ」参照)
わたしは、アジア諸国の購買力は、日本が何もしなくても、基本的に、増加していくと思いますが、そのスピードや程度は、日本のアジア政策と無関係ではないと思っています。もし、日本のアジア政策が、アジア諸国全体の購買力を高めるか否かに関係しているとすれば、日本は対米依存度をコントロールする(というか、影響を与える)ことができる、ということになるのではないでしょうか。
アジア諸国の購買力の増加 -- アジア諸国の経済力が日本や米国と同じ程度までに発展すること -- を21世紀の日本の国家目標の一つとすることは、明治維新の「欧米に、追いつけ追い越せ」や、大戦後の「アメリカをまねよ」といった種類の国家方針からの大きな転換を意味します。このような国家目標を立てることは一人勝ちに執着する米国にはおそらくできないでしょうが、日本にはできるとわたしは考えています。
誤解はないと思いますが、念のためにいちおうひとこと付け加えておきます。これは、もちろん、社会主義者の平等主義の哲学や、人道主義者の憐愍感情からやるのではなく、あくまでも、アジア諸国の購買力の増加が日本の国益(バイクだけではなく高級自動車が売れること、日本経済の選択の自由度が拡大すること)につながるからそのような国家目標を立てるのだ、ということです。
こんにちは。流木です。コメントをいただき、ありがとうございました。以下、コメントを読ませていただいた感想を述べたいと思います。私の疑問点は、(1)経済的自立とは何か?、(2)依存度はオペレーショナルか?という2点に集約できます。
【経済的自立とは?】
日本はこの事態を利用して、日本の米国市場への依存度を軽減して、米国から自立することを日本経済の長期的国家目標とすることを宣言するチャンスにすればよいと思います。
とのことですが、ここでいわれている「経済的自立」とはどのような意味で使われているのでしょうか?
かつて一部の発展途上国では旧宗主国からの「経済的自立」のために、輸入品を国産品で置きかえる政策が推進されたことがあります。いわゆる輸入代替政策というものです。例えば、インドは自動車を輸入していたので、国産自動車に置きかえることができれば、その分輸入が減るという理屈です。
実際には、経常収支の赤字・黒字はその国の貯蓄と投資との差額に等しい(貯蓄超過なら、経常収支は同額だけ黒字。投資超過なら、経常収支は同額だけ赤字)ので、特定の品目の輸出を抑制できたとしても、他の品目の輸入が増えるか、輸出が減るかして総額としての経常収支に変化は起きません。しかし、経済学の初歩的な理論に疎い政策当局は、輸入代替政策こそ自国の経済的自立に資するものと信じて疑わなかったのです。
仮に、経済的自立が輸入代替的な政策であるならば、その行きつく先は鎖国(自給自足経済)しかありません。輸入品を総て国産品で代替しようとすれば、究極的には鎖国になります。鎖国に近い政策をとっている国は、世界では北朝鮮ぐらいではないでしょうか?
貿易をやめてしまえば、日本に住む人々の生活が太平洋戦争末期よりもひどい状態に陥るであろうことは、容易に想像できると思います。国内の労働を含む資源は有限なのですから、「あれもこれも」作ろうとすれば、どれも不充分にしか作ることができません。生活水準の大幅な低下(おそらくは多数の餓死者)を覚悟しなければ、鎖国政策に踏み切ることはできないのです。
佐倉様のおっしゃる「経済的自立」とは、私がいま述べたような「鎖国」ではなく、貿易の相手国として米国のシェアを減らしていこうというご趣旨だと思います。
【対米依存度はオペレーショナルか?】
ただ、その場合に問題になるのは、対米(対日)依存度なるものは、あくまでも結果的に決まるという点です。終わってみたら、依存度は○○%だったとなるわけで、政策的にコントロールし得るものではありません。米国が日本政府に要求した「数値目標」同様に、政策でどうにでも動かせるいった性格のものではないのです。
「数値目標」が目標たり得ないことは、米国が日本製品の米国市場でのシェアをコントロールできていないことからも明らかです。日本政府に日本市場における米国製品のシェアをコントロールできるのであれば、米国政府も同じやり方で日本製品のシェアをコントロールできそうなものです。しかし、米国政府は日本の自動車業界に輸出の「自主規制」を要求することはあっても、具体的な政策手段を用いて日本製品の米国市場におけるシェアをコントロールしたことはありません。やらなかったのではなく、そんなことはやりたくてもできなかったのです。その意味では、米国政府は自分でできないことを他国の政府(日本政府)に要求しているわけで、論理的にみれば支離滅裂な対応というしかありません。
もし、対米依存度を低下させるのが国家目標というのであれば、日本の政策当局が何らかの手段で対米依存度をコントロールできなければなりません。コントロール不能な目標など意味はないのです
から、これは当然ですね。
しかし、どうやってコントロールするのかという点になると、誰も具体的な話ができません。これも当然です。そんな方法はないからです。
米国が要求した「数値目標」にしても、せいぜい「日本政府が責任を持て」と主張したにとどまりました。弁護士出身者の多い米国通商代表部には、その程度のことしかいえなかったわけですが、仮に彼らが経済学を学んでいたとすれば、そもそも数値目標を掲げること自体がナンセンスだと気がついたことでしょう。政策当局にとってオペレーショナルでない目標(達成のための具体的な政策手段があり得ない目標)を掲げても、無意味なのですから。
ということで、私の理解では、佐倉様がコメントで述べられた経済的自立や対米依存度の低下云々は、国家目標たり得ないと考えます。価値観の問題ではなく、事実としてムリなのです。仮に、経済的自立と対米依存度の低下に国民的広い支持があったとしても、具体的な政策手段がない以上、実践のしようがありません。
流木
(1)経済的自立
ここでいわれている「経済的自立」とはどのような意味で使われているのでしょうか?
米国市場は、それがあれば利用するが、それがないからといって、世界がやっていけないわけでもない。そういう世界を造るために努力するのが、日本の取るべき選択だ・・・
(2)対米依存度を意図的に低下させることは実現可能か
もし、対米依存度を低下させるのが国家目標というのであれば、日本の政策当局が何らかの手段で対米依存度をコントロールできなければなりません。コントロール不能な目標など意味はないのですから、これは当然ですね。
おたより、ありがとうございました。