はじめまして,渡辺比登志と申します。 「聖書の間違い」を拝読しています。
貴殿の勇気と大変なご努力には大いに感服しておりますが, 聖書に関して若干の勉強をした者から見て, 少なくとも今世紀における新約聖書学の成果をどのように 捉えていらっしゃるのかという点で,疑問を禁じ得ません。
そこで,ご多忙中とは存じますが,私のページをご高覧賜りたく, お願い申しあげます。 長谷川順旨さんとのやりとりを拝見して,田川建三氏のことを あまりご存じないようでしたので,お知らせ申しあげる次第です。 ご感想をお聞かせいただければ幸いです。
http://www.asahi-net.or.jp/‾qh4s-kbym/wtnb2.html
また,「奇跡・復活」に関する私見を述べております下記のページも 併せて参照していただければ幸いです。
http://www.asahi-net.or.jp/‾qh4s-kbym/wtnb.html
田川建三著『イエスという男』の書評をたいへん興味深く読ませていただきました。わたし自身この本を読んだことがないし、長谷川順旨さんにも申し上げたとおり、田川氏の著作にもあまり接しておりません。したがって、ほとんどなんの理解も出来ていないのですが、書評を読んで感じたままを述べさせていただきます。
もし、 渡辺さんの解説されるように、この書が、「イエスはキリスト教の先駆者である」という「今世紀の欧米と日本の先進的なキリスト教神学が到達した結論」を否定して、「イエスはキリスト教の先駆者ではない」という結論を下しているとすると、確かに、この書は「驚くべき書」である言わねばなりません。そのような革命的な主張をするためには、しかしながら、それなりの革命的な発見あるいは方法論がまずあって、その主張を根拠づけているのでなければならないと考えられますが、いったいいかなる根拠をもって、田川氏はこの革命的主張をなされたのか。わたしは、ここに興味を引かれるのですが、渡辺さんの書評ではその点の解説があまり明確ではないように思われます。
とくに、史的イエスの復元は不可能である、という今世紀の神学に対するひとつの批判的結論は、イエスに関するこの書自身の一連の断定 -- 「イエスはこの世に真理を伝えるために訪れた者ではない・・・」「イエスはただ、彼を取りまく日常的空間の中で起こる出来事の一つ一つ・・・に、いささか愚直なまでにこだわっただけなのだ・・・」「イエス自身にとってはそれらはどうでもよいことではなかっはずだ・・・」「イエスは決して誤解されたのではない・・・・少なくともユダヤとローマの支配者権力には、きわめて正確に理解されていた・・・」等々 -- といささか矛盾するのではなかろうかとも思われるからです。
田川氏だけが、他の神学者が持っていない特別の歴史的資料を持っていて、それを根拠にして新しい主張を展開されている、というようなことはあまり考えられないので、やはり、他の神学者も利用している同じ資料に対して、なにか新しい解釈・分析を施された、ということだろうと思います。そうすると、その方法というものがどの点において、今までの方法よりすぐれているのか。書評を読みながら、わたしとしては、やはり、その辺のところがもっとも気になりもし、また少し物足りなさも感じました。
しかしながら、全体としては、この書評は、読む者をして「う〜ん、ちょっとおれもその本を読んでみようかな」と思わせるところが多々あり、とてもおもしろいものでした。また、大江健三郎批判も読ませていただきましたが、とても共感するところがあり、勝手ながら、わたしのリンク・ページに紹介させていただきました。