初めまして。

あなたのサイトを見て反論があるのですが、永遠の命は旧約と新約とで断絶がある(「永遠の命の思想」)そうですが新約は主にダニエルの言ったことを伝えているのです。よみがえりと永遠の命は

ダニ12:2 また地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう。
と旧約にも書かれているとおりです。新約の終末思想についてもダニエルの終わりの日の預言から来ているのではないのでしょうか。

しかも、善悪の木を食べたあとも神は永遠の命について語っています。善悪の木の実を食べたときから、永遠の命への可能性は、否定されてはいないのです。


ご指摘の通り、確かにダニエル書の12章には、「ある者は永遠の生命に入り・・・」(2節)とあります。また、「新約は主にダニエルの言ったことを伝えている・・・」と指摘されていますが、ダニエル書の思想と新約聖書の思想との間に深い関係があることも事実です。

わたしは、「永遠の命の思想」において、次のように主張しました。

キリスト教(新約聖書)は「永遠の命」の宗教です。キリスト教の救いとは「永遠の命」を得ることです。キリスト教における信仰者の究極的目的は「永遠の命」です。しかし、このことは、キリスト教が本来の聖書(旧約聖書)の伝統から逸脱した宗教であることを意味しています。本来の聖書には「永遠の命」の思想なるものは存在しないからです。
現代聖書(批評)学者の指摘が正しければ、ダニエル書の7章から12章までは、西暦前167前後に書かれたものであって、わたしの言い方をすれば、本来の聖書(旧約聖書)には属しません。

ダニエル書のこの部分は、厳密に言えば、西暦前2世紀から西暦後1世紀の間に世に出回った、いわゆる、「聖書外典」とか「聖書偽典」と呼ばれていて、後にユダヤ聖典(旧約聖書)から取り外された一群の諸書と同種の書であって、たまたま、ユダヤ教の「正典」に取り残されたものです。(外典が正典のなかに取り残される例は、カトリックの聖書などに顕著で、そこにはたくさん「聖書外典」が「正典」の中に取り残されています。たとえば、ダニエル書の3章23節と24節の間に、「アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌」(24節から90節)がカトリックの聖書にはそのまま取り残されています。新共同訳では、「ダニエル書補遺」として「スザンナ」や「ベルと竜」とともに「旧約聖書続編(第二正典)」に収められています。)

素人が読んでも、ダニエル書の6章までの部分と7章以降の部分が別々の人物によって書かれたのだろうということは、翻訳からでも容易に想像できます。メッセージの内容も、登場人物ダニエルの素描も、甚だしく異なっているからです。前者は異国の宮廷で成功したイスラエル出身の賢者としてのダニエルの英雄物語ですが、後者はダニエルの名を借りて終末思想を語る黙示文学です。

ダニエル書と新約聖書が深い関連を持っているのは、まさに、この黙示文学としてのダニエル書にあります。新約聖書(キリスト教思想)は、一世紀の中頃、ユダヤ教の終末思想・黙示文学運動の一つとして生まれたものだからです。

なぜ、終末思想・黙示文学運動が、西暦前2世紀ごろ生まれてきたのか、という問題については、さまざまな推測がなされていますが、ローマ帝国のユダヤ迫害などがその有力な原因の一つとしてあげられています。終末思想・黙示文学はすべて、世界の権力の崩壊と新しい神の国の出現を寓話的に描き出したものですが、実際は、ローマ帝国支配の崩壊とイスラエルの復活の希望を、ローマ帝国支配のもとではあからさまに語るわけにはいかないので、暗喩で語ったものです。

死人の復活とか、永遠の命というような概念は、この終末運動・黙示文学の流行の中で生まれたものです。 ヤーヴェ崇拝を捨てることを強制するローマ帝国の命令に背き、ヤーヴェ崇拝を固持したために、殺されていった仲間のユダヤ人たちが、そのままであるはずはない、必ず彼らの信仰は報われる、という信仰がこの時代に生まれたのだと思われます。

ダニエル書の場合は、アンティオコス4世エピファーネスのユダヤ迫害(ヘレニズム化政策強行)が、その背景になっています。われわれは苦難を目にしている、しかし、希望を捨てるな、神はイスラエルをローマ帝国の支配から救って下さるときが来る、とかつてイスラエルの賢者ダニエルが書き残しているではないか、というのが、この(ダニエルの名を使って書いた)偽書「ダニエル書」のメッセージです。

ダニエルは、眠っているときに頭に幻が浮かび、一つの夢を見た。彼はそれを記録することにし、次のように書き起こした。

ある夜、わたしは幻を見た・・・
すると見よ、ひとの子のような姿の者がわたしの唇に触れた・・・
ひとのようなその姿は、再びわたしに触れて力づけてくれた・・・
彼は言った。

その時、大天使長ミカエルがたつ。
彼はお前の民の子らを守護する。
その時まで、苦難が続く
国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。
しかし、その時には救われるであろう
お前の民、あの書に記された人々は。
多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。
ある者は永遠の生命に入り、
ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。 目覚めた人々は大空の光のように輝き 多くの者の救いとなった人々は とこしえに星と輝く。

ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう・・・

(ダニエル書 7:1b-2a, 10:16a, 10:18a, 10:20a, 12:1-4b)

ここに「これらのことを秘め、この書を封じておきなさい」という封印の言葉がありますが、黙示文学とは、そもそも、アダムやエノクやモーセやダニエルなどの伝説的人物の名をかりて、これらの偉人が、実は、われわれの生きている時代(ローマ支配の迫害時代)こそが苦難の時代が終わり、神の救いが実現する時代なのだ、ということを予言をしていた、という主張の宗教文学ですから、それでは、なぜいままで誰もそのことを知らなかったのかということを説明するために、必ず、その書は神によっていままで封印されていたのだが、時が満ち、いまその秘密が明らかに示される(黙示・啓示)、という話が必ずつけ加えられているのです。

このような宗教運動が生み出した数多くの書のうちの一部として、ダニエル書(西暦前2世紀)も書かれたわけですが、よく知られているように、一世紀の後半、ユダヤ教のラビたちは、この終末運動・黙示文学が生み出したほとんどの書を「正典」として認めなかったために、それらは現在、「外典」「偽典」として、わたしたちに知られています。

ところが、ユダヤ教の伝統の中から見れば、この終末運動・黙示文学は、一時的な流行にすぎません(つまり本質的なものではない)から、終末運動・黙示文学を取り除いても、宗教は存続しますが、キリスト教は始めから、この終末運動・黙示文学の運動のひとつとして生まれたものであって、これを取り除けばキリスト教のほとんどの特徴が失われてしまいます。ここに、「永遠の生命」というテーマから、旧約聖書と新約聖書を眺めたとき、そのあいだに深い断絶を発見できる大きな理由があると思います。

もう一つの理由としては、イスラエルがローマ帝国の支配のもとにあった時代は、同時にユダヤ人がヘレニズム文化の影響を大いに受けた時代でもあるところにあります。よく知られているように、人間には肉体とは別に魂があって、肉体は滅びても魂が生き続けてゆくというのは、ユダヤ教の伝統ではなく、ギリシャ・ローマ思想の伝統のなかにあるものだからです。この意味でも、「永遠の命」の概念は本来の聖書(旧約聖書)の伝統ではありません。