イエス・キリストが神であるかどうかは、人間には分からないんじゃないでしょうか? もしイエス自身が「自分は神である」と主張しているなら、少なくともキリスト教に おいては神なんだろうし、そう言わなかったのなら、いくら弟子やら使徒やらが神 です主ですと叫んだところで、人間の言った言葉なんて気にすることはないでしょう。 私だって好きな男性を「私の神様」って呼ぶことありますから。

大体、もし本当にイエスのことを神だと思っていたら、磔にされる時みんな逃げなか っただろうし、復活したから、ああやっぱり神だったんだと言うのなら、とにかく その復活部分を詳しく証明すればいいんじゃないでしょうか?


イエス・キリストが神であるかどうかは、ご指摘の通り、「人間には分からない」と、わたしも思います。この問題に関する私の興味の中心は、本来の聖書(ユダヤ教教典、旧約聖書)の伝統とキリスト教の思想との間にある矛盾・断絶にあります。

聖書(ユダヤ教教典、旧約聖書)を読めば、それが、神以外のものを神として崇めること(偶像崇拝)を最大の罪としていることが、強烈に感じられます。たとえば、十戒をみても、

おまえにはわたし以外の他の神々があってはならぬ。
が、第一の戒めとして与えられており、
殺してはならぬ。
は、第六番目の戒めです。そこで、神以外のものを神とすることが死に値する罪であることが、しばしば語られています。

イエスもイエスの直接の弟子たちもすべてユダヤ人であり、この聖書の伝統はよく知っていたわけです。したがって、ナザレの大工の息子(イエス)を、彼らが神と同一視することは、とても考えられません。福音書の記述から想像できるように、イエスの直接の弟子たちは、イエスを神からの救い主(メシア、キリスト)と期待していたのだと思います。イエス処刑の理由も、それによると、イエスが「ユダヤ人の王(メシア)」として信じられていたことでした。

ところが、四世紀の二ケア会議の頃までには、キリスト教がイエスを神と同一視するようになっていたのは明らかです。そして、その頃までには、ユダヤ人のクリスチャンは消滅していたのです。ユダヤ教の伝統の中からユダヤ人によって始められたキリスト教は、そのころまでには、「ユダヤ人抜きのキリスト教」に変質していたのです。

わたしの関心はここにあります。「メシア(キリスト)としてのイエス」から、「神としてのイエス」への思想変化過程は、「ユダヤ人のキリスト教」から「ユダヤ人抜きのキリスト教」へのキリスト教変化過程と同期であり、わたしには偶然とは思われません。もし、キリスト教がユダヤ人を含む宗教運動であり続けたならば、聖書の伝統からの大きな逸脱である、神以外の者(ナザレの大工の息子=人間)を神とするようなことはなかったであろうと思われるからです。

実際、二世紀にはまだ存在していた、「エビオナイト」(Ebionites, Ebionaioi, Ebionaei)と呼ばれたユダヤ人のクリスチャンたちは、マリアの処女懐胎を信ぜず、イエスは、「神」としてではなく「預言者」として信じられていました。彼らの信じていた事柄は断片的に初期の教会教父たちの引用の中に残されていますが、それらはまとめて「エビオナイトの福音書」(The Gospel of Ebionites)として、今日知られています。

ところが、新約聖書のうちでも、後期(一世紀の終わり頃)に書かれた書であるヨハネの福音書などには、すでに、反ユダヤ主義の傾向が強く現れています(イエスの敵対者たちは、「祭司長」や「律法学者」としてではなく、「ユダヤ人」として記述されている)が、二世紀になると、キリスト教の中でも、たとえば、マルキオンの教会のように、ユダヤ教の伝統である旧約聖書そのものを否定するような運動も現れます。しかし、なによりも、三位一体などの後代のキリスト教理を確立するのに大きな役割をになった初期の教会教父たちの中には、たとえば、テリトリアヌスのような、あからさまな反ユダヤ人主義者が現れたことが、キリスト教の中にユダヤ人の居る場所をほとんど不可能にしてしまったのだろう、とわたしは想像しています。

つまり、キリスト教からユダヤ人およびユダヤ教の伝統を排斥してしまった歴史的事実が、やがて、神以外の者(ナザレの大工の息子=人間)を神とするようなキリスト教教理の確立の土台を造った、と考えられるのです。神以外の者を神としてはいけないという伝統の欠落する世界(ローマ、日本)では、奈々さんがいわれるように、人間を「『私の神様』って呼ぶこと」に、なんの躊躇もいらないからです。

大体、もし本当にイエスのことを神だと思っていたら、磔にされる時みんな逃げなか っただろうし・・・
というのは、まったく、そのとおりで、始めは、イエスが人間であることはあまりにも明白なことだから、別に、わざわざ、「イエスは人間である」ということを主張することもなかったわけです。
復活したから、ああやっぱり神だったんだと言うのなら、とにかく、その復活部分を詳しく証明すればいいんじゃないでしょうか?
というのも、まったくその通りで、そのために、わたしも詳しく、新約聖書の復活の記述が信頼できない理由を挙げたのですが、それに対する、クリスチャンの方からの詳しいご意見はまだ頂いておりません。