始めまして。
失礼ながら貴方のホームページの全文はまだ読んでいないのですが、少し気になった事がありましたので、質問させて頂きます。
98年2月5日のhirao様のご意見に対する貴方の反論の中で 貴方は
「聖書には間違いがあるが、それでも正しい」というような奇妙な強弁が生じたりするのは、このような信仰の性質のゆえではないでしょうか。信仰とは、必ずしも喜ばしいとは限らない真実を直視することより、救われたい欲求ばかりを先行させることにすぎないのではないでしょうか。とおっしゃっていますが、貴方は信仰そのものを批判しているのですか。 是非貴方の「信仰」という言葉の定義とそれに関する貴方のお考えをお教えいただきたい。
信仰とは知らないことをまるで知っているかのように確信すること、というのがわたしの理解です。キリスト教に関して言えば、神や天使や悪魔の存在、神の性質、神の約束、原罪、イエスの死による贖罪、イエスの復活、キリストの再臨、聖書の不可謬性、死後の世界、最後の審判、などについて確信することです。
知らないことを確信しなければならない動機はどこにあるのでしょうか。なぜ、知らないことは知らないとして素直に認める(つまり疑わしいままにしておく)ことができないのでしょうか。一体、信仰は何を根拠に成立しているのでしょうか。わたしはこの疑問に直面して、それは「救われたい欲求」ではないのか、と考えるようになったのです。
もし、「救われたい欲求」以外のものを根拠として信仰というものが成立しているなら、是非、そのような例を、信仰者のみなさんに教えていただきたいと思います。