始めまして。貴方のホームページは大変深い関心を持って見させていただい ています。

J.S.ミルの有名な言葉に「満足した豚より不満足なソクラテスの方がま しだ」というのがありますが、ネット上にあふれる満足した豚のホームページ 群の中で、数少ない不満足なソクラテスのホームページとして、高く評価させ ていただいています。おそらく今後、貴方のホームページに対する評価は公然 のものとなるでしょうし、現代において思索するということを最新のメディア の中で理想的な形で展開することに成功したものとして、例えば哲学界や神学 界の中でも無視できない存在となっていくと思います。そして、そういうこと が刺激となってネット上にもっと不満足なソクラテスのホームページが増加す ることが私の願いです。

しかし一方で、私が唯一危惧するのは、貴方が高い評価に満足し、いつの間 にか満足したソクラテスに成り下がってしまわないか、ということです。例え ば、Tadさんとのやり取りではこのことは非常に危うい感じがします。 Ta dさんは基本的に対話的・共感的であろうとしているのに対し、貴方は明らか に勝つための議論をしているように見えます。つまり、Tadさんは防備をせ ずに普通に語っているのに対し、貴方はしっぽをつかまえられないように慎重 に立ち回り、相手がしっぽを出したらすかさずそれをつかもうとします。だか ら、Tadさんが「佐倉さんのコントロールの下にあるサイト」、また「議論 の流れを自分の側に引き寄せた形で情報を公開する」と批判している意味は私 には分かる気がします。貴方もこういった批判を正面から受け止める感性を持 つ努力をされないと、満足したソクラテスに成り下がりかねないと私は危惧す るわけです。もちろん、貴方が反論しているようにTadさんの発言自体に何 の加工もせずに公表していることは事実でしょうが、問題は対話する相手がそ ういう不本意な印象を持っているということです。そういう印象を与えてしま う在り方がご自身にありはしないか、一度よくお考えになる余地があるのでは ないでしょうか。

さて、満足したソクラテスは一定の思想的レベルに達してはいるのですが、 自己批判の余地がない、出来上がってしまったソクラテスです。これは、対話 の余地がなく進歩の余地がないという意味で、満足した豚と全く変わらないも のです。そして、この満足したソクラテスのホームページもまたネット上にあ ふれているのです。そういう意味で貴方が「批判を受けるため」にホームペー ジを開設しているという意図は、まさに不満足なソクラテスに固有なものなの です。つまり、探求されている真理こそが目的であり、その真理の探求のため には批判を受けることが有益だということであって、もし自分の探求という行 為への思い入れに重点が置かれていれば、むしろ批判は受けたくない、自分の 考えどおりに多くの人が納得してくれればそれで満足ということになります。

ところで、私自身も既成の価値に満足できず、世の価値主張を自分なりの批 判の炉に投げ込み、不純物を焼却し、そして最終的に残るものが何なのかを見 定めることのみが、私の存在理由だと考えていますが、そういう私自身の思索 する営みにとっても貴方のホームページは真理への契機を多く含んでいるよう に見えます。そして私自身が、考えることによって貴方のこのサイトに参与す るために、いくつかの質問をさせていだきたいと思います。

まず貴方はご自分を内村鑑三の弟子と位置付け、内村からの引用もご自分の 個々の主張を裏付けるためではなく、言わば表看板としてこのコーナーの入口 に表示し、全体を貫く基調音として提示しています。確かに内村の持っていた 「真理への苛烈さ」と貴方の姿勢には相通じるものを感じますが、私の理解す る限り内村は貴方が批判している保守的な聖書主義の日本における先駆者であ り、また第一人者の一人と言っていいと思います。もちろん最初から明確な聖 書主義を打ち出していたのではないですが、特にアメリカ留学後はこの立場は 明確になっていると思います。とすれば、貴方が御自身を内村の弟子と位置付 ける理由は何ですか。

次に、貴方はDavid Ahnさんの質問に対する答えとして、「神を信 じたくて、ながいキリスト教遍歴の年月を過ごしました」と告白していますが、 ここで言っているキリスト教とは保守的な神学に基づいたキリスト教なのでし ょうか、それともリベラルな神学に基づいたキリスト教なのでしょうか。

最後に、やはりAhnさんの2番目以降の質問への答えとして貴方が語って いることや「聖書の間違い」の中で学会の常識として語っていることは、新正 統主義の中でもかなり左寄りのブルトマン流の立場だと見受けられますが、少 なくともブルトマンはキリスト者であり新正統主義もキリスト教の一つの立場 です。貴方自身は信仰を持たない立場にいながら、これらのキリスト教の立場 に非常に近い位置に立っているということはどういうことなのですか。もっと 言えば、例えば無信仰者が無神論の立場からキリスト教を批判するということ は一貫性があり、私にも理解できますが、無信仰者がリベラルな神学の立場か ら保守的な神学を批判するということはいったいどういうことなのですか。私 にはこのことがどうも理解できません。

もちろん貴方は、ご自分はリベラルな 神学に立ってはいない、客観的に聖書の無謬性の検証を行っているだけだ、と おっしゃることでしょう。しかし、そう言ってしまうには、貴方は色々なとこ ろで(特にTadさんとの対話の中で)ご自分とリベラルな神学を同一視しすぎて います。そこで、客観的に「白いカラスを探す」という建前の方法論とは別の ところで、実はリベラルな神学というキリスト教のある特殊な立場から、保守 的な神学というこれもまたキリスト教のある特殊な立場を批判しているのに過 ぎず、しかもそれを行っているのが無信仰者であるという、二重に怪しい在り 方だとは言えないでしょうか。言い換えれば、私がここで問題にしているのは、 「白いカラスを探す」という方法論はそれ自体反論不可能な一貫性を持った方 法論ですが、はたしてこの方法論のみがこのコーナー全体にわたって貫かれて いるのかどうかということです。

それでは回答をお待ちしています。

MIW

本サイトを「数少ない不満足なソクラテスのホームページとして、高く評価」していただいて、ありがとうございます。そしてまた、本サイトが「高い評価に満足し、いつの間にか満足したソクラテスに成り下がってしま」う危険をはらんでいるという大変適切なご忠告も、肝に銘じておきたいと思います。

Tad さんとのやり取り(「Tadさんとの論争」参照)に関しては、わたしが意見の相違点だけに注意をはらっていたために、Tadさんの本当に言いたかったことを十分に理解していなかったのではないかと反省しています。また、

問題は対話する相手がそういう不本意な印象を持っているということです。そういう印象を与えてしま う在り方がご自身にありはしないか
というご指摘は、まことに的を得たものと思います。わたしはもっと反省せねばなりません。ただ、
Tadさんは基本的に対話的・共感的であろうとしているのに対し、貴方は明らかに勝つための議論をしているように見えます。つまり、Tadさんは防備をせずに普通に語っているのに対し、貴方はしっぽをつかまえられないように慎重に立ち回り、相手がしっぽを出したらすかさずそれをつかもうとします。
というご指摘は、事実の一面を捉えているとは思いますが、全体としては、少々不正確なご指摘だと感じます。Tadさんは単純に「対話的・共感的」でもなく、また、わたしはただ相手の尻尾を捕まえるために立ち回っていただけではありません。対話に意見の相違があれば論争は生まれますし、また、論争があれば勝負の意識も当然生まれます。スポーツであれ論争であれ、人が勝とうとするのは自然だと思います。わたしは人間の勝とうとする意志を否定しません。わたしはただ、論争において大切なのは、勝負の結果よりも、その過程においてさまざまな真実や誤謬が明らかになることだ、と思っているのです。この点において、Tadさんとのやり取りが、わたしの失敗も沢山あるにもかかわらず、価値あるものと認められることを願ってやみません。


質問1
私の理解する限り内村は貴方が批判している保守的な聖書主義の日本における先駆者であり、また第一人者の一人と言っていいと思います。……とすれば、貴方が御自身を内村の弟子と位置付ける理由は何ですか。
わたしが自分自身のことを内村鑑三の弟子というのは、わたしが人格的に内村に傾倒していて、わたしは彼のような人間でありたいと思っているからです。かれはわたしがもっとも尊敬する人物のひとりなのです。他の多くのクリスチャン思想家の場合と大きく異なって、内村の言葉は、わたしがクリスチャンであったときも、そうでない今も、わたしの全人格をゆり動かす力をもっているのです。たとえば、ミケランジェロやバッハの作品が、キリスト教という狭い枠を遥かに超越して、わたしがクリスチャンであろうとなかろうと否応なしにわたしを魅了するように、内村の言葉はキリスト教を超えて、人の心に働きかける力を持っているのです。

もちろん、MIWさんが指摘されるように、内村のキリスト教は聖書中心主義であって、キリストと聖書を彼から取り除けばなにも残らない、と内村自身が言うでしょう。それにもかかわらず、かれの残した言葉を読むと、かれが聖書主義あるいはキリスト教という小さな世界に収まりきれない宗教思想の持ち主であったことが明らかとなります。たとえば、かれは

余のキリスト教研究は聖書本意である。その始めが聖書であって、その中が聖書である。しこうしてまたその終わりが聖書であるのである。聖書である、聖書である。余は聖書以外にキリスト教を求めないのである。(大正2年)
と言いながら、日をあまり隔てず、
疎石禅師の言にいわく「わが身を忘れて衆生を利益する心を起こせば、大悲内に薫し、仏心と冥合す、ゆえに一身のためとて修せずといえども、無辺の善根みずから円満す、みずからのためとて仏道を求めざれど、仏道速やかに成就す」と。もって直ちにこれをキリスト教に適用すべし。(大正2年)
などと書いています。内村の残した言葉はこの種の矛盾に満ちていますが、わたしは、かれの矛盾に満ちた言葉を理解する鍵は、かれが単なる信者として語っただけでなく、彼自身が自覚していたかどうかは別として、かれは一人の預言者として語ったからだ、と思っています。

そして、内村の思想の内村らしいところは、かれが預言者として語った言葉にあります。預言者ならば、聖書や教会を超えて、直接神やキリストと結びついた地平から言葉を発します。

余は信者ではない。余は教会の会員ではない。余は洗礼を受けない、儀式に与らない。信仰箇条に署名しない。監督、長老、執事、牧師、伝道師などという、人の定めし教職の教権を認めない。余はその意味において信者ではない、不信者である。(明治39年)

われは教会の教権を信ぜず。……われは無謬の聖書を信ぜず。(明治42年)

法王何者ぞ、監督何者ぞ。しかり、ペテロ何者ぞ、パウロ何者ぞ。彼らは皆罪の人にしてキリストの救いに与かりしまたは与かるべき者にあらずや。彼も人なりわれも人なり、神は彼らによらずして直ちに余輩を救い給うなり。余輩は人として彼らを尊敬す。しかれども彼らはおのが信仰をもって教権を装うて、余輩に臨むべからざるなり。(明治49年)

ここに内村の言葉のはらむ危険があり、魅力もあります。したがって、聖書とかキリスト教という小さな世界にまるく収まっている信者にすぎない者には決して語れない言葉が、かれの口から出てきます。
余輩は名に就いて争わず、実について争う。「仏陀」なりとて斥けず。「キリスト」なりとて迎えず。(明治39年)

異端、異端という。しかし実は世に異端ほど貴いものはないのである。世に異端があればこそ進歩があるのである。預言者は異端であった。イエスも異端であった。パウロも異端であった。ルーテルも異端であった。ウエスレーも異端であった…。異端は不道徳ではない。不道徳は正教の中にもある。しかり、余輩の見るところをもってすれば不道徳は異端の中においてよりも正教の中においてより多く行われる。異端は独創の思想である。真理を探究するに当たって人のオーソリチー(権威)に頼らない事である。異端は真理の直参である。その陪審ではない。人には構わず一直線に真理と真理の神とに向かって進むことである。(明治41年)

こうして、かれは、ひとは単独に神とキリストからの直接の救いを受け、神にあって、まことの独立と自由を得ると考えているため、内村は、そのあいだに入り込んで、コピーにすぎない小さな追随者の群をつくろうとする、宣教師や教会組織を許すことが出来ないのです。
精神、制度と化して死す。(明治42年)

彼らは集まるときに強し、われらは独りあるときに強し。(明治42年)

人は団体を為して神に達することは出来ない。(大正2年)

彼ら [米国人] の外国伝道なるものは彼らの内国政治と異ならず、彼らの意志を他人の上に課するにある。彼らは他人をしておのれのごとくに信ずるを得せしめしを伝道上の成功と称う。(大正2年)

ああ米国宣教師はキリストの福音の何たるかを知らない。われらは教会も要らない、学校も要らない、青年会も要らない。カーネギーの金、ロックフェラーの金をもってして何事をもなさんことを願わない。「汝の金汝と共に亡びよかし」である。もし日本人の霊魂がこれらの不虔の米国人の金をもってするにあらざれば救われざる者であるならばわれらはむしろ救われざらんことを。(大正2年)

日本国はその自国の民によってみずからキリスト教国となるであろう。(明治42年)

自由とは人より何の束縛も受けることなくしてわが身を神の自由にゆだねることなり。独立とは人によらずして直ちに神と相対して立つことなり。(大正2年)

「直ちに神と相対して立つ」ところに、彼の言葉が単なる信者のそれではなく、預言者としての色合いをもっている原因があります。また、そこに、かれが単に孤立を恐れなかっただけでなく、単独であることそのものに深い意義を見出していた理由があります。そしてまた、ここにこそ、かれが生涯を通して「外国人を離れたる日本特殊のキリスト教」を唱えた根拠があります。彼にとって、自由と独立は救いの内容であっただけでなく、それをもたらす唯一の手段でもあったのです。自由と独立という手段によらないものは自由と独立をもたらさないのです。そして自由と独立をもたらさない救いなど、彼にとって、救いではなかったのです。

こうして見てくると、内村の弟子であるということが、どういうことであるか、はっきりわかってきます。

自分の弟子と称する人で自分に真似る人のあるを知りて嫌悪に堪えない。自分に真似るならば自分の独立独創を真似てもらいたい。自分は誰にも真似なかった、ゆえに自分の弟子と称する人は誰にも、その師と仰ぐ人にも、真似てもらいたくない。先生の為した事以上のことを為し、先生の取らざる方法を取り、先生の領分以外におのが領分を新たに開拓する、それが本当の弟子である。願わくば小内村の一人も出ざらんことを。(昭和4年)
わたしが、自分を内村鑑三の弟子であるというのは、このような意味で言うのです。出来の悪い弟子ですが。


質問2
貴方はDavid Ahnさんの質問に対する答えとして、「神を信じたくて、ながいキリスト教遍歴の年月を過ごしました」と告白していますが、ここで言っているキリスト教とは保守的な神学に基づいたキリスト教なのでしょうか、それともリベラルな神学に基づいたキリスト教なのでしょうか。
わたしのキリスト教遍歴は、神学遍歴ではなく、実際のさまざまな教会の遍歴です。大学では、旧約はユダヤ人の教授により、新約はクリスチャン系の教授により、教会史はカトリック系の教授による、という具合にミックスしたものでした。そのなかで、わたしがもっとも影響をうけたのは、ユダヤ人のアラン・シーガル教授の「ヘブライ聖典(旧約聖書)」の講義でした。それまでは、新約聖書の著者たちの目を通して、イエスを証しするための書としてしか見ていなかった旧約聖書が、突然、ユダヤ人の立場から、新約的色眼鏡をはずして、直接、旧約聖書をみることを教えられました。そのときから、旧約聖書が理解しやすくなり、とても面白くなりました。新約聖書の著者たちの信仰にとらわれないで、聖書を読み始めたのはこのときからです。その後わたしが目にするようになる聖書批評学の基本的な主張は、このときの経験を裏付けするもののように思われました。


質問3
無信仰者がリベラルな神学の立場から保守的な神学を批判するということはいったいどういうことなのですか。私にはこのことがどうも理解できません。
わたしには、むしろ、どうして「無信仰者がリベラルな神学の立場から保守的な神学を批判するということ」が問題になるのかちょっとよくわかりません。たとえば、「創世記」がモーセの作でなく、J、E、P などの複数の資料層のつなぎ合わせである、というリベラル神学が発見した(?)主張に関して、それに賛同する者はキリスト教信仰者でなければならない、という理由がわたしにはよくわからないのです。そもそも、保守的な神学にたいするわたしの批判は、それが「聖書には誤謬がない」ということを前提にしている、というその一点であって、一般的な「リベラル対保守」の構図をつくって、そこから保守的な神学全体を批判しているわけではありません。


質問4
私がここで問題にしているのは、「白いカラスを探す」という方法論…のみがこのコーナー全体にわたって貫かれているのかどうかということです。
指摘されているわたしの方法論「白いカラスを探す」は、聖書の間違いシリーズのわたしの諸論の内容に関するものであって、「来訪者の声」における論争やおしゃべりの内容に関するものではありません。こちらでは、対話という性質上、(1)本サイトのテーマからあまりはずれないこと、(2)お互いの人格を攻撃しないこと、というおおまかなことだけを基本ルールとしているだけで、とくべつの目的も決まった方法論もありません。つまり、「はじめに」であげたわたしの方法論は、「このコーナー全体にわたって貫かれている」わけではありません。

貴重なご批判ありがとうございました。