メインである聖書の欺瞞性については幾らも読んでいません。読んだのは創世記での 男と女を造る順番に関わることだけです。(と、言っても流し読みです。)あの件の 矛盾は私もある場所で取り上げたことがありますが、あなたとは取り組み方が違って います。それは、「神は二度人を創った」と言うようにです。

アダムとエバの間にはカインとアベルが生まれました。そしてアベルを殺したカイン はノドの地に住み、「そこで、妻を得ています。」この妻とはエバでなければ、エバ 以前に女が造られていなければ話しが通りません。この妻が人間の女でなければ獣と 交わったのでしょうが、そうでなければ神は二度人を創ったことになります。

まあ、しかし、こんな話しはどうでもよいことです。bible.htmlを読みましたが、こ ちらの方が私には興味深いものがありました。あなたは聖書の欺瞞性を暴く理由を述 べておられますが、それは本心ではないでしょ?

堀剛さんという日本基督教団の牧師は、あなたの表向きの意見表明に疑問を呈してい ました。佐倉さんの主張は既に明らかなことであり、その明らかなことをわざわざ表 明するのは別の目論見があるのでしょう。といったような調子でです。

佐倉さんは堀剛さんの疑問について

>私があなたに問いたいのは…「聖書の間違い」を、ただ人々に告げ広めたところ
>で、それが何をもたらすとお 考えなのかという事です。

この質問は、僕にとって、きわめて「遠い」というか、まったく自分の知らない外国語で語 りかけられているような感じがして、どう答えてよいかわかりません。真実を知りたいと思 っているのに、真実で何が買えるか、と問われているようなものだからです。

……

>「聖書の間違い」を見て、キリスト教の「間違い」と考えてしまう人々が出てく
>る可能性がある

それは、しかたがありません。聖書を長い間、完全無謬と主張してきたのはキリスト教なの ですから。地動説に反対し、進化論に反対し、聖書を絶対化し続けてきた、重くてなが〜い キリスト教の歴史があるのです。

……

>発表の意図をお尋ね致します

これはたいへん僕を困らせる問いです。「聖書の間違い」シリーズの目的については、すで に「はじめに」で、かなり詳しく説明しています。それにもかかわらず、繰り返して、僕の 意図をお尋ねになるのは、「それでは納得がいかない、本当の意図は別のところにあって、 それを隠しているのではないか」、と勘ぐられているからでしょう。僕としては、もし別の 意図などまったくないとしたら、別の答えなどないのだから答えることができないし、ま た、もし別の意図があってそれを隠しているのなら、人に語りたくないわけだから、これま た、答えることができません。

と答えられました。 beble.htmlでの受け答えで、佐倉さんが相手の文面を引用しての物言いは決して多くありません。 それが堀剛さん相手の場合には目立って引用が多いのですから、これはただ事ではないという いうことになります。佐倉さんにとって痛い部分でなければ、ここまで過剰な反応をすること はなかったでしょう。

佐倉さんが行っていることの目的が、佐倉さんの表明に真実相違なかったとしても、堀剛さんの 懸念している効果をもたらすことは、最初から分かっておられたはずです。それを前段の受け答 えでは「この質問は、僕にとって・・」ととぼけられたものの、中段では「それは、しかたがあ りません。」と開き直っておられます。そして後段では「これはたいへん僕を困らせる問いです ・・」と、沈黙を決め込もうとされています。 あなたほどの方にしては、この受け答えはお粗末すぎるとは思いませんか? 白を切るなら徹底的 に白を切るか、開き直るなら徹底的に開き直らないと「佐倉さんの本心が容易に暴露」してしまい ますよ。

実を言うと、私も佐倉さんと同様な意図でホームページを開設しています。しかし私の場合には、 カムフラージュを用意しているわけではありません。そこが私と佐倉さんの大きな違いです。私 のは作って間もないので中身が濃いとは言えませんが、あなたの同類として、一度は私のホーム ページを見に来てください。場所はwww.bekkoame.or.jp/‾platonです。

おそらく、プラトンさんは、とても直感力の鋭い方なのでしょう。しかし、直感力だけにたよると、しばしば、早合点をしてしまいます。たとえば、カインの妻は「エバでなければ、エバ以前に女が造られていなければ話しが通りません」と言われていますが、早合点して、アダムとエバには女性の子供がいた可能性を見逃しておられます。

同じような早合点は、わたしと堀さんのやり取りに関する言及にも見えます。わたしの本シリーズにおける目的は「はじめに」で説明していますが、それは決して、「明らかなことをわざわざ表明」しているようなものではありません。浜田しんじさんから、「キリスト教撲滅運動でもしているのではないか」というお便りをいただいたので、浜田さんへの応答として書いたものなのです。

プラトンさんが見逃されていると思われる重大な点は、わたしが、(1)キリスト教否定(キリスト教撲滅運動)と(2)キリスト教批判を厳密に区別していて、前者に関してはわたしはそれに反対し、後者に関してはわたしはあちこちで積極的にそれを展開してることです。キリスト教を批判することは、必ずしも、キリスト教を否定する(キリスト教を撲滅しようとする)ことではありません。

ホームページは拝見させていただきました。わたしとプラトンさんが「同類」かどうか、よくわかりませんが、頑張って下さい。

おたより、ありがとうございました。



再びplaton さんより

ごまかしてはいけません。

佐倉さんは「聖書の間違い」という項目に仕立てただけでなく、あちらこちらの検索を提供しているところに「過激な説明文」を登録しているではないですか。たとえば「聖書は神の言葉であるから、いかなる誤謬も含まないという主張を批判・検討する」とね。つまりこの説明文は、「誤謬を含むのなら聖書は神の言葉ではない」と示唆していることになります。

日本基督教団の堀剛牧師が

私があなたに問いたいのは…「聖書の間違い」を、ただ人々に告げ広めたと ころで、それが何をもたらすとお 考えなのかという事です。 
と言ったのは、堀剛牧師も、今私が指摘したことを思い浮かべ、再確認するつもりで問い掛けたと見るべきでしょう。ところが佐倉さんは「まったく自分の知らない外国語で語りかけられているような・・」ととぼけようとされるのですから、いたずらを見つかった子供のごまかしを見る思いがします。

堀剛さんは策略家のようです。と言うより、相手の本心を探り出すテクニックを、幾つか知っておられると言った方が良いかもしれません。私が引用した堀剛さんの三つの質問は、言葉使いに違いはあるものの「同じ意図によって発せられた」ものです。そのため佐倉さんが堀剛さんに自分の気持ちを偽る気が無ければ、佐倉さんの回答内容に大きな開きは生じません。ところが実際には、前回私が

それを前段の受け答 えでは「この質問は、僕にとって・・」ととぼ けられたものの、中段では「それは、しかたがあ りません。」と開 き直っておられます。そして後段では「これはたいへん僕を困らせる 問いです ・・」と、沈黙を決め込もうとされています。
と指摘したように受け答えに大きな開きがあります。この受け答えの開きから、堀剛さんは佐倉さんの真意をはっきりと悟ったことでしょう。

佐倉さんを私を直感力の鋭い人と評価されました。しかし私は直感で物事を判断しているのではなく、物事の整合性を吟味して判断しているのです。佐倉さんの聖書の間違いについての分析も、佐倉さんなりに記述内容の整合性を吟味した結果ではないですか。整合性を吟味できる佐倉さんが、私に対して「直感力の鋭い人」と言ったのは、直感イコール不確かさというイメージでもって、「私の指摘が根拠の無いものである」と来客の方々に印象づけようとしたためでしょうが。

そのために佐倉さんは

早合点して、アダムとエバには女性の子供がいた可能性を見逃しておられます。
を持ち出されましたが、おそらく、佐倉さんは、自身が何をやっているか気づいてはおられなかったのでしょう。佐倉さんが「可能性云々を持ち出す」のであれば、佐倉さんが行ってきた聖書の間違いについての分析方法に、「佐倉さん自身が疑問を呈してしまったのと同じ」です。

アダムとエバの間に女性の子供がいても、カインがノドの地に住んだ以前と以後では話しが根底から異なってきます。原因が先にあって結果が後にあるところ、結果が先にあって原因を後で都合よく求めようとすれば、「聖書の原本は聖霊の導きによって記述されたが、写本の段階で写し間違いが生じた」という抗弁がまかり通ることになります。そうすると佐倉さんの「聖書は神の言葉であるから、いかなる誤謬も含まないという主張を批判・検討する」というものは、無意味な行為と替わらなくなってしまうだけです。 それは、原因と結果を結び付ける因果関係の整合性を無視してしまえば、結果をどのような原因とでも結び付けられるためです。しかし因果関係の整合性を重視すれば可能性の範囲は狭まり、「・・であって欲しい」といった願望や妄想を可能性から排除できます。このような作業を佐倉さんが行ってこなかったのであれば、他の人の佐倉さんへの反論に抗する手は持っておられず、とぼけとごまかしに終始されてきたのが実態であるということになりますね。

佐倉さんがキリスト教を撲滅するために「聖書の間違い」を発表しているとは思っていません。また、そんな程度で、キリスト教が撲滅するだろうという気持ちも持っていません。精々が、キリスト教に幻想を抱いている人たちの注意を引きつけ、幻想に篭もろうとしている人たちを憤らせて反感を買う程度です。またキリスト教で飯を食っている人たちから、営業妨害を抗議するが如くの詰問にあうだけです。

佐倉さんと私が同類だというのは、キリスト者からみれば、「反キリストとして目に映る」ようなことを行っているということです。


再び、作者よりplatonさんへ

ごまかしているつもりも、とぼけているつもりもありませんが、ご意見ありがとうございました。



再びplaton さんより

なるほどね

>ごまかしているつもりも、とぼけているつもりもありませんが、
>ご意見ありがとうございました。
逃げの一手ということですな。「ごまかしているつもりも、とぼけているつもりもありません」と言ってみたところで、反証できなければ「聖書は精霊 [聖霊] の導きによって記述された」という主張と幾らも変わりありません。 「聖書の間違い」シリーズの発表動機が欺瞞に満ちていれば、当然ながら、矛盾があちらこちらに噴出してきます。佐倉さんは佐倉さんなりに矛盾が混入しないよう目的理由を仕立て上げたのでしょうが、「欺瞞はいつか発覚する」ことを念頭に置いてなかったのでしょう。あるいは欺瞞が発覚しても、誤魔化し通せると踏んでいたのかもしれません。

「来訪者の声」は議論スタイルに仕立てられていますが、これは佐倉さんの主張が優れていると印象づける目的でしょう。現に佐倉さんは相手の主張より優位に立っているがごとくの発言もしています。この議論スタイルが佐倉さんに益をもたらすためには、相手の能力が佐倉さんの能力を上回らないという前提が必要です。 前々回の佐倉さんの発言には幾つかの議論テクニックが現れていますので、佐倉さんは議論にある程度の自信を持っていたことが伺えます。しかし世の中は広いので、佐倉さん以上の技量を持った人が現れれば防戦一方に回るしか手がありません。そし敗退を予感すれれば佐倉さんが用いた手、つまり沈黙によって議論を放棄するしか瓦解を救う道は残っていないことになるわけです。

p.s.佐倉さんのサイトをリンク設定したと以前お知らせしましたが、それだけで なくもっと詳しいご紹介を暇が出来次第行います。佐倉さんにとっては耳の痛い 内容になるやもしれませんけど、あなたの運命だと思って諦めてください。


再び、作者よりplatonさんへ

わたしは、platonさんと議論を交えることを願っていますが、どうやら、ここに横たわっているものは議論以前の問題のようです。この状態での言葉のやり取りは、おそらく、理解を深めるより、むしろ誤解を深めることになるでしょう。啓蒙のための論争とはならず愚鈍な喧嘩となるでしょう。打ち合いのボクシングではなく「耳のかみつき合い」になるでしょう。あしからず。