私は日本キリスト教団の牧師でもあり、現在はある大学で、キリスト教関連科 目担当の助教授をしています。私の専攻は聖書神学ではなく、哲学的神学です。 このようなことはどうでもいいことですが、いったい何者からのメールであるの かと関心を持たれるかも知れませんので、ともかく自己紹介を先に述べさせてい ただきました。
今のところ、あなたのページをすべて読んだわけではないのですが、どうして もお尋ねしたい点が少しあります。まず、第一に、あなたはクリスチャンでしょ うか?
第二に、あなたは聖書の「間違い」を指摘されていますが、これらは様式史研 究においては常識となっている内容です。私は、あなたの意見には、それらが聖 書学に於いては常識であることから、(私の読んだ新約関連の)あなたの主張 に、特に反論の必要を感じるものではありません。
但し、「間違い」が指摘されることが、キリスト教信仰とは無縁の不特定多数 (インターネット)であるという点を考慮した場合には、どうしても割り切れな いものを感じるのです。あなたの主張されるように「聖書の完全無謬性の主張を 吟味する作業は、決して「キリスト教を否定する」とか「聖書を否定する」試み ではありません。「聖書は完全無謬である」という主張に内包している人間神格 化に危惧を抱き、その主張の真偽を吟味するものにすぎません。」というあなた の思惑には大いに同感しうるものもある反面、あなたの思惑通りに事柄が伝達さ れるのだろうかという疑問を感じるのです。
断っておきますが、私は大学の講義においては、あなたの主張されるような内 容はすべてノンクリスチャン学生にも教えています。そこでは聖書は人間が書い たものであることを前提として、神格化された聖典としてではなく、聖書に含ま れるそれぞれの文書、たとえばマルコ、ルカなどが、書かれてきた状況、時代、 そして執筆の立場等を分析し、あくまでも聖書の各文献の書かれた動機に目を向 けようとしています。そこから、キリスト教という枠組みを意識しようがしまい が、それぞれの文献の持つ、人間の告白の内に信仰告白を見いだそうと考えてい ます。もちろん、アメリカなどではあまり盛んではないパウロ主義批判などもや ります。
もともと、聖書の各文献は個々ばらばらに存在していたものに過ぎません。そ れらは、それぞれに書かれた意図が存在するはずです。勿論、それらの中には、 明確に宗教としての組織形成を意図するものも見受けられます。しかし、マルコ 福音書などの場合、それ自体を聖典として神格化することを目的として書かれた とは考えにくい一面を持っています。(その理由の一つは、あなたのページにも あるように、復活の記事の欠落などです)マルコならば、むしろ復活の教義を中 心に伝道されていた当時の正統主義への反論が込められていたと推測します。
このような私の持論はともかくとして、私が言いたいのは、おそらくあなたも ご存じのように、様式史に於いては、個々バラバラなイエス伝の資料を検証する ことは出来ても、一つの福音書全体をを貫く主張を読みとるには限界があるとい うことです。このことから編集史的研究が出てきたのも当然と言えるでしょう。
そこで私があなたに問いたいのは、様式史が解明した福音書の矛盾部分(それ らはあなたが指摘される以上にもっともっと存在するのですが)あなたのいう 「聖書の間違い」を、ただ人々に告げ広めたところで、それが何をもたらすとお 考えなのかという事です。また、あなたは福音書とは何であるとお考えなのでし ょうか?それが史的事実の羅列であるべきだというご意見でもお持ちなのでしょ うか?
もう一度、強調して、私の立場を確認しますと、私はあなたの言われるような 言い方をする者の一人です。そして、キリスト教について不案内な学生にも、私 の講義に於いては様式史を教えます。しかし、それでキリスト教の聖書が「間違 い」という言い方に終わるのではなく、そこから福音書が書かれるに至った背後 に生きる人間の信仰を問い直そうと考えます。
イエスと出会った人々は新約聖書に拘束されるキリスト教を生きていたわけで はありません。ましてや、イエス自身すら、福音書の出現と存在など予期するこ とは無かったでしょう。その意味で、キリスト教は聖書に拘束されつつも、伝承 は現在的に再検討されて良いと考えます。そして、そのような作業は、現代のキ リスト教の神学者が、積極的に押し進めようとしていることでもあります。
あなたの発表された「聖書の間違い」はキリスト教のこれまでの神学の成果の 断片的なものであり、専門家には常識的な知識のかけらでもあります。それがあ なたのオリジナルとはとうてい私は考えないということを前提として、最後に付 け加えるならば、「聖書の間違い」を見て、キリスト教の「間違い」と考えてし まう人々が出てくる可能性があるということです。
その意味でもう一度、「あなたはクリスチャンですか?」と問いたいのです。 そして、私はけっしてあなたの指摘される事柄を隠蔽すべきであるなどとは考え ない者であるということをお含みおき下さい。むしろ、クリスチャンにとってこ そ、必要な学びであると考えます。そして、あなたが「聖書を盲目的に絶対化す るのは、聖書崇拝である、という批判がファンダメンタリストに向けられるので す。」という行で意図されることに同意するものです。 しかし、インターネッ トは「ファンダメンタリスト」のためにだけあるわけではありません。既に、ブ ルトマンにせよ、シュバイツアーにせよ、八木誠一さん、田川建三さんにしてみ ても、当たり前に確認していることもインターネットでは新しいという現実をふ まえつつ、発表の意図をお尋ね致します。
堀 剛 hori@niji.or.jp http://www.niji.or.jp/home/hori/
追伸
ここまで書いて、読者によるあなたへの批判と意見に目を通してみました。ど うやらあなたはクリスチャンではないと拝察しました。それにしても、間違い探 しは宗教学の究極目的であるわけでは無いことは、あなたもご存じでしょう。あ なたはファンダメンタリストへの警告のようなつもりで書かれているということ も、だいたい分かりました。
私は牧師ですが、他宗教の批判はけっして口にしないのを礼儀と心得ています し、大阪で真宗の青年ご住職の会がお寺であり、そこでキリスト教について講演 をさせていただいたこともあります。
あなたほどの知識のある方ならば、ご存じかもしれませんが、カール・バルト は「神学は教会を批判する学である」と言いました。また、私の研究するキェル ケゴールは、デンマーク国教会を単独批判し、「キリスト教界にキリスト教を導 入する」という姿勢で臨みました。いづれにせよ、キリスト教神学は自己批判の 学でもあります。そして、あなたに批判されるまでもなく、それらの聖書の矛盾 を矛盾として受け入れながら神学の再構成をキリスト教自らが取り組んでいるの です。そのような神学的成果の方には目もくれずに、ただ、個々の事象に関して のみ発表されるのはいかがなものでしょうか?
あなたがファンダメンタリストに語るつもりでも、果たして、日本人のノンク リスチャンがどれほど「ファンダメンタリスト」の実像を正確に知っているでし ょうか?私もアメリカに住んだ経験がありますので、アメリカのそれはだいたい 知っているつもりです。
できれば、もう少し勉強をお願いいたします。(こう言いますのは、あなたが 発表されている知識以上の神学をご存じでありながら、あえてそれを伏せて、い たずらに「間違い」のみを強調されるような方ではないと、ご信頼するからで す。)
ちょっと分かりにくいところがありますが、主要な点は、キリスト教はすでに聖書の矛盾を受け入れた上で再構成されており、その上で人々に与える何かをもっている。今更ながら、聖書の矛盾だけに注目するのは、偏狭で、無益で、聖書全体、あるいはキリスト教全体の姿をゆがめるものである。そう言われているのではないかと思います。
もし、本サイトが聖書やキリスト教について語ることのできるインターネット上の唯一のサイトであるとか、あるいは、また、本サイトが、「聖書とは何か」とか「キリスト教とは何か」とか「宗教とはなにか」という、もっと一般的なテーマを仕事にしているサイトなら、そのような批判は当たるかも知れません。しかしながら、本サイトは、まさに「聖書の間違い探し」だけを仕事とする専門サイトなのです。そのことは、「はじめに」で詳しく説明してあるとおりです。
私があなたに問いたいのは…「聖書の間違い」を、ただ人々に告げ広めたところで、それが何をもたらすとお 考えなのかという事です。この質問は、僕にとって、きわめて「遠い」というか、まったく自分の知らない外国語で語りかけられているような感じがして、どう答えてよいかわかりません。真実を知りたいと思っているのに、真実で何が買えるか、と問われているようなものだからです。
あなたの発表された「聖書の間違い」は…専門家には常識的な知識のかけらでもあり…それがあ なたのオリジナルとはとうてい私は考えない聖書主義の問題は、「聖書に書いてあるから」という理由で真理が主張されることです。それは、聖書が権威として利用されていることを意味しているからです。僕が聖書の記述の真偽を吟味の対象にしているのは、真理の主張が、知識ではなく、権威によってなされているからです。同じ理由で、権威だけによって、聖書学者の研究の成果を真理であると認めるわけにはいきません。僕は自分自身が納得できるように、自分の目で一つ一つ吟味するのです。そういうわけですから、既に他の学者によって指摘されたものかどうか、僕の指摘がオリジナルかどうか、などというようなことは、考えたこともありません。なぜ、こんなことが話題に登るのか、まったく見当がつきません。
あなたは福音書とは何であるとお考えなのでしょうか?それが史的事実の羅列であるべきだというご意見でもお持ちなのでしょうか?聖書が歴史書としても正確である、というのは聖書主義の立場です。また、一般に、キリスト教の救済は、イエスの死と復活という歴史的事件に依存している、と考えられています。したがって、福音書の伝えることが、歴史的事実であることは、ほとんどのクリスチャンにとって、もっとも重大なことだと思います。八木誠一氏の神学のように、救済が歴史的事件に依存しないことを主張する立場は、きわめて数少ない例外です。僕は、福音書に限らず、聖書を歴史的に正確だとする立場を取れば、さまざまな矛盾が生じることになる、と主張しているだけです。
「聖書の間違い」を見て、キリスト教の「間違い」と考えてしまう人々が出てくる可能性があるそれは、しかたがありません。聖書を長い間、完全無謬と主張してきたのはキリスト教なのですから。地動説に反対し、進化論に反対し、聖書を絶対化し続けてきた、重くてなが〜いキリスト教の歴史があるのです。
あなたはクリスチャンでしょうか?僕は、内村鑑三の弟子です。といっても、著作を通してしか知らない僕が、勝手にそう思い込んでいるだけですが。しかし、クリスチャンではありません。内村鑑三の弟子であってクリスチャンでない、というのはちょっと変だと思われるかも知れませんが、それが僕です。
発表の意図をお尋ね致します
これはたいへん僕を困らせる問いです。「聖書の間違い」シリーズの目的については、すでに「はじめに」で、かなり詳しく説明しています。それにもかかわらず、繰り返して、僕の意図をお尋ねになるのは、「それでは納得がいかない、本当の意図は別のところにあって、それを隠しているのではないか」、と勘ぐられているからでしょう。僕としては、もし別の意図などまったくないとしたら、別の答えなどないのだから答えることができないし、また、もし別の意図があってそれを隠しているのなら、人に語りたくないわけだから、これまた、答えることができません。
しかしながら、もしかしたら、堀さんは僕の説明を誤解されているのではないか、と思いながら、お便りを幾度か読み返していると、案の定、僕と堀さんの間にある一つの重大なズレに気がつきました。それは、批判という行為に対する価値観のズレです。
私は牧師ですが、他宗教の批判はけっして口にしないのを礼儀と心得ています
と語られています。ところが、僕としては、授業料を払ってでも批判してもらいたいのです。(お金がないので、インターネットで、皆さんに、無料で批判していただいています。)つまり、堀さんにとって、批判は、あるべからざる反価値であるけれど、僕にとって、批判は高価な労働なのです。このズレが誤解を生んだのだと思います。つまり、僕が批判するとき、あるいは、僕が批判されるとき、批判という作業に対する僕の思いは、堀さんのそれとは対照的に、きわめてポジティブなものなのです。このズレを認識して頂いたら、このような「発表の意図」に関する問いは解消するのではないかと思われます。