あなたの言っておられることは新・旧約聖書学では常識になっていることで、別に驚く ほどのことではありません。
ただ、そこにはたらく生きた神、歴史に働く神を信じるかどうかが問われていると、私は 思います。
私もまた伝統的なキリスト教(日本キリスト教団)の中にいるのですが、私は別に聖書 の一言一句を信じているのではなく、それを通して証されているイエスを、ナザレに産まれ、 ゴルゴダの丘で十字架に架けられた一人の人間としてのイエスに従いたいと思っています。
イエスがキリストかどうかなんて、そんなことは関係ないのです。
私はイエスが好きなのです。
こうなると私も岡野さんから批判されそうですね。(^^)
聖書には矛盾があり、間違いがたくさんあることは、確かに、佐々木さんの言われるごとく「新・旧約聖書学では常識になっている」のですが、僕は学者がそういうから、という理由だけでは納得できないので、自分の目で確かめ、自分の理性が納得できるものだけを取り上げています。もともと、僕のこの試みは僕自身のために始めたものなのですから。結果的には、僕が取り上げる多くのものは、すでに誰かによって取り上げられたものでしょう。聖書を、「聖書は神によって与えられた言葉である」というような偏見なしに、率直に読めば、その中にある矛盾や間違いを見つけることは誰にでも出来るからです。聖書はわかりやすい書です。
さて、もし聖書が間違いを含んでいるとすると、聖書のどの部分が信頼でき、どの部分が信頼できないか、という決定は人間がしなければならないことになります。イエスが語ったという数々の言葉は本当にイエスが語ったものなのでしょうか。イエスが行った奇跡の記述は本当に信頼できるものなのでしょうか。イエスが死んで三日後に復活した、という記述は信頼できるのでしょうか。イエスの死は本当に僕の罪の許しのための身代わりの死であったのでしょうか。そういうキリスト教の本質的な部分においてさえも、もう昔のように、聖書に書いてあるから、という根拠付けはできなくなります。キリスト教の信仰の根拠はどこにあるのか。結局、本人が信じたいから信じているのに過ぎないのではないか。等々。このような困難な問題が次々と生まれてきます。ファンダメンタリスト達が、かたくなに聖書を絶対視するのは、このような困難な問題との直面を避けるためではないか、と僕には思われるのです。