太陽の創造時期に関する間違い を読んでの感想を書きたいとおもったの でメールを送ります。

2つの不合理を指摘されていますが、それ以外に、太陽が創造された四日 目以前に、夕べがあり、朝があった。という記述があるのも、そもそも矛 盾しているのではないでしょうか。聖書にこの点について、補足説明など がなければ、これも聖書の間違いの一つといえると思います。

From :木村直之 横浜市立大学商学部経済学科4年

まさに、ご指摘の通りです。

創世記第一章の創造物語によれば、神の創造活動は六日間で、七日目に神は休まれた、ということになっています。その創造六日間に、一日の創造活動が終わるごとに、「夕べがあり、朝があった、第Xの日である」と記述しています。太陽は、月や星と一緒に、第四日に創造されるのですから、この記述はちょっとおかしい、ということになります。

この事実や、宇宙の創造がわずか六日間で完成したということの不合理性ゆえに、おおくのクリスチャンは、この「一日」というのは24時間のことではなく、一つの「期間」であった、という正当化をします。聖書にはいかなる無謬も含まないということを無条件に受け入れると、聖書はゴムか粘土のように、必然的に拡張解釈がなされます。

なぜ、このようなおかしなことになったかは、これを誰が書いたか知ることによって、想像できます。現代聖書学によれば、この部分はP資料、つまり祭司(Priest)資料とよばれ、祭司階級の人々によって書かれたことが明らかにされています。祭司というのは戒律や祭儀をきわめて重視します。彼らの書いた、この創造物語の背後にあるのは、安息日の戒律です。イスラエル人にとって、第七日は安息日といって、あれゆる労働が禁止される日です。彼らは、神の創造の業を書き留めるだけでは満足せず、この物語にイスラエル民衆が守るべき安息日の戒律に関する教訓を埋め込んだのです。神のように、人間も第七日は労働してはいけない、というわけです。

もちろん、歴史的には、神が第七日目に休んだという事実があって、それから人間もそれに従うようになった、のではなく、この創造物語を書いた祭司たちの時代には、安息日の戒律はすでにイスラエルの昔からの宗教規則として確立していたので、彼らが書いた天地創造物語における神も、その戒律に従わせられたわけです。ここに問題の種があったのです。つまり、イスラエルの神を天地創造の主とするというテーマと、すべて人は六日間働いて七日目には必ず休まねばならないという戒律のテーマとを混在させようとした著者の構想の無理が、太陽の創造と六日間の創造期間に関する矛盾を生んだのです。このことに思い至れば、「一日」は一日ではない、というような無理な解釈は必要がなくなります。