佐倉哲エッセイ集

キリスト教・聖書に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。


  ホー  キリスト  聖書の間違い  来訪者の声 

QWAN RYAN-SYUさんより

00年8月3日

神の相対化

2000年8月2日

 拝啓 貴兄益々御清祥の段、大慶に存じます。

   先般ふとした偶然から、貴HPの存在を知り、以来ひとかたなぬ興味を抱いて推移を見守っております。そのような中で、是非お伺いしてみたいと思うような事柄が2.3出て参りました。些か不躾の段は平に御容赦の程御願い申し上げますが、もし宜しければ御彗識を御披瀝願いたいのですが。

1.貴HPでの活動「聖書の間違いを検証する」によって目指すものとは、神を相対化する試みを通して、その過程で「神そのものへの希求、ネイキッドな存在としての神をその知覚で把握すること」と解釈しております。上等な喩えではありませんが、ゆで卵の殻を剥いて中身を取り出すようなビジュアルイメージがあります。果たして小職のこの認識は当てはまっているのでしょうか?

2.上記質問1.が「当てはまっている」との前提の元の質問ですが、その取り組みは無自覚であれ確信犯であれ「神話の解体、神性の破壊、神殺し」という効果を持つのでは?と思っております。うまい表現が見あたらないのですが、その結果神性、超越性、優位性を破壊されたその先に、不毛の荒野が広がっているという結末であっても、「それが神の存在だ」と受け入れる、と貴HPの活動は表明しているように見えるのですが、小職のこの認識は当てはまっているのでしょうか?

3.上記質問2.が「当てはまっている」との前提の元の質問ですが、空位になった神の座に我が身を据えるというようなことは、貴意ではないと解釈しております。しかし「座って欲しい」と願う磁場がそこに芽生えることはある程度予測できるのではないかと思われます。コレまたうまい表現が見あたりませんが、神を相対化する試み、まさにその定点観測の場が、既にある種の神性、超越性を内包しているのではないかと感じております。貴HPの活動が成就し実り多いものになればなるほど、望むと望まざるとに関わらず貴兄自身が神性を帯びるような感じが致します。果たしてそのような事象に辿り着いたとき、今度はご自身の相対化を図るのでしょうか、それともキュルケゴール的な実存主義的お立場を取られるのでしょうか?

 とは言っても全て仮定の話ですから、或いは困惑を招いただけかも知れませんが、もし宜しければお話を賜りたい、斯様に思っております。

それでは暑気険しき日々、お体に気を付けて、くれぐれもご自愛の程。

                                   敬 具





作者よりQWAN RYAN-SYUさんへ

00年8月19日

神を相対化する試みを通して、その過程で「神そのものへの希求、ネイキッドな存在としての神をその知覚で把握すること」と解釈しております。・・・果たして小職のこの認識は当てはまっているのでしょうか?

わたしは神を相対化することなど試みてはいません。ただ、絶対化された人間や人間の作った制度(たとえば、教会、聖書、信仰者が心の中に造りあげる神像、神聖化された教祖たち、等々)を相対化している、といえるかもしれませんが。しかし、それら(人間が作ったり、考えたりしたもの)はもともと相対的なものですから、わたしがそれらを「相対化している」というのも、正確な表現ではないでしょう。むしろ、もともと相対的なものが不当に絶対化されている事態をあちこちに発見し、それを指摘しているだけです。

また、現在、わたしは「神そのものへの希求」をしているのでもありません。たしかに、かつて信仰者であったころは、聖書に描かれているように、モーセやアブラハムのように、生きた神と出会えることをわたしは信じており、長い間それを求めていました。いまは、わたしはそんなことを信じてもいないし、神を求めてもいません。神を知らないまま、わたしが求める「神」は、いつまでたっても、わたしが心の中に造りあげる、わたしの救いにはなはだ都合のよい、神の神像(偶像)でしかないからです。しかし、神そのものを否定しているわけではありませんから、神が向こうからやってきてわたしに立現れるなら、それを拒むものではありません。むしろ、神にはわたしの前に立現れて欲しいと思っています。わたしは、ただ、自分の救いに都合のよい神像をかってに心の中に造りあげて、それをあがめること(信仰)をやめたのです。

その結果神性、超越性、優位性を破壊されたその先に、不毛の荒野が広がっているという結末であっても、「それが神の存在だ」と受け入れる、と貴HPの活動は表明しているように見えるのですが、小職のこの認識は当てはまっているのでしょうか?

これは、ある意味では、当たっています。真実を見ることが、たとえ人間をますます不幸に陥れることになるとしても、それでも、真実を見据えることを選ぶ選択肢もあるんだ、ということをわたしは指摘しているわけですから。大げさに言えば、嘘の上に立てられた幸福の館のなかで生きる夢を見ることではなく、真実の上に横たわる不幸のがらくたを抱いて生々しく生きる、という選択肢もあるんだ、という指摘です。

ただ、おっしゃっていることが当たっていないのは、絶対神を想定しなければすべては無意味になるという暗黙の前提です。生を肯定するために、絶対神を想定して、その想定された絶対神に生を肯定していただくなどという、回りくどいく、しかも嘘っぽいやり方をしないで、生を肯定したいなら、単直に生を肯定すればよい、というのがわたしの考えだからです。それは、すでに目的と道が備えられていなければ生きていけない追従者としての生き方ではなく、空白のキャンパスに意味を吹き込む価値の創造者、道無きところに道を切り開く冒険者としての生き方を選択することでもあります。

空位になった神の座に我が身を据えるというようなことは、貴意ではないと解釈しております。しかし・・・神を相対化する試み、まさにその定点観測の場が、既にある種の神性、超越性を内包しているのではないかと感じております。貴HPの活動が成就し実り多いものになればなるほど、望むと望まざるとに関わらず貴兄自身が神性を帯びるような感じが致します。

まず、すでに説明しましたように、わたしは神を相対化しているのではないのですから、「神を相対化する試み、まさにその定点観測の場が、既にある種の神性、超越性を内包している」というのは当たりません。聖人を泥棒扱いするならともかく、そうではなく、もともと泥棒にすぎないのに、かれが聖人扱いされている事態をみて、「こいつは泥棒だ」と指摘しているだけですから、わたしが聖人である必要はありません。わたし自身も泥棒でありながら、いや、わたしも泥棒であるからこそ、「こいつは泥棒だ」とわかるのです。神を語るものども(聖人)も、本当は、神を信じていないものども(泥棒)とまったく同じように、神について何も知ってはいないことがわかるのは、じつは、神を語るものどもも、もともと同じ泥棒(人間)にすぎないからです。

「空位になった神の座に我が身を据える」というのは、ある意味では、そのとおりですが、そもそも、人間が神を知らないという状態が続くかぎり、わたしたちの「神の座」に座っているのは、決して神などではなく、人間どもが「これが神だろう」と勝手に想像して造った神像(とりわけ、その神像を作り出した人々に都合のよい神像)に過ぎない、ということをわたしは指摘しているわけですから、「空位になった神の座に我が身を据える」ことが、即、そのまま、自分を絶対化することにはならないだろうと思います。誰が座ることになろうと、人間の神に対する無知が続くかぎり、「神の座」に座るのは人間や人間の造った制度です。


おたより、ありがとうございました。


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