このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。
00年6月22日
水野です。『思考の限界について(3)』への回答、ありがとうございました。
まとめますと、わたしは、聖書の神の存在を肯定も否定もできないとする立場から聖書の真偽について考える人々にはみな共通に、聖書を吟味批判する際に聖書の神の存在する可能性を無視すべきではない、という制限が生じるはずだ、との考えを今でも変えていません。わたしには、言われていることがまったく理解できません。・・・「無知だから、神が存在するともしないとも断定できない」という事実認識から、どのようにして、「神の存在する可能性を無視すべきではない」という行動規範(価値観の押し付け?)へ飛躍できるのか、また、もしそれが行動規範ではないとしたら、「無知だから、神が存在するともしないとも断定できない」という事実認識とどこが違うのか(蛇足?)、よくわからないのです。
「制限」、つまり、行動規範として述べています。
(1)なぜ行動規範が生じるか
「聖書の神の存在は肯定も否定もできない」という事実認識から、どのようにして、「聖書を吟味批判する際に、聖書の神が存在する可能性を無視すべきではない」という行動規範が生まれるのでしょうか。(注:ここで言う「吟味批判」とは、聖書は神によって書かれた書物かどうか、を対象にしています)
聖書の真偽について考える際、想定される答えは3つあります。
(a)聖書は「真である」と論理的に証明できる → 聖書は真である (b)聖書は「偽である」と論理的に証明できる → 聖書は偽である (c)聖書の真偽は論理的に証明できない → 聖書は真とも偽とも言えない「聖書の神の存在は肯定も否定もできない」という事実認識は、言うまでもなく、2通りの事実があり得る可能性を含んでいます。つまり、聖書の神は「存在する」という可能性と、「存在しない」という可能性です。
「聖書の神は存在しない」という可能性が事実認識としてある以上、「聖書は真である、と論理的に証明できる」はずはありません。「聖書は真である、と論理的に証明する」ためには、聖書の神の存在に疑いの余地があってはならないからです。ゆえに、まず(a)はあり得ないとして消去できます。
残りは(b)と(c)ですが、(c)は(b)が成立しなかったときの答えで、(b)が可能かどうかの結果待ちのものですので、さしあたり(b)の可否についてだけ考えればいいことになります。ゆえに、「聖書の真偽について考える」とは、「聖書は偽である、と論理的に証明しようとする作業である」、と言い換えることができます。
前述のとおり、「聖書の神の存在は肯定も否定もできない」という事実認識は、聖書の神が「存在する」と「存在しない」というふたつの相反する可能性を含んでいます。したがって、「聖書は偽である、と論理的に証明」しようとするとき、「聖書の神は存在する」と仮定する立場と、「聖書の神は存在しない」と仮定する立場の両方からの考察が必要だ、と考えます。両方の立場から「聖書は偽である」という同じ結論が出せて初めて、『「聖書の神の存在は肯定も否定もできない」という事実認識にのっとって「聖書は偽である」と証明することができた』、と言えるからです。
「聖書の神は存在しない」と仮定した立場から考えるのは簡単です。聖書の神が存在しなければ、聖書は偽であるに決まっているからです。したがって、この立場からの考察は省略することができます。つまり、もう一方の「聖書の神は存在する」と仮定した立場から「聖書は偽である」と証明できればいいわけです。
以上の論理から、「聖書の真偽について考える」とは、「聖書は偽である、と証明しようとする作業」であり、そのためには、「聖書の神は存在する、と仮定した立場から考えるべきである」ことが分かります。これはまさしく、「聖書の神の存在する可能性を無視すべきではない」という制限(行動規範)にほかなりません。
(2)「聖書の神」についての知識を持つことは可能か
水野さんが神を知っておられるのならともかく、そうでなければ、「聖書が語る神の姿」が本当に実在する神の姿かどうかはご存じないわけですから、「聖書が語る神」を実在の神として水野さんが語られるとき、それは水野さんが空想の中で勝手に作り上げた神像となるでしょう。「聖書の神は存在する、と仮定する」ためには、その前に、「聖書の神」について知っている必要があります。「神」について知るすべのない有限な人間に、「聖書の神」の知識を持つことは可能でしょうか。
以前わたしは、聖書の神と他の神々を区別して考えるべきであることに気が付かされました(00年4月14日『思考の限界について(2)』返信)。つまり、「聖書の神」と、本当に実在するかもしれない「神」は、切り離して考えることができるわけです。したがって、『「聖書が語る神の姿」が本当に実在する神の姿かどうか』を問題にする必要はありません。わたしが考えている対象は、聖書の中で語られる「聖書の神」であり、想像の中で語られる「本当に実在する神」ではないからです。
「聖書の神によって書かれた」と自ら主張し、聖書の神について多くの事柄を語る、聖書という本があるおかげで、わたしは「聖書の神」について知ることができます。したがって「聖書の神」について知ることは有限な人間にも可能です。
(3)「聖書の神は存在する、と仮定して考える」とどうなるか
「すべての聖書批判は究極的に正しいかどうかは分からない」という主張は、特 殊な性格(唯一性、全知性、等)を持たされた神の存在を前提にして始めてできるわけでしょう。聖書を読むことにより、聖書の神は「唯一性、全知性」を持つ神だということが分かりますので、「聖書の神が存在することを前提にした立場から、聖書は偽である、と証明しようとする」とき、全知全能の神を想定して考えるのは妥当なことです。そして仮にも、全知全能の存在を否定しようとするからには、「究極的な間違い」、つまり、くつがえされることのない、確固たる証拠に根差した間違いを指摘できなければなりません。
たとえば、科学や考古学などの知識は「究極的な間違い」にはならない、と思います。佐倉さんがおっしゃるとおり、「前提にしていた(科学や考古学などの)知識の方が誤っていて、聖書の記述の方が正しかった、という事態も可能」だからです。もちろん、「持っている知識を正しいと判断している間は、その知識と明らかに一致しない記述がある場合、たとえそれが聖書の記述であっても、それは間違いであると判断を下さねばなりません」が、実は聖書のほうが正しいかもしれないという逆転の余地を残している以上、科学や考古学などの知識は、「聖書は偽である」という決定的な証拠にはなりません。
また、同一の出来事についての聖書の記述が互いに矛盾していても、これも聖書を偽とする究極の証拠にはなりません。聖書の内部矛盾は、「聖書のすべての記述は完全無謬である」という、一部のキリスト教徒の主張を否定するに過ぎず、それは聖書の主張ではないからです。ゆえに、この主張を論破しても聖書を偽とする証拠にはなりません。
このように考えたとき、わたしは前回、「すべての聖書批判は究極的に正しいかどうかは分からない」という結論を出しましたが、これは早計でした。わたしはまだ聖書批判の途上にいるのであり、「すべての」聖書批判をし尽くしたわけではないからです。ただし、少なくとも「わたしが今までに見たすべての」聖書批判は、究極的に正しいものとは思えませんでした。聖書を100%偽とするだけの力を持たなかったからです。
(4)聖書の神の存在を仮定しつつ、聖書を偽と証明できるか
では、「聖書は偽である」と証明することは不可能なのでしょうか。
聖書の細部における内部矛盾のような「枝葉末節的な間違い」ではなく、聖書の教えの「根幹に関わる間違い」を指摘できれば可能だ、と思います。
『神が人間に関わることの不合理』(00年3月17日)と『人間が神に関わることの不合理』(00年5月10日)の両メールにおいて、わたしが指摘したのはまさに「根幹に関わる間違い」のように思うのですが早計でしょうか。人間が罪を犯したためにきっぱりと断絶するべき、神と人間との関係が、罪を犯しても密接に続いていく創世記の描写は不自然で、アダムが禁じられた木の実を食べた罪の重さをまったく軽いものにしてしまいます。それは、アダムの罪をあがなうべく犠牲になったイエスの恥辱と苦痛の末の死、それによって表明された神の人類に対する愛などのキリスト教の中心教義を根底から崩壊させ、単なる滑稽な物語に変えてしまう、ゆゆしい間違いです。
「全知全能の神」の存在を仮定しても同じことです。枝葉末節的な間違いなら、あとで正当化できるかもしれませんが、「神と人間が関わることの不合理」は、聖書の根幹に関わる間違いなので、たとえ神の存在を仮定して考えても、正当化する余地はないように思うからです。もし神がこれをも正当化しようとするなら、詭弁による以外にないでしょう。
よって、『「聖書の神の存在を肯定も否定もできない」という事実認識から逸脱することなく、「聖書は偽である、つまり、聖書も聖書の神も人間の創作である」と証明できた』、と考えます。
いつにも増して低レベルな論理ばかりのような気もしますが、ご意見をお聞かせ願えれば光栄です。では、失礼します。
00年7月2日
「なぜ行動規範が生じるか」の項目で述べられている論議はとてもわかりにくいものです。 まず、「論理的」証明に関する水野さんの言明に関してわたしのコメントを述べます。
聖書の真偽について考える際、想定される答えは3つあります。しかし、「聖書の真偽について考える際、想定される答えは」、論理的証明に関するものに限りません。論理的証明以外に、別の方法で、ものの真偽は示すことができるからです。地球が太陽の周りを回っていることは、論理的証明によってではなく、単純な観察によっても明らかにされます。したがって、たとえば、(a)聖書は「真である」と論理的に証明できる → 聖書は真である (b)聖書は「偽である」と論理的に証明できる → 聖書は偽である (c)聖書の真偽は論理的に証明できない → 聖書は真とも偽とも言えない
(c)聖書の真偽は論理的に証明できない → 聖書は真とも偽とも言えないは、あきらかに間違っています。「論理的に証明できない」からといって「真とも偽とも言えない」ことはないからです。聖書の記述が事実と間違っていることが明らかになれば、論理的証明がなくても、「間違っている」と言えるし、聖書の記述が事実と一致することが明らかになれば、論理的証明がなくても、「正しい」と言えます。論理的証明だけが聖書の真偽を決定する方法とは限りません。
つぎに、論理的証明とは、ある前提からある結論が論理の規則にしたがって推論できることを示すことですから、どんな前提から、聖書の真偽が推論されうるか、ということが問題にされるわけです。
まず、
「聖書の神は存在しない」という可能性が事実認識としてある以上、「聖書は真である、と論理的に証明できる」はずはありません。「聖書は真である、と論理的に証明する」ためには、聖書の神の存在に疑いの余地があってはならないからです。ゆえに、まず(a)はあり得ないとして消去できます。とは、どういうことでしょうか。「「聖書の神は存在しない」という可能性が事実認識としてある」というのは本当でしょうか。神を知っているものにとって、神の存在は事実ですから、「聖書の神は存在しない」という可能性はありません。したがって、そのような前提から、無条件に論議を出発させることはできません。水野さんには超能力があって、神を知っている者は過去にも現在にも世界中どこにも存在しない、と知っておられるのなら別ですが・・・。
そこで、次のような修正を行いましょう。
神を知らないものにとっては、神が存在しない可能性は認めねばならない。神を知らないものは、聖書が真であることを論理的に証明できない。しかし、これも間違っています。問題は「論理的証明」にあります。論理的証明ができるかいなかは、前提と前提から推論される結論との論理的関係に依存しているのに、水野さんは、前提を提示することなく、結論だけをまな板の上にのせて、「証明できない」と判断しているからです。(前提を無視して結論が論理的に真か偽であるかを決定できるのは、結論がトートロジーであるか自己矛盾しているときだけです。)
一般に、ある主張が論理的に証明できるかどうかはその前提がどのようなものかに依存しています。たとえば、神を知らないものも、「神は存在する」、「神が書いたものには間違いがない」、「聖書は神によって書かれた」、などを仮説として前提にすることができます。したがって、神を知らないものも、これらの前提から、「聖書には間違いがない(聖書は真である)」ことを論理的に導出する(証明する)ことができます。ゆえに、前提が無規定のままの主張
「聖書の神は存在しない」という可能性が事実認識としてある以上、「聖書は真である、と論理的に証明できる」はずはありません。・・・ゆえに、まず(a)はあり得ないとして消去できます。は、間違いです。
そもそも、(b)に関して、水野さんは
「聖書の神の存在は肯定も否定もできない」という事実認識は、聖書の神が「存在する」と「存在しない」というふたつの相反する可能性を含んでいます。したがって、「聖書は偽である、と論理的に証明」しようとするとき、「聖書の神は存在する」と仮定する立場と、「聖書の神は存在しない」と仮定する立場の両方からの考察が必要だ、と考えます。と言われているわけですから、(a)、すなわち、「聖書は真である、と論理的に証明」しようとするときについても、
「聖書の神は存在する」と仮定する立場と、「聖書の神は存在しない」と仮定する立場の両方からの考察が必要だ・・・と言えない理由がわかりません。一貫性に欠けているようです。
最後に、
「聖書の真偽について考える」とは、「聖書は偽である、と証明しようとする作業」であり、そのためには、「聖書の神は存在する、と仮定した立場から考えるべきである」ことが分かります。これはまさしく、「聖書の神の存在する可能性を無視すべきではない」という制限(行動規範)にほかなりません。というのも間違いです。第一に、上述しましたように、前提に無関係に結論の真偽が決定できる場合(トートロジーと自己矛盾)があるからです。主張に自己矛盾があれば、前提に無関係に、その主張が偽であることがただちに論理的に証明されます。そもそも自己矛盾があることを示すのが、主張が偽であることを論理的に証明することなのですから。
さらにまた、自己矛盾がなくても、主張と事実との間の不一致が明らかになれば、その主張も偽であることになります。したがって、「聖書は偽である、と証明しようとする作業」のために、「聖書の神は存在する、と仮定した立場から考えるべきである」ことにはなりません。
「物事を考えるとき神の存在する可能性を無視すべきではない、という制限を課す」とは、どういう意味なのか、いままで、いろいろ尋ねてきました。「物事を考えるとき神の存在する可能性を無視したくない」というのなら個人の自由ですから勝手にやってください、と言えるのですが、「・・・神の存在する可能性を無視すべきではない、という制限を課す」などと、聖書を学ぶものすべての人間の普遍的な行動規範として主張されているとすると、これは一体なんだ、価値観(生き方)の押し付けではないか、と疑問に思っていたからです。
しかし、それが、今回説明されたような意味であるとすると、どうやらこれは、「価値観の違い」ではなく、間違った主張のようです。
(2)「究極的に正しいもの」は究極的ではない
「聖書の神」と、本当に実在するかもしれない「神」は、切り離して考えることができるわけです。したがって、『「聖書が語る神の姿」が本当に実在する神の姿かどうか』を問題にする必要はありません。わたしが考えている対象は、聖書の中で語られる「聖書の神」であり、想像の中で語られる「本当に実在する神」ではないからです。水野さんのいう「究極的に正しいもの」とは水野さんの考える聖書の神の判断ですから、水野さんが「究極的に正しいもの」を問われるとき、水野さんの考える聖書の神の存在を前提にしてお話をされているわけです。そして、聖書の神を前提にするということは、聖書の語る神だけが唯一の神であり、全知全能という属性をもち、その神が存在することを前提にすることです。つまり、水野さん流の「究極的に正しいもの」について語ることは、水野さんの考える聖書の神こそが「本当に実在する神の姿」であることを前提にすることです。この二つは切り離すことはできません。「実在するかどうか」という問題ではなく、「究極的に正しいもの」を問うためには、聖書の神が実在することを前提にしなければならない、ということが問題なのです。そういう聖書の神こそが実在する、という前提(信仰、仮定)の下でのみ、「究極的に正しいもの」を問うことが意味を持つわけです。「聖書の神によって書かれた」と自ら主張し、聖書の神について多くの事柄を語る、聖書という本があるおかげで、わたしは「聖書の神」について知ることができます。したがって「聖書の神」について知ることは有限な人間にも可能です。
ところで、水野さんが、そのような聖書の神が実在することを知らないのであれば、水野さんの仮定される聖書の神の姿は、水野さんにとっては、神の実像ではなく、想像された神の姿(人間が勝手に心に中に作り上げる神像)にすぎないわけです。それが水野さんのオリジナルの神像であるか、誰か他の人(聖書を書いた人々)から借りた神像であるか、は問題ではありません。前回も述べましたように、水野さんが、そのような聖書の神が実在することを知らないのであれば、聖書を書いた人々が神について知っていたかどうかも知らないわけだからです。神を知らない人が考え語る神の姿とは、そのひとが勝手に心の中に作り上げた、想像されたの神の姿でしかあり得ません。したがって、神を知らない人間の考え語る「究極的に正しいもの」は、神の判断を「究極的に正しいもの」とするかぎり、究極的なものではありえません。
それは、「決定的証拠」と言い換えたところで同じことです。
実は聖書のほうが正しいかもしれないという逆転の余地を残している以上、科学や考古学などの知識は、「聖書は偽である」という決定的な証拠にはなりません。「決定的な証拠」が、水野さんの言われるように、神の判断を意味するかぎり、神を知らない人間の考え語る「決定的な証拠」は、その人の空想にしか過ぎませんから、決定的なものではありえません。人間が神を知るようになるのでないかぎり、「神による逆転」は永遠に知りえず、永遠に無意味な、空虚な概念でありつづけます。空想は、天動説が地動説によって覆されたように、知識によって逆転されます。
人間が神を知っているのでないかぎり、「究極的に正しいもの」「決定的な証拠」などという概念は、「地獄」とか「天使」とか「鬼」とか「竜」と同じレベルの、人間の知識の届かない事柄に属する人間の空想の産物であって、その存在を支えるいかなる根拠もありませんが、科学や考古学などの知識には、不完全ながら、たとえば、わたしたちの知覚経験という根拠があります。だからそれらは知識と呼ばれ、かつても、いまも、そして未来も、わたしたちの生に役立ち続けます。
神を知らない人間が考え語る「究極的に正しいもの」「決定的な証拠」は、ただその人がそのような空想をしている、というつまらない事実の他に、何に関する知識も与えることはないので、神を知らないかぎり、永遠に、何の役にも立たず、当然、正しいかどうかの判断の基準にもなりません。
わたしは、神を知らない人間の判断は人間の知識にしたがってやる以外にはなく、神の判断は神に任せておけばよいと思います。神を知らない人間が神の判断の領域に首を突っ込んで、ああだ、こうだ、とおしゃべりするのは、聖書の表現で言えば、神のように目が見えることを望んで食べてはならない「善悪の木の実」を食べる罪、勝手に神の神像を作り上げる罪、だと思います。
(3)「聖書は偽である、つまり、聖書も聖書の神も人間の創作である」と証明できた?
人間が罪を犯したためにきっぱりと断絶するべき、神と人間との関係が、罪を犯しても密接に続いていく創世記の描写は不自然で、アダムが禁じられた木の実を食べた罪の重さをまったく軽いものにしてしまいます。それは、アダムの罪をあがなうべく犠牲になったイエスの恥辱と苦痛の末の死、それによって表明された神の人類に対する愛などのキリスト教の中心教義を根底から崩壊させ、単なる滑稽な物語に変えてしまう、ゆゆしい間違いです。・・・よって、『「聖書の神の存在を肯定も否定もできない」という事実認識から逸脱することなく、「聖書は偽である、つまり、聖書も聖書の神も人間の創作である」と証明できた』、と考えます。
そのような「ゆゆしい間違い」の発見さえも、水野さんの「聖書の神」は究極的に覆すことができる可能性を残しているのではないですか?水野さんの「聖書の神」が水野さんの「証明」を、究極的に覆す可能性がここで否定されているとは思えません。そうするためには、どうしても、「聖書の神」が水野さんの「証明」を覆さないことを水野さんが知っているのでなければならないでしょう。どのようにして、「聖書の神」は水野さんの「証明」を覆さないことを水野さんは知ったのか、それが示されていないと思います。
しかし、「聖書も聖書の神も人間の創作である」と証明されていなくても、ここには、重要な聖書の間違い(矛盾)のひとつが示されています。すなわち、本来の聖書(旧約聖書)と新約聖書との間にある矛盾です。新約聖書(キリスト教)の色眼鏡を外して、創世記をそのまま素直に読めば、水野さんのおっしゃるように、「神と人間との関係が、罪を犯しても密接に続いていく」わけですが、それを「不自然で、アダムが禁じられた木の実を食べた罪の重さをまったく軽いものにしてしまいます」と感じるのは、新約聖書(キリスト教)の色眼鏡(「アダムの罪をあがなうべく犠牲になったイエスの恥辱と苦痛の末の死、それによって表明された神の人類に対する愛などのキリスト教の中心教義」)で創世記を読むからでしょう。キリスト教から聖書の世界に入ったものの宿命です。
しかし、本来の聖書(旧約聖書)は、もともと、そしていまも、ユダヤ教のものです。新約聖書(キリスト教)の色眼鏡を持たないで創世記(旧約聖書)を読むもの(たとえばユダヤ教徒)にとっては、水野さんの言われているような不合理の感覚はないでしょう。なぜなら、かれらにとって、イエスはキリスト(メシア)ではないからです。
イエスが生きていたときに、彼はユダヤ人が待ち望んでいたメシアだという主張がなされたが、彼が十字架刑にされ、その運動の政治的側面がくずされ、パレスチナがローマの支配から解放されないという悲しい現実のため、メシア説の根拠が薄れてしまった。また、イエスの復活信仰によって、メシアという通常はやや政治的な思想も辻褄が合わなくなった。こうした事実やイエスの死後の時代を背景に照らして、新約聖書の記者たちはイエスの生涯をただの人間的なものを越えたもっと深い意味のあるものと解釈している。彼の死後に熱烈な信仰を広めるためになされたこうした解釈こそが、ユダヤ教とキリスト教の分岐点である。(サミュエル・サンドメル、『ユダヤ人から見た新約聖書』、平野和子・河合一充訳、ミルトス)
多くのユダヤ教信者にとって、キリスト(メシア)とは、たとえば、バビロニアからユダヤ人を解放したキュロス王がそう呼ばれたように、イスラエルを敵国から救う王に与えられる称号です。ところが、初めは弟子達にそう期待されていたイエスは、イスラエルをローマ帝国の圧制から解放するどころか、ローマ帝国の役人によってあっけなく処刑されてしまったわけです。教祖の突然の死という危機をかれらがどう乗り越えたかを示す歴史的文書が「新約聖書」であるといえるでしょう。
つまり、教祖の死という危機に陥った弟子たちは、メシヤの役割を、本来の「通常はやや政治的な」ものから、別のもの(アダムの罪を贖うための犠牲の死、犠牲の小羊)へと新しい解釈をせざるを得なくなった、というわけです。この新解釈を正当化するためのさまざまな努力が「新約聖書」の本質的な性格となっています。そうなると、神と人類の間の断絶を生んだアダムの罪が重ければ重いほど、断絶が深ければ深いほど、かれらの教祖の死の価値が上がるわけですから、「悔い改めて神に立ち返れば、そこに神の導きと祝福がある」という本来の聖書(旧約聖書)のメッセージや、「悔い改めよ、神の支配は近づいているのだから」というイエス自身のメッセージのかわりに、「アダムの罪は神と人類の間に、われらの教祖の死を仲介にしなければ、取り戻すことのできない決定的な断絶を生んだ、よって、われらの教祖を信ぜよ」という弟子たちのメッセージがおおいに宣伝されることになります。キリスト教の誕生です。
人間が罪を犯したためにきっぱりと断絶するべき、神と人間との関係が、罪を犯しても密接に続いていく創世記の描写は不自然で、アダムが禁じられた木の実を食べた罪の重さをまったく軽いものにしてしまいます。それは、アダムの罪をあがなうべく犠牲になったイエスの恥辱と苦痛の末の死、それによって表明された神の人類に対する愛などのキリスト教の中心教義を根底から崩壊させ、単なる滑稽な物語に変えてしまう、ゆゆしい間違いです。という、水野さんの観察は、新約聖書(キリスト教)が本来の聖書(旧約聖書)から逸脱していることを示す、重要な指摘だとわたしは思います。
おたより、ありがとうございました。