このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。
00年3月30日
私の意見も載せていただき、コメントも頂戴し、ありがとうございます。
最後に私が述べました「要は認罪の深さの問題ではないかと思っております」という 点。ここが味噌です。エッセンス(本質)です。
認罪がなければどうでしょう。 たとえば、ああまことに「神は愛なり」と実感するような体験もしないでしょう。 「これまでの私の人生は間違っておりました。この罪人のわたしを憐れんでくださ い」と告白するような神との人格的な交わりの回復もないでしょう。 また、聖書理解も薄っぺらな、知識一偏の、まるで聖書に出てくるパリサイ人のよう なものでしかないでしょう。 つまり聖書の「霊的(心の奥底からの)理解」は不可能でしょう。
聖書はまな板の上に載せるけれども、「生まれつきの自分の知性や人間性」は、けっ してまな板には載せない、そうしたいのが「生まれつきの人間」の悲しい性(さが) とでも申しましょうか。
人が神を作ったのではなくて、神が人を造った。 私たちが聖書を云々するのではなく、聖書が私たちを云々している。
そう私は思います。
要は認罪の深さの問題だと思っています。
00年4月1日
人間には真実を知りたいという自然な欲求がありますから、その真実を知りたいという欲求を抑圧して、聖書については真実を知りたくない(はじめから聖書は真実であるというところから出発する、聖書の真実性を吟味しない、聖書の矛盾や誤謬には目をつむる)という、聖書主義者の特殊な姿勢が生まれるためには、それなりの特殊な理由がなければなりません。born-againさんのおたよりは、まさにその理由を教えてくださっていると思います。
つまり、born-againさんが言われるように、「認罪」(罪人であるお前を救ってやると約束する思想)にこそキリスト教の魅力、本質があるわけですが、そのために、そういう自分の救いに都合の良い約束してくれる聖書にはなにがなんでも真実であって欲しい、という聖書信仰が生まれていると考えられます。
このように、「自分にとって益になるかどうか」という判断が、「真実であるかどうか」という判断より優先されるということは、極端な例を挙げれば、裁判官が真実かいなかを事実を調べることによってではなく、賄賂の額によって裁断を下すようなもので、人間の社会ではしばしば見られるものです。
自分の益になるかどうかによって真実かどうかを判断する(罪の許しの感謝に満ちた「霊的(心の奥底からの)」聖書解釈をする)か、それとも、真実かどうかの判断に際してはそれが自分の益になるかどうかという問題を持ち込まない(「薄っぺらな、知識一偏の」聖書解釈をする)か。賄賂の量によって真実であるかどうかを判断する裁判官の生き方を選ぶか、それとも、賄賂の誘惑を無視して真実であるかどうかを判断する裁判官の生き方を選ぶか。人それぞれです。
おたより、ありがとうございました。