このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。
00年2月23日
こんにちは。先日お便りした水野です。
今日、ホームページを拝見しました。早速ご返事いただき、どうもありがとうございました。
佐倉さんのおっしゃる意味はよく理解できたつもりです。 確かに、人類が(聖書などによらず)直接神について知る由がない以上、 わたしの仮説は吟味批判の対象にはなりえません。 そういう類いの仮説を、あくまで仮説として受け流すか、 12使徒の幾人かのようにただち真理として信じ込めるか、 このあたりが信仰における分かれ道なのかもしれませんね。わたしは現在のところ前者ですけど・・・
ただ、繰り返すようですが、わたしが疑問に感じるのは、 要は、聖書無謬説者に向けて佐倉さんが書かれた次の論理の(1)に対してです。
(1)PならばQ (聖霊が働いて書かれたものは、すべて正しい)そもそも、「聖霊が働いて書かれたものは、すべて正しい」というのは、なんの根拠に基づく断定なのでしょうか? 聖書自体にそう断言している箇所があるのでしょうか? 確かに、
(2)しかるにQではない (間違いがある=すべてが正しいわけではない)
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(3)よってPではない (聖霊が働いてない部分がある=「聖霊はよく働かなかった」)
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、 誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(テモテへの手紙2、3章16節)とはありますが、ただ単に「有益です」としか述べていません。 「聖書の言葉には、いかなる間違いもない」と明言する聖句はどこかにあるのでしょうか?
なにぶん無知なため、そういう聖句をいまだ読んだ覚えがなく、 ほかに(1)を証明するすべを持たないため、(1)の前提を疑ってみたところ、 (3)の結論とは違う、とんでもない「仮説」へと飛躍してしまったわけです。 つまり、
聖書には間違いはあるが、それは神が承知の上でのもの、ねらいすましたものなのではないか。 聖霊は、実は充分に働いているのではないか。そんなひねくれた神は、余計にイヤですけどね。 ただ、少なくとも(1)の前提に立たなければ、聖書の間違いを認めつつも、 同時に、聖書が神の霊感を受けた書物である、とする主張の成り立つ余地があるのではないか、ということです。
以上です。 前回の返信にもあるとおり本サイトの目的にはそぐわない意見・質問ですので、無視してくださっても結構です。 もしなんらかのご返事がいただければ光栄です。
では、引き続きがんばってください。
00年3月5日
少なくとも(1)の前提に立たなければ、聖書の間違いを認めつつも、 同時に、聖書が神の霊感を受けた書物である、とする主張の成り立つ余地があるのではないか、ということです。
まったくそのとおりです。「聖霊が働いて書かれたものは、すべて正しい」ということに執着するから、間違いがひとつでも見つかれば「聖書が神の霊感を受けた書物である」が否定されてしまうわけです。
「はじめに」でも指摘していますように、「聖霊が働いて書かれたものはすべて正しい」という立場に執着しているのは、いわゆる「キリスト教原理主義者」と呼ばれる少数派であり、それに対して、聖書に間違いを認める立場は、ウェルハウゼンやブルトマン(「第二宗教改革」とわたしが呼んでいる近代聖書学)以来、キリスト教内でひろく認められている立場であり、今日では、おそらく、もっとも一般的なクリスチャンの立場だと思います。
そして、多くは、聖書の成立には何らかの神の関わりがあった、というぐらいの柔軟な立場をとっているのだと思います。それは、カトリック教会が、法皇の無誤謬性あきらめた --- たとえば、400年前、ガリレオに対して取った教会の立場が間違っていたことを、教会はやっと数年前公式に認めました! --- その後でも、自分たちの教会は神によって立てられた特殊な教会であり、神が法皇を通して働いていることを信じている、そういう立場とよく似ていると言えるでしょう。
そして、これらのこと(第一・第二宗教改革、教会や聖書の相対化)によって、どんな重要なことが起きたかというと、教会やクリスチャンの姿勢です。彼らは、自分たちの外側にいる人々と対話を始めたのです。宣教(イデオロギーによる征服)の代わりに! このことは十分評価する必用があります。自分が絶対的な真理を持っていると思い込んでいるかぎり真の対話(両側通行)は成立しないからです。
おたより、ありがとうございました。