ソロモンの厩舎(うまや)

列王記第一 4:26の「厩舎四万」という数は「四千」の誤写と一般に考えられています。ですから、改訂訳もその考えに従ったのでしょう。

神殿建築の工事責任の監督 および 町々の建設

列王記第一と歴代誌第二にあるこれらの「監督」に関する二つの記述は、分類の仕方が異なっているだけのようです。前者は3,300人に550人を加えて、合計3,850人をあげており(王一 5:16;9:23)、後者は3,600人に250人を加えて、やはり合計3,850人をあげています。(代二2:18;8:10)学者たち(エヴァルト、カイル、ミヒャリエース)は、歴代誌の数は3,600人の非イスラエルの監督と250人のイスラエルの監督を区別しているのに対し、列王記では監督を3,300人の従属の現場監督と550人の長なる監督に区別していて、この後者の数に300人の非イスラエル人が含まれていたのではないかと言っています。

鋳物の「海」の容量

列王記第一7章26節の記述によれば、その海には水が「二千バト入った」とされていますが、歴代誌第二4章5節の平行記述によれば、「三千バト入った」と言われています。中には、この相違は歴代誌の記述の書写上の誤りによるものだとする人がいます。しかし、いずれの場合も、「入る」を意味するヘブライ語の動詞は同じですが、この語を訳す際、ある程度の自由が許されています。ですから、列王記第一7章26節をその容器には2,000バト「入れてあった」、または「入った」と訳し、歴代誌第二4章5節をその容器は3,000バトの「容器があった」とか、3,000バト「入れることができた」、または「入った」と訳す翻訳家もいます。(「完訳聖書―アメリカ訳」、「エルサレム聖書」、「新世界訳聖書」)したがって、列王記の記述にはその容器に普通蓄えられている水の量が記され、歴代誌の記述には実際にその容器の縁までいっぱいにした時の容量が示されていると解することができるでしょう。

アハズヤがユダの王となったときの歳

佐倉さんが用いている翻訳は、歴代誌第二22章2節がマソラ本文やラテン語ウルガタ訳に基づいて訳されたようです。P・デ・ラガルト編セプトゥアギンタ訳やシリア語ペシタ訳では列王記第二8章26節と同じ「22歳」となっています。

ヨヤキンがユダの王となったときの歳

佐倉さんが用いている翻訳は、歴代誌第二36章9節がマソラ本文やラテン語ウルガタ訳に基づいて訳されたようです。セプトゥアギンタ訳やシリア語ペシタ訳では列王第二24章8節と同じ「18歳」となっています。

ヨシャファトの船団

これは矛盾しているのではなく、相互に補なっていると解すべきです。アハジヤはアカバ湾のエツヨン・ケべルにおける造船事業を進めるため、実際、ユダの王エホシャファトと海運同盟を結びました。その計画はアハジヤの邪悪さゆえに神の不興を買い、船団は難破してしまいました。(代二 20:35−37)列王記第一22章48,49節の記述によれば、アハジヤはイスラエルの水夫がユダの水夫に加わって船に乗り込む許可をエホシャファトから得たいと考えていたようですが、エホシャファトはその願いを退けました。もし、船が難破する前にこの願いが出されていたのなら、それは単に、エホシャファトがアハジヤを信頼しておらず、北王国による侵略を警戒していたことを示しているに過ぎないのかもしれません。もし、船団が航海に失敗した後にその願いが出されていたのなら、それはエホシャファトの部下の能力が乏しく、難船の責任がその部下にあったことをほのめかしていたことになり、したがって船を修理してイスラエルの水夫も一緒に乗せ、もう一度船を出すことを勧めるものだったかもしれません。もしそうだとすれば、エホシャファトは、神がその計画を明らかに非とされたことを認めて、アハジヤの願いを退けたのかもしれません。


列王記第一 4:26の「厩舎四万」という数は「四千」の誤写と一般に考えられています。ですから、改訂訳もその考えに従ったのでしょう。
写本間の相違は膨大な数に上るし、翻訳者もそれぞれの判断で勝手に書き換えたりしているため翻訳間の相違も膨大だし、わたしたちに伝わってきて、わたしたちの手元にある聖書は実に信用のできないものです。


学者たち(エヴァルト、カイル、ミヒャリエース)は、歴代誌の数は3,600人の非イスラエルの監督と250人のイスラエルの監督を区別しているのに対し、列王記では監督を3,300人の従属の現場監督と550人の長なる監督に区別していて、この後者の数に300人の非イスラエル人が含まれていたのではないか
そのようなことは聖書には何の根拠もなく、たんなる空想です。頭の中で聖書の内容を書き換えなければ、聖書の無誤謬性は主張できない、ということです。


「入る」を意味するヘブライ語の動詞は同じですが、この語を訳す際、ある程度の自由が許されています。ですから、列王記第一7章26節をその容器には2,000バト「入れてあった」、または「入った」と訳し、歴代誌第二4章5節をその容器は3,000バトの「容器があった」とか、3,000バト「入れることができた」、または「入った」と訳す翻訳家もいます。(「完訳聖書―アメリカ訳」、「エルサレム聖書」、「新世界訳聖書」)したがって、列王記の記述にはその容器に普通蓄えられている水の量が記され、歴代誌の記述には実際にその容器の縁までいっぱいにした時の容量が示されていると解することができるでしょう。
ここまでくると、聖書翻訳は犯罪といえるでしょう。


佐倉さんが用いている翻訳は、歴代誌第二22章2節がマソラ本文やラテン語ウルガタ訳に基づいて訳されたようです。P・デ・ラガルト編セプトゥアギンタ訳やシリア語ペシタ訳では列王記第二8章26節と同じ「22歳」となっています。
無数にある写本間の相違の、さらにもう一つの例ということで、聖書がわたしたちに伝えられる過程で聖霊は働かなかったことを示しています。


佐倉さんが用いている翻訳は、歴代誌第二36章9節がマソラ本文やラテン語ウルガタ訳に基づいて訳されたようです。セプトゥアギンタ訳やシリア語ペシタ訳では列王第二24章8節と同じ「18歳」となっています。
またまた、無数にある写本間の相違の、さらにもう一つの例ということで、聖書がわたしたちに伝えられる過程で聖霊は働かなかったことを示しています。


・・・のかもしれません。・・・だったかもしれません。もしそうだとすれば、・・・かもしれません。
聖書の矛盾を調和化するには想像力が必要です。