京都市に住む有本康夫です、何辺かお便りしてるので知っていただけておられればありがたいです。
全くマイナーでルカ文書を研究しているんですが、ルカ文書なりパウロの自筆と思われる書簡を読んでいると、何処かしこに「エルサレム教会」と言う言葉と「ヤコブ」と言う人物が、出てきてキリスト教の成立に欠くわけにはいかない物である事が解るのですが、何処の教会へ行っても詳しく教えてもらえません...なぜなんでしょうか...
イエスの使徒達が作ったのは、間違えなく「エルサレム教会」ですよねぇ...それで、その教会は最初ペテロが宗主で多分成立一年位後にイエスの弟のヤコブが引き継いで「エルサレム教会」の宗主になってますよねぇ
それと歴史上重大なパウロの回心を許して使徒の仲間に入れたのはヤコブ達だと使徒言行禄に書いてあるんですが、そうすると、パウロはヤコブの部下の様な気がするんですよ..あの歴史的に重大な「エルサレム会議」にしても、どうもヤコブが宗主として裁断している様な気がしますし、ヤコブと言う人物が、重要な人だと思えてならないのですが、どうでしょう...取り留めなくてすみません
「イエスはどんな人」の有本さん、お久しぶりです。
ルカの書いていること(使徒言行録)をそのまま受け取ると、確かに、おっしゃるように、「パウロはヤコブの部下」のように感じられます。しかし、当のパウロ自身の記述(たとえば、ガラテヤの信徒への手紙)を見ますと、ルカの記述をそのまま信用することはできないと思われます。
ガラテヤの信徒への手紙において、パウロは、かれがエルサレムの支配の下にないことをくりかえしくりかえし強調しています。
わたしが使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。(1:1)パウロによれば、イエス・キリストの啓示を受けてすぐ、かれはアラビアに出ていった、と言っています。そこで何をしたか、かれは何も書いていませんが、それは、Victor Paul Furnish (註1)が指摘するように、ここでパウロが言いたいのは、何をしたかではなく、何をしなかったか、だからでしょう。すなわち、かれは、エルサレムの使徒たちの命令に従っているのではない(エルサレムの教会が神の権威の代表なのではない)、ということをガラテヤの信徒に向かって一生懸命強調しているわけです。兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(1:11〜12)
生まれたときから私を選び分け、恵をもって召して下さった方が、異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。それから三年後に、私はケパをたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。しかし、主の兄弟ヤコブは別として、他のだれにも会いませんでした。わたしがあなたがたに書いていることには、神の御前で申しますが、偽りはありません。(1:15〜20)
たとえば、パウロによれば、彼の福音は「人間(エルサレムの使徒たち)から受けなかった」のであり、「イエス・キリストの啓示によって受けた」のでした。また、啓示を受けてすぐ、かれは「人には相談せず、先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず」、アラビヤに行ったのでした。アラビヤから帰って行ったところも、使徒たちのいるエルサレムではなく、ダマスコであり、しかも、ケパ(ペテロ)を訪ねるためにエルサレムに上ることになるのはそれから3年も後のことです。そして、ケパ(ペテロ)のところに滞在したといっても、わずか15日間で、それも、その間、イエスの弟ヤコブは例外として、「他の(使徒の)だれにも会いませんでした」と強調しています。そして、そのことについて、「わたしがあなたがたに書いていることには、神の御前で申しますが、偽りはありません」と、わざわざ念を押しています。要するに、パウロは、かれと(したがって福音と)エルサレムの使徒たちとはほとんど何の関係もないことを弁明しているわけです。
そして、この次にパウロがエルサレムに上るのは、このときから実に14年も後のことです。あの「使徒会議」です。
それから十四年たって、私はバルナバといっしょに、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。それは啓示によって上ったのです。(2:1〜2)ここでも、パウロは、エルサレムに上ることになったのは、エルサレムの使徒たちの命令によってではなく、「啓示によって上った」とわざわざ念を押しています。問題となっていたのは、よく知られている通り、非ユダヤ人の信者も律法(とくに割礼)を守るべきか、というものです。
異邦人の間で私の宣べている福音を、(エルサレム教会の)人々の前に示し、おもだった人たち(イエスの弟ヤコブ、そしてペテロやヨハネ)には個人的にそうしました。それは、私が力を尽くしていま走っていること、またすでに走ったことが、無駄にならないためでした。(2:2)結果は、パウロにとって成功だったようです。
わたしたちは、片時も[異邦人の信者も律法をまもるべきだと主張する者たち]に屈服して譲歩するようなことはしませんでした。おもだった人たちからも強制されませんでした --- この人たちがそもそもどんなひとであったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。--- 実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。・・・また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルバナに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは、異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。(2:5〜10)
ひとつも譲歩しなかった、「ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでした」、というのがパウロの記述です。
ところが、このエルサレム会議に関するもうひとつの記述、すなわちルカの「使徒言行録」をみますと、一種の妥協案が決議されています。割礼はしなくてもよいが「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行為とをさけること」は守らねばならない、という妥協案が「満場一致」で決定されたことになっています。(使徒15)
パウロの手紙はまさに当事者の記録ですが、ルカの記録は30年ないし50年ちかくも後に書かれた歴史書であり、資料としては、パウロの手紙に比べると、二次的なものと考えなければならないでしょう。そう言えば、ルカの記録(使徒言行録)に登場するパウロの語る言葉は、パウロの手紙の中にあるものと比べると、これが同じ人の考えかと思うほどつまらないものです。いろいろな事件そのものは資料によるのでしょうが、こまかいところはルカの創作なのではないかと疑いたくなります。少なくとも、パウロ自身の手紙から推測すると、ルカが想像させるような「パウロはヤコブの部下」ではなかったように思われます。