ユダがエノク第1書を引用したことを書くなら、ついでに以下の記述についても指摘したらどうですか?
「御使いのかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時、相手をののしりさばくことはあえてせず、ただ、『主がおまえを戒めて下さるように』と言っただけであった。」(「ユダの手紙」第一章九節)
こんな文は正典のどこにもありません。それもそのはず、これは偽典『モーセの昇天』からの抜粋だからです。もっとも、モーセの昇天は、わずかなギリシア語断片しか残っていない失われた聖典なので、いちがいに偽典だとは言いきれませんがね。
ところで、申命記にモーセの死の記述がある以上、モーセ自身が書いた書物では絶対あり得ないとありましたが、そうとも言いきれませんよ。古代ユダヤの伝承には「モーセは死んだのではなく、神に隠されたのだ」ってのがあるからです。例えば、歴史家フラウィウス・ヨセフスは「ユダヤ古代誌」のなかで次ぎのような主張をしています。
――そして彼は、エレアザルとヨシュアに別れの挨拶をして、しばらく言葉を交わしていたが、突然、一団の雲が彼の上に降りてきたかと思うと、そのまま峡谷の中に姿を消した。もっとも、モーセ自身は、聖なる文書において、自分がそこで死んだと書いている。彼のあまりにも高い徳のために、彼は神のもとへ帰ったなどと人々が口にするのを危惧したからである。――(ちくま学芸文庫出版、秦剛平訳から引用)
正典でも「モーセは・・・目はかすまず、気力は衰えていなかった」や「今日までその墓を知る人はない」という意味ありげな記述で、このことを示唆しています。
NO−MU
ご指摘のように、新約聖書は偽典や外典の思想に多くの影響を受けています。ユダの手紙の場合は、それが単なる言及ではなく、直接引用であることが明確、という点においてとくに意義深いものです。
モーセの死と申命記の著者について。
こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のそのところで死んだ。・・・モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。イスラエル人はモアブの草原で、三十日間、モーセのために泣き悲しんだ。そしてモーセのために泣き悲しむ期間は終わった。・・・このような申命記の記述を、モーセ自身が書いたと主張するのは困難でしょう。(申命記34章5〜8、新改訳)
しかし、ご引用されているヨセフスの記述は、同時代に書かれた数多くの偽典や外典や新約聖書の書かれた場所や時代が、偉大な人物(エノクやモーセやイエス)を死をも超越する神人として平気で信じることができるような、迷信を信じやすい特殊な土地柄であり時代であったことを、現代のわたしたちに教えてくれる点においてとても貴重なものだと思います。どうして、死人がよみがえるとか、水の上を歩るくとか、人間に取りついた悪霊が豚の中に入ったとかいった荒唐無稽な話が新約聖書にいっぱい出てくるのか、その時代背景や土地柄がよりよく理解できます。