ずいぶん前に二度程メールを差し上げたものです。
今日は、佐倉さんにお礼を申し上げようと思い、メールをいたしました。
何に対する感謝かと言えば「これ」ということではないのですが、 貴殿のHPを読ませていただいてから、私のなかにあった(あったと思っていた)信仰 について考えさせられる日々がつづきました。
以前にも申し上げましたが、私は幼いころから教会へ両親とともに通っており、いつ の日か神を信じ、また信仰者としての歩みをするようになったのですが、確かにあな たのような知識も情報もなく(ある意味では閉ざされていたのかもしれませんが)30 年がたち、自分には誤り確信のある「信仰」があると思っていました。
したがって聖書の語るすべてのことを信じていると思っていましたし、また、聖書は 誤りなき神の言であると信じてきましたから、それを「守って」いきて行くのが私の 生き方であると信じていました。
しかし、私は「人」として、または「社会人」として最低の人間である事をしる出来 事が最近ありました。いえ、最近の出来事というよりは幼いころから自分の中にある 人間として最低といえる部分を持っており、それが明らかにされるような出来事が あったのです。
その事は、クリスチャンとか人間とか言う、もっとそれ以前の問題です。
ここでその出来事についてをお話することが適切かはわかりませんので、それについ て詳しくお話することはできませんが、確かに誰に話しても「最低の人間」として レッテルを貼られることになるでしょう。
とにかく、そのことを通して、私にあると思っていた「信仰」など一欠けらもない事 に気づいたのです。
あなたが以前私が出したメールに対して「そんな不確定なものを私は信じようとは思 いません」とありました。おっしゃる通りです。聖書から知るだけの神やキリストや 聖霊と言ったものをどうやって信じたら良いのか、私にもさっぱりわからなくなって しまったのです。
しかし、その「ある出来事」を通して、私にあるどうしようもない弱さ、私の中にあ る究極的な人間として最低なもの、これをたった今から変えることができることがで きるとするならば、それは「全能の神」といわれる神以外にないし、ありえない、と 確信しました。
私にある「あるもの」は人の心を恐怖に落とし入れ、私の存在はもちろんのこと、私 とかかわっている相手自身の存在おも不安定にしてしまう、それほど迷惑なものであ り、即刻解決をしなければならない、といったものなのですが、それを瞬時に、求め るものから与えるものに変えて下さるのは、やはり「全能の神」以外にはないので す。
この「全能の神」が聖書の語る「神」であるのか、またそうではないのかということ は私にはあまり意味がなくなりました。 ただ、聖書によって約束された神の与えたもうものを信じる以外に私がそのことから 自由になるすべがないのです。
聖書は、信じるものにとって「神の約束」です。 聖書に語られることが真実かどうか、事実かどうかなんていうことは神と私の間、神 とその神を信じることを赦されたものにとってはもう同でも良いことです。 神が必ずそのこと(神の約束)をなしてくださると信じること、そしてそうなってい く過程を目前に見ていくこと、それを手にして確認することができるのですから、他 に何がいるでしょうか。
私があなたに感謝するのは、私は自分自身であなたのような頭の良い、知識もあり、 整理された考え方のできる人間であり、あなたと互角に渡り合うことのできるもので あると思っていましたが、こうした出来事を通して、あなたのような、神を信じるこ とを必要としない、聖書を、人の手によって試行錯誤の末出来上がったおかしな本で あるといえる、そんな整った人間ではなかったことがわかったことです。
あなたの言う不確かな「神」を信じなくてはなにもすることができない、いや、何で もしてしまうそんな「私」であったこと、そのことをあなたは明確にしてくださいま した。
こうして文章にしますと、嫌味や皮肉にとらえられてしまうかもしれませんので、あ えて申し上げますが、本当に、本心から感謝をしているのです。
しかし、もう、あなたのHPを見ることもないと思います。 なぜならば、私には必要がなくなったからです。
最後に、申し上げたいことがあります。
残念ですが、貴方も神に捉えられていると思います。 そして、必ず、「イエスは主です。」と告白する日が来るでしょう。 神様はそういうお方です。
では、お元気で。
私にあるどうしようもない弱さ、私の中にある究極的な人間として最低なもの、これをたった今から変えることができることができるとするならば、それは「全能の神」といわれる神以外にないし、ありえない、と確信しました。橘さんは、キリスト教の神髄とでも言えるものに触れられたのだと思います。人間は罪の力の下にある存在であり、そこから、自分で自分を救うことは不可能である。神からの救いの力に依存するだけが人間に残された希望である。これはキリスト教の最大の魅力だと思います。他力信仰は、「自分に都合の良い、勝手な信仰である」、となどと皮相的な批判をされますが、そのような他力信仰批判、あるいは単純な自力信仰(努力崇拝)は、自己省察の浅薄さを示すだけだ、とわたしも思います。橘さんは、キリスト教の最大の魅力を発見されたのだと思います。私にある「あるもの」は人の心を恐怖に落とし入れ、私の存在はもちろんのこと、私とかかわっている相手自身の存在おも不安定にしてしまう、それほど迷惑なものであり、即刻解決をしなければならない、といったものなのですが、それを瞬時に、求めるものから与えるものに変えて下さるのは、やはり「全能の神」以外にはないのです。
問題は、まだキリスト教の最大の欠点に気がついておられないことです。すなわち、キリスト教は、まだ、罪の力からだれ一人として救ったことがないという事実です。新約聖書は、キリストを信じることによって救われるという約束をしまます。信じる人は罪の刑罰から赦されると約束します。しかし、人を実際に罪の力から解放する方法は持ちません。しかも、橘さんのもとめておられるものは、まさに、キリスト教が与えることのできない、罪の力からの解放(「即刻解決をしなければならない、といったもの」)なのです。
すでに多くの人がもう気がついてしまったように、橘さんも、やがて、その事実に気づくことでしょう。そして、人間は愚かな存在ですが、その愚かさを持ったまま、それでも、キリスト教なしに人間は何とかやっていくことができる知恵も、また、身に付けているという事実に気がつくことでしょう。そして、キリスト教を信じていてもいなくても、人間は大して変わらないという事実に気がつくことでしょう。つまり、キリスト教は人類にとって、あってもなくてもよいものであることに気がつくことでしょう。あってもなくてもよいものなら、無理をして、本当はなにも知りもしない事柄(神、霊界、あの世、永遠の命、原罪、十字架による贖罪、聖霊の導き、等々)について、まるで知っているかのごとく確信し、振る舞う必要もないのです。